小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

福沢諭吉は日本の「周回遅れ」を憂えていた

2017年10月24日 21時19分05秒 | 思想



福沢諭吉について本を書いています。
彼は真正のナショナリストでした。
その心は、当時列強の脅威に取り巻かれる中で、日本の独立を
真に成し遂げるには何が必要かを一心に考え抜いた人

という意味です。
いまの言葉で言えば、グローバリズムと真剣勝負をした人なのです。

しかし彼はしばしば欧化主義者とか平等主義者とか
単純な開化主義者といった誤解を受けてきました。
そういう理解は、彼の言葉の断片だけを、自分に都合のよいように
切り取ってきて解釈するところから生じたものです。

いまここに、明治12年(1879年)に書かれた
「民情一新」という福沢の論考があります。
この論考は、西洋で蒸気機関、電信、印刷、郵便が
発明されたことによって、人民の生活や意識に
どんな変化が生じたかを論じ、日本もそれをよく参考にして、
これからの進むべき道を説いたものです。

その「緒言」に、次のような一節があります。
(わかりやすくするために、一部の漢字は平仮名に、
仮名遣いと送り仮名は現代風にし、難読漢字には
カッコ書きで読みを付します。)


「しかるにここに怪しむべきは、わが日本普通の学者論客が、
西洋を盲信するの一事なり。十年以来、世論の赴(おもむ)く
ところを察するに、ひたすら彼の事物を称賛し、これを欽慕
(きんぼ)し、これに心酔し、はなはだしきはこれに恐怖して、
毫(ごう)も疑いの念を起こさず、一も西洋、二も西洋とて、
ただ西洋の筆法をもって模本(もほん)に供し、小なるは衣食
住居のことより、大なるは政令法制のことに至るまでも、その
疑わしきものは、西洋を標準に立てて、得失を評論するものの
如し。奇もまたはなはだしというべし。今日の西洋諸国は、
まさに狼狽(ろうばい)して方向に迷う者なり。他の狼狽する
者を将(とっ)て以てわが方向の標準に供するは、狼狽の最も
はなはだしき者に非ずや。」


これを読んだ方、「これっていまの安倍政権のことじゃないの」
と思いませんでしたか?
筆者はすぐに移民政策、規制緩和、国家戦略特区、派遣法改悪
のことなどを連想しました。
そうして「わが日本普通の学者論客」という言葉からは、
竹中平蔵氏の顔が思い浮かびました。

この引用文の中で、「今日の西洋諸国は、まさに狼狽して方向に
迷う者
なり」という指摘があります。
1870年代当時、ヨーロッパ大陸では普仏戦争後の混乱が続き、
特にフランスではパリ・コミューンが成立、すぐ鎮圧されたものの、
その後もヨーロッパ中で労働運動が大きな社会勢力となっていきます。

マルクス=エンゲルスによる「共産党宣言」が1848年、
第一インターナショナルの結成が1864年、
アメリカ南北戦争が1861年から65年ですから、
福沢が「狼狽」という言葉で表現しているのは、
この19世紀後半の欧米における階層社会の大きな流動化
意味していると見て間違いないでしょう。

じっさい福沢は、この少し前のところで、「人民への教育が広まる
ことはけっこうなことだけれども、それによって身分の低い労働者の
不平不満はかえって高まり、金持ちの権力や財産を犯して、遂には
国の秩序を害することになるだろう」というウォークフィールドの
論を引いて、ヨーロッパにおける当時のブルジョアジーの不安と懸念を
紹介しています。

文明の発達による人間交際の活発化は、よいことばかりではなく、
新たな社会問題の種ともなります。
そこで福沢は、発明が引き起こす「民情一新」に対しては、
その変化の「実況」に応じて事に処することを心得た者だけが
文明を語る資格がある、と結論づけています。

まことにそのとおりで、これを現在に引き寄せて言えば、
経済的自由主義、つまりグローバリズムの進展が国家の秩序や国民の
安寧を脅かすような「実況」が出現すれば、そのつどその事態を
正確に見抜いて、適切なコントロールを加えることのできる人材や
方法論
が必要とされるわけです。

いまの日本の政治は、残念ながらそのようになっていません。
欧米の移民・難民問題が深刻化して、すでにどの国も「狼狽」の
状態にあり、規制に乗り出しているにもかかわらず、安倍政権は
これから移民政策を積極的に取ろうとしています。
また自由貿易主義の建前が、じつは強国や一部の富裕層の欲望を
満たすにすぎないという事実に、安倍政権は少しも気づかず、
せっせとその受け皿づくりに励んでいる始末です。

福沢が、「その疑わしきものは、西洋を標準に立てて、得失を評論
するものの如し。奇もまたはなはだしというべし。」と嘆いた事態を
いまの日本の政治は相変わらず繰り返していることになります。
彼は、この日本の「周回遅れ」の情けなさを早くから感じ取り、
そのもたらす弊害を予言的に憂慮していたのでした。

福沢が願った「一国の独立」つまり健全なナショナリズムは、
いまだに果たされていないというべきです。


【小浜逸郎からのお知らせ】
●11月12日(日)、14:00より、ルノアール新宿区役所横店で、哲学者・竹田青嗣氏との公開対談を行います。
テーマは、「グローバリズムとナショナリズムのはざまで」
詳しくは、以下。
https://mdsdc568.wixsite.com/nichiyokai
●『表現者』連載「誤解された思想家たち第28回──吉田松陰」
(10月16日発売)
●来年は明治150年です。これを期して、いま、『福沢諭吉の闘い方』(仮)という本を書いています。まだだいぶ時間がかかりそうですが、なるべく早く書き上げます。どうぞご期待ください。