内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「……と考えることができる」とか「……と見ることは不可能ではない」とかの危険な誘惑

2023-09-24 17:24:46 | 哲学

 自分でもつい使ってしまう表現に、「……と考えることができる」とか「……と見ることは不可能ではない」とかがある。
 ある条件の下では、あるいは、歴史的文脈を離れて(あるいは無視して)その部分だけを見れば、そのように考えることも論理的にはできなくはない、と言っているだけのことで、多くの場合、厳密な論証や煩瑣な史料的裏付けを省略して、ある文献の一部を自分の議論にとって都合のいい方向に利用しようとするときに多用される。
 今日読んでいた本にもそれらの「好例」が見つかった。著者の名誉のためにその名も書名も伏せて問題の箇所を引用する。エックハルトの説教から二箇所引用した上で著者はこう述べている。

しかし引用文のなかでは、それ(=「神への没入」)が働くことである技術的作業との対比概念として用いられている点を考慮するなら、エックハルトの主張のなかに精神活動と身体的な活動、あるいは、観想的生活と活動的生活とを連関づけ、さらには、その順序を逆転させることが示唆されていると考えることができる。そしてその点では、ここに観想から製作への転換の方向を見ることは不可能ではないし、また、「プロテスタントの倫理」にはるかに先行する形で労働のエトスを見ることも不可能ではないだろう。

 ヨーロッパの技術史の展開を叙述する文脈の中でこの一節が出て来る。著者はエックハルトの専門家でもなく、ヨーロッパ中世史の研究者でもない。
 自分のことを棚に上げて言うと、これはもう、完全に「アウト」である。エックハルト思想の内的脈絡をまったく無視して、自分の議論に都合がいい部分だけを切り取って使っているだけである。不可能でなきゃ、なんでも言っていいってわけじゃねぇーでしょ、センセイ!
 こういう「操作」が実に巧みな先生たちがいる。そういう先生方の書かれた書物が世に氾濫している。開いた口が塞がらないほどのその古今東西に及ぶ博覧強記と、読むものをして唸らせずにはおかないその万華鏡のごとき切り貼り術とには、称賛の念を抱くことしか浅学菲才の老生にはできない。
 自戒の念を込めて、当該の説教の結びの一節を引いておく。

人々は私に向かってしきりに、「わがために祈れ」というが、私は「何故あなた方は外に向かって求めてゆくのか? 何故あなた方はあなた方自身の中にとどまり、あなた方自身のもつ財宝の中を探し求めようとはしないのか? あなた方はあなた方の中に一切の真理を本質としてもっているではないか?」とあえていいたいのである。願わくは、そのように私たちがこのものの中にとどまることができ、あらゆる真理をば媒介なしに、そして差別なしに真の浄福において所有することができるように、神の我々を助け給わんことを! アーメン。
                              相原信作訳『神の慰めの書』(講談社学術文庫、308頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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