内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

たった一語の読みが従来の伝統的解釈を転倒させる恐ろしさ

2023-09-11 01:39:48 | 読游摘録

 昨日の記事で紹介した入矢義高氏の『増補 求道と悦楽 中国の禅と詩』には、「臨済録雑感」と題された講演が収録されている。講演時の話し言葉の調子が保たれた文章で読みやすい。でも、内容的にはかなり高度だ。
 入矢氏が初めて『臨済録』を読んだのは昭和二十三年のこと、三十八歳のときだった。その時読んだのが岩波文庫版だったのだが、入矢氏は読みちがいが大変多いのに驚かされる。伝統的な読み方に誤りが非常に多いという。
 その一例として一番短い例が挙げられている。
 臨済は「祖仏の顔を見たいか、会いたいと思うか」と修行者たちに問う。それに続けて臨済は「祗你面前聴法底是」(ただなんじめんぜんちょうぼうこれなり)と言う。従来は、権威ある専門家も含めて、「お前の目の前で法を聴いているものがそうである」と理解している。つまり、無依の道人、無位の真人というものが、修行者たちとは別に、たとえその内部においてであろうと、想定されている読み方をしてきた。
 ところが、この読み方はまったく間違っていると入矢氏はいう。中国語原文は、「祗你、面前……」と二音節ずつ繫がっている言葉で、最初の二字は「ほかでもないおまえが」「おまえこそが」という意味である。つまり、臨済が言いたいのは、「私の目の前で、私の説法を聴いているもの、まさにそのおまえ、他ならぬそのおまえこそが祖仏なのだ」ということである。
 「別に無位の真人とか、そういう超越的、絶対的なものを措定する必要は全然ないのです。『祖仏はおまえだ』というのです。音読しますと何でもないことで、ピタリと決まるわけですが、従来はこういう解釈ではなかった。」(111‐112頁)
 岩波文庫の新しい版は先版と比べて全体としてかなり訂正されているが、懸案の箇所については訂正されていないという。つまり、「無位の真人」というものを修行者とは別に措定したままの現代語訳になっている。ところがそうではないのだと入矢氏は強調する。「いま、私の眼の前で説法を聴いている生き身のおまえたちが、他ならぬ祖仏なのだ」と端的に言っているのだと氏は繰り返す。
 入矢氏はこの点がきわめて重要だと考えているようで、もう二回ほぼ同じ主張を繰り返している。
 「従来の解釈のように「おまえの目の前で」ではなくて「私の目の前で」法を聴いている修行者たちを、その現在の生き身そのままに、本来人として、祖仏として肯定しているわけです。」(113頁)
 「外在的にしろ、内在的にしろ、真仏を介在させる、あるいは前提させるという手順は、ここではまったく不要だということです。そういうものが内に在って働きをなすのではないのです。われわれが生き身のままで、本来無依の道人なのだと、と臨済は説いているのです。」(同頁)
 入矢氏によれば、『臨済録』を中国語原文として読めば、リズムから自ずと読みが決まってきて、先に挙げた二字「祗你」は「ほかならぬおまえ」としかならない。
 たった一語の読み方の違いで、まったく異なった解釈になってしまい、それがしかも臨済の禅思想の根幹の理解に関わる問題であるということにかなり衝撃を受けた。と同時に、原文を一字一句ゆるがせにせずに読むという作業が、基本中の基本でありながら、必ずしも実践されてはおらず、結果として誤った解釈が「伝統」として長年に亘って継承されてしまうことに恐ろしさも感じた。