小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

誤解された思想家たち日本編シリーズ(10)――伊藤仁斎(1627~1705)

2017年10月14日 12時40分25秒 | 思想



 このシリーズのもとになっていた論考は、西部邁氏が主宰されている隔月誌『表現者』に連載してきたものです。はじめは西洋の哲学者中心に続けていたのですが、二回目だけは、孔子(孔丘)を論じました。
 その後、計14回まで続け、孔子を除いた13回分を『13人の誤解された思想家』(PHP研究所)として単行本にまとめました。それ以降も連載を続け現在に至っていますが、こちらは、日本の思想家を取り上げてきました。
 しかし、連載原稿の枚数は限られていますので、必ずしも意を尽くさない憾みがのこります。またなるべく多くの人に目を通してほしいという筆者の願いが叶うにはおのずと限界があります。そこで、加筆修正を加えながらこのブログ上に掲載することにしました。


 さて二回目で孔子を取り上げた時、筆者は、『論語』というのは学識豊かで視野の広い人生の苦労人が弟子たちとの親密な交流を通して一種の「世間知」を説いたものだという理解を示しました。だからこそ二千五百年もの間その偉さが伝えられてきたのだと。
 浅学の謗りを覚悟で言うなら、儒者・伊藤仁斎はこのような理解に道を与えてくれることに最も貢献した思想家です。
 彼が中国儒教の哲学体系である朱子学に敢然と、かつ執拗に闘いを挑み、独自の思想的境地を開いたことは有名です。その大胆不敵・不撓不屈の構えは、イエスのパリサイ派に対する、ガリレイのスコラ学に対する、法然の聖道門に対するそれに比すべきものといえましょう。
 仁斎がやったことは、ひとことで言えば、朱子学の頑迷固陋な形而上学性を完膚なきまでに解体したことです。このことによって彼は、中国思想への追随と咀嚼・吸収の過程からの脱却を果たし、日本の学識者が長きにわたって意識下に沈潜させてきた中国コンプレックスからの解放を成し遂げたのです。
 日本で朱子学が学問の中心を占めるに至ったのは、言うまでもなく、林羅山が藤原惺窩の推挙によって家康に仕え、御用学問として権威をふるってからですが、それからわずか数十年後に、早くもその権威に対して、儒者自身による内在的な批判が発生したことになります。
 仁斎の後に登場した荻生徂徠、富永仲基、石田梅岩、本居宣長らは、それぞれ学風を異にしていますが、みな、仁斎のこの脱中国思想という功績の恩恵を直接・間接に被っています。
 もっとも徂徠は仁斎に批判的でしたが、それでも仁斎がいなければ、自由に儒教思想を相対化する言論の地平が開かれることはなかったでしょう(後述)。
 もちろん仁斎は、仲基や宣長と違って儒の教えにどこまでも忠実で、特に孔孟の二人を絶対的に尊敬していました。しかし彼が現実になしたことは、徳川家の御用学問であり知の殿堂としてそびえていた朱子学の権威を、その内部に入り込んで換骨奪胎することだったのです。
 朱子学の頑迷固陋な形而上学性と言いましたが、これには言語の問題が大きく絡んでいると私は見ています。
 中国語は孤立語と呼ばれるように、活用も時制もなく文字に記した時には漢字の羅列として表現されます。これは日本人にとって石のように堅固なものという印象を与えたでしょう。
 ことにそれが抽象的なキーワードである場合、いったいこの字はどういう概念なのかという疑問を強く喚起します。しかもそれらはほとんどの場合、一字で表されます。天、地、道、仁、義、礼、智、信、勇、性、理、情、忠、孝、悌、親、別、誠、直などなどきりがありません。
 日本人はこの事情に対して長い時間をかけて、やまとことばとの間に照応関係を見出そうとしてきました。訓を当てたり、日本語の統辞法に合った読み下し方を考案したり、宣長の言う「緒」の連なりの途中に「玉」に当たる部分として組み入れたりすることによって。

 ところで宋学(朱子学)が大成されたのは、孔子や孟子の時代からすでに千五百年後のことです。その間にはいくつもの王朝の交代があり乱世もありました。こうなると同じ中国とはいっても、はるか昔の聖人の言を巡って、この字の本当の義は何かといった整理をする必要が出てきます。
 もともと表意文字である漢字にはそういう神秘性が具わっています。だから宋代には、孔孟がどういう生活文脈でこの文字を使ったのかわからなくなっていたと想像されます。
 いやはや、ああでもない、こうでもないといったにぎやかな議論が長年にわたって湧きたったことでしょう。
 やがて程子、朱子のような大家が登場して、孔孟が唱えた真意とは一応独立に、字と字との連関を、宋の時代に使われていた概念にもとづいて体系化してみせます。
 この試みによって、一字一字はそれだけでかえって、何やら深遠な重みを増すことになります。つまりは形而上学の誕生です。だから事情は本国においてもそんなに変わらない。これが日本の知識界にも襲いかかったのです。
 朱子学の形而上性と仁斎によるその批判とは、具体的には次のようなことです。
 朱子学的考えによれば、天道は気すなわち陰陽の動きとして現象しているが、その現象を現象たらしめている「本体」がありそれは理である云々。これに対して仁斎は次のように批判します。

考亭(朱子のこと――引用者注)以謂らく、陰陽は道に非ず。陰陽する所以の者、是れ道と。非なり。陰陽は固に道に非ず。一陰一陽、往来已まざる者、便ち是れ道。考亭本太極を以て極至とし、一陰一陽を以て太極の動静とす。繋辞(『易』繋辞伝――引用者注)の旨と相悖ること太甚しき所以なり。》(『語孟字義』上、天道1)

 確かに陰陽は天の道ではないが、一陰一陽が絶えず行き来している「こと」そのものが「天の道」なのであって、太極なる「実体」がそれを動かしているわけではない――この批判は、西洋哲学で言えば、プラトニズムにおけるイデアの設定に対する批判と同型をなしています。
 イデアなどという「もの」はない。知覚現象があるというその「こと」だけが疑い得ない与件である――これは、たとえばバークリーや現象学の立場です。
 仁斎は現象の「ありのまま」を現象として認めよと説いて、哲学言語の陥りがちな「概念の実体化」とは逆の見方を提出しているわけです。
 漢字は一字で重要な概念を表すのでそれを実体と見なしやすく、そのため知識人は経験を踏まえない形而上学的遊戯に陥る危険がある旨を述べました。
 漢学の素養によって思考する他なかった仁斎もまた本来の字義を糺すという方法でこの危険な世界に入って行きました。主著『語孟字義』『童子問』はまさにその方法によっています。しかし成果として出てきたのはかえってこの危険な傾向を突き崩すものでした。

 また朱子学のいわゆる理気二元論では、万物の質や材料は気によるがその内在的原理は理であるとされます。論理的に理が気に先立つわけで「初めに理ありき」ということになります(理が先か気が先かという議論もあったようですが)。
 するとすぐ連想されるのが、ヨハネ伝の第一句「はじめに言葉(ロゴス)ありき」です。両者は酷似してはいないでしょうか。
 ヨハネ伝は四福音書の中でも際立って思弁的で、イエスの言行録に論理的な基礎づけを割り込ませている強引な意図があらわです。
 ところで両者が酷似している事実は、その由来はともかくとして、中国大陸とヨーロッパ大陸とが意外なほど同じ発想を取っていることを象徴しています。つまり経験的事物を超越した抽象観念(その窮極は善のイデアや唯一神や太極などの観念表象)をより高いものとして仰ぐのです。
 これはもちろん、自然や人との直接的・現在的な交わりに深い自己同一性を見出す日本人古来の思考様式に合いません。仁斎が朱子学の宇宙論的発想を受け入れず、天地は「いま」生き生きと動いているという活物的世界観を唱えたのもむべなるかなです。彼はすぐれて日本人だったのです。

 仁斎は若い頃朱子学に心酔しますが、ほどなく不安神経症になります。彼が神経症に苦しみながらも朱子学と格闘した末に達した境位とは何でしょうか。
 それは高遠難解な哲学的思考のうちに孔孟思想の真価が宿るのではなく、普通の人々が毎日の交流を通して互いにとって「よきこと」を実践しようと努めているその営みにこそ、仁義礼智、孝悌忠信などの徳が実現されているという確信でした。
 彼はその倫理学的把握を「人倫日用」というキーワードで表します。そうして孔子や孟子もまたそれを求めて止まなかったに違いない、彼らが聖人と呼ばれるのは普通の人の到底及ばない徳の最高の実践者であったからではなく、むしろ「人倫日用」における徳の実践の大切さを教えとして明示し、人々を自覚に至らせようとした点にあるというのです。
 仁斎はまた、『論語』中の「君子の過ちや、日月の食の如し。過つや人皆之を見る。更むるや、人皆之を仰ぐ」(子張21)という語を引いて、聖人も人間だから過つことがあるとはっきり述べています。
 さらに彼は、高遠なところに上った者は必ず卑近なところに還ってくると説いて、卑近のうちにこそ本来の道が顕れるとも言っています。
 また彼が頻用する「学者」という用語は私たちが普通イメージするのとは違って、貴賤賢愚の別なく、徳とは何かをひたすら追究して自らの日々の実践に活かそうと心がける者のことを指します。
 こうして仁斎は道徳の拠って来たる所を、宇宙の原理(天道)のようなどこかの高みに置くのではなく、あくまで直接的な人間どうしの関係に置いていました。私はこの捉え方に一種の感動を覚えます。
 仁斎の生活第一主義的な把握は、単に朱子学の形而上学に対する反措定であるのみならず、近代西洋哲学の雄カントの倫理学説に対する鮮やかな転回にもなっています(拙著『13人の誤解された思想家』参照)。
 仁斎は儒学への関心をもっぱら道徳の実現に差し向けました。これさえしっかり確立されれば世の中は必ずうまく治まると考えていたのです。孟子のいわゆる「性善説」解釈もこの考えに沿ったものです。
 それによれば、人は天性として善であるというのではなく、もともと四肢を持つのと同じように「四端の心」を持ち合わせている(四端とは、善に到達するための惻隠、羞悪、辞譲、是非の「糸口」のこと)。それに適切な教えを施せば、ちょうど山間の水が低きに流れて大海に注ぐように、また小さな芽がやがて大木として成長して雲にまで達するように広がり、万世に徳が行き渡るというのです。人倫日用を孔孟思想の本旨とする限り、このような解釈になるのもそれはそれで当然と言えましょう。

 しかし利害角逐が当然の複雑多様な世界に住む私たち近代人なら、そんな甘くはないよとすぐ言いたくなるはずです。
 一人一人が身を修める構えとしてはそれでよいし、道徳が行き渡ることも世が丸く治まるための大切な条件の一つかもしれないが、どうしようもない犯罪者に処するには厳しい法も必要だし他国と相渉る時には敵を欺き丸め込む巧智も必要だろう。むしろ韓非子やマキャヴェッリにこそ学べと。
 たしかにその通りで、孔孟=仁斎の徳治主義は現代では当てはまらないとして批判することは簡単です。しかしどちらが正しいかをいま争っても始まりません。むしろここでは、この仁斎が辿った孔孟思想の解釈の道筋とはまた違った解釈を立てて仁斎を批判した荻生徂徠の立場を瞥見し、両者の相違が日本思想史にとって持つ意味を考えるほうが生産的です。
 徂徠は概ね次のように仁斎を批判しました。論語にせよ孟子にせよ、仁や慈愛の必要を説いたその対象は君子集団であって、人民に対してではない。その証拠に彼らはしきりに堯、舜、文王などの聖人や先王を模範として引いて、経世済民、つまりよき統治のために何が必要かを説いている。仁斎先生は誰かれの区別なく慈愛の精神を拡充していけば世が平安になるとの説を弄しているが、この君子集団から外れてしまったら、ただ性を異にする雑多な民衆が残るだけだ。
 この批判はなかなか鋭く的確ですね。
 要するに徂徠は孔孟の道徳思想を統治のための学(帝王学)と見ていたわけです。事実、孟子の場合は特にその傾向が強く、問答に登場するのは王、諸侯がほとんどです。そういう面を強調すれば、たしかにそこで説かれている道徳命題を安易に人民にまで広げることはできません。
 さてこの解釈の違いが日本思想史上何を意味するかといえば、これは丸山眞男の『日本政治思想史研究』の中ですでに克明に説かれています。いわく、江戸時代前期における儒教思想の歩みは朱子学の混沌とした理気二元論を変質させていった。それは自然と作為(人為)とを明瞭に分化させてゆく過程であり、さらに進んではその人為を道徳と政治とに分化させてゆく過程をも意味した。
 この分析によれば、いうまでもなく道徳を代表するのが仁斎であり、政治を代表するのが徂徠です。政治学者・丸山は徂徠による政治学の成立をもって朱子学の解体が完成したと見るわけです。
 異論はありませんが、先述のとおり、その解体の基礎を提供したのは、明らかに仁斎その人です。そうして同時に、人間社会(世の中)の事象をこのような人為によるものと見る視線の獲得は、近世においてようやく宗教的言語(日本の場合は仏教)によって思想を語るメンタリティーが衰え、代わって人間社会をまさに一定の構造を具えた「社会」として見る近代的な合理精神の萌芽が育ちつつあったことを意味します。西洋におけるデカルトに相当します。

 ところで仁斎は、仏老(仏教と道教)を、空理を語るものとして再三批判しています。この場合の仏教とは禅宗ですが、仁斎の批判の要所は、禅宗が単なる一身上の澄み切った心の修養を目指すのみで、何ら君臣父子夫婦兄弟朋友などに相渉る現実的な「関係の倫理」に触れないという点にあります。それでは世の中をよくするような実践にはまったく結びつかないと彼は考えました。
 これはやはり新しいプラグマティックな思考様式の一つの兆候というべきでしょう。
 前回扱った鈴木正三は一応禅宗徒でしたが、その思想は止修行や看話禅に対して批判的で、きわめて行動的な性格のものでした。流派としては対立していても、ここに仁斎思想との連続を見出すことができます。
 さらに前々回扱った一休においては、彼岸における「救い」の約束に対する深い絶望が見られました。このように見てくると、そこに日本思想史のある流れを見出すことができると思います。
 それはひとことで言えば、「来世の救い」から「現世の倫理」への思考様式の大きな転換です。この時から先駆的な日本人は、しだいに伝統宗教の語法を捨ててより近代的な語法にシフトしていきました。
 近代は単に西洋が突然もたらしたものではなく、対外関係が相対的に閉鎖的だった江戸時代において、内在的にその準備過程が進んでいたのです。それにはやはり商工業の発展という下部構造的な要因が大きかったでしょう。一介の町人であった仁斎はまさにその結節点に立っていたのです。