内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日本の高校にはなぜ哲学の授業がないのですか

2022-09-20 10:47:31 | 講義の余白から

 先週金曜日の「近代日本の歴史と社会」の授業の直後、一人の男子学生が質問に来た。「授業には直接関係ない質問なのですが、日本の高校にはなぜ哲学の授業がないのですか。」
 いい質問である。簡単には答えられないけれど、と前置きした上で、「日本の高校までの公教育においては、社会において個人として自分の意見を表明する権利を自覚的かつ方法的に行使し、それと同時に他者の意見をそれとして尊重しつつ、互いに対等で公平な態度で議論し合うためのスキルを身につけることが重視されておらず、社会への「順応」あるいは「適応」にプライオリティが置かれているからだと私は思います」と答えた。
 フランスではそのスキルが重視されているかといえば、首を傾げざるを得ない傾向が近年目立ってきているが、それでも事実として高校の一般教育コースの最終学年で哲学は必修だし、高校卒業資格試験(バカロレア)でもそうである。授業の内容とレベルはそれこそ高校によってかなりの開きがあるのが現実だが、少なくともその目的は西洋哲学史の知識の詰め込みではなく、ましてや「道徳」の押し付けではない。理念としては、民主主義が機能するためには上記のような哲学的態度を一般市民が身につけることが必要だと今でも考えられている。
 日本の政治家たちはよく「ミンシュシュギ」という言葉をさも自明のことのように振り回すが、その多くは上掲のような態度を身につけているとは言えないであろう。それどころか「ミンシュシュギ」という符牒の下に民主主義を押し潰してきた張本人たちだ、と言っては言い過ぎになるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


私たちは歴史について何を知っているのか

2022-09-19 23:59:59 | 読游摘録

 昨日の記事で一言言及した Lynn Hunt の History. Why It Matters, Polity, 2018には日本語訳があるが、アマゾンのレヴューによると訳が相当にひどい代物らしい。ここまで酷評されているのも珍しいことで、それらすべてが無根拠な誹謗中傷ばかりとも思えない。わざわざ自分で確かめて見る気にはなれないが、原本が良書なだけに残念なことだ。
 本書巻末の読書案内 Further Reading には十三冊の本が挙げられている。それぞれに簡潔な紹介文が付いている。その筆頭に挙げられているE. H. カーの『歴史とは何か』は次のように紹介されている。

Although already forty years old in 2001 when it was republished with a new introduction, Carr’s little book is still one of the liveliest and most provocative introductions to historical study. It is especially noteworthy for its discussion of causes, progress, and the slippery nature of facts, but best of all it is a delight to read.

 カーの本の後に四冊入門書として紹介されている。そのうちの一冊、Sarah Maza, Thinking about History (University of Chicago Press, 2017) はこう紹介されている。

Carr provides a great introduction but this book brings him up to date. The author succeeds admirably in explaining the stakes of current controversies about history and the wide range of new approaches, from the history of science to the history of things. It also gives a very good sense of specific authors and their books.

 さっそく電子書籍版を購入して少し読んでみた。大学で歴史を学ぼうとする学生たちが主な読者として想定されているようだ。歴史を学ぶにあたってまず向き合うべき根本的な問いが順序立てて実に懇切丁寧に考察されている。
 歴史とは何か、学としての歴史の対象は何か、歴史的事実とは何か、歴史は誰のことが誰のために書かれているのか、歴史はどのようにして書かれるのか。これらの問いを素通りして歴史を学ぶことは、あたかも泳ぎ方を知らずに海に飛び込むような無謀なことなのだと思う。歴史を学ぶ大学生に限られた話ではない。これらの問いに向き合うことなしに、歴史について何を知っていると言えるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


E. H. カー『歴史とは何か』が今またよく読まれているのはなぜか

2022-09-18 23:59:59 | 講義の余白から

 E. H. カーの古典的名著 What is History ?(1961年)は、1962年刊行の岩波新書、清水幾太郎訳『歴史とは何か』が六十年に亘って読みつがれてきたが、今年五月に近藤和彦氏による新訳『歴史とは何か』が岩波書店から単行本として刊行され、すこぶる売れ行き好調なようだ。そもそも原本が名著だからとか、読みやすい日本語に訳されているからという理由だけでは、この例外的な売れ行き良さは説明できないように思う。特定の国や時代の歴史に興味があるだけの人たちも本書を手にとることはほとんどないだろう。「ポスト真実」が政治の世界でまかり通っている現代社会で、歴史において何が真実なのかという問いに真剣に向かい合おうとしている人たちが本書を読んでいるのではないだろうか。確かに今まさに読まれるべき一冊であるに違いない。Lynn Hunt の History. Why It Matters, Polity, 2018 がよく読まれているのも、やはり同じ問いに向かい合おうしてのことだろう。

 What is History ? から授業で引用するのは以下の二箇所。

In the first place, the facts of history never come to us ‘pure’, since they do not and cannot exist in a pure form: they are always refracted through the mind of the recorder. It follows that when we take up a work of history, our first concern should be not with the facts which it contains but with the historian who wrote it.

What is History?, Penguin Modern Classics, p. 18.

The historian starts with a provisional selection of facts and a provisional interpretation in the light of which that selection has been made – by others as well as by himself. As he works, both the interpretation and the selection and ordering of facts undergo subtle and perhaps partly unconscious changes through the reciprocal action of one or the other. And this reciprocal action also involves reciprocity between present and past, since the historian is part of the present and the facts belong to the past. The historian and the facts of history are necessary to one another. The historian without his facts is rootless and futile; the facts without their historian are dead and meaningless. My first answer therefore to the question, What is History?, is that it is a continuous process of interaction between the historian and his facts, an unending dialogue between the present and the past.

Ibid., p. 26.

 「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」(清水訳)は歴史家だけに任せておいてよいことではないと思う人たちが増えているとすれば、少しは未来に希望が持てるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「すべての歴史は現代史である」

2022-09-17 23:59:59 | 講義の余白から

 昨日の記事の最後の段落で言及した『大学でまなぶ日本の歴史』の「オリエンテーション」には「歴史の学び方」に続いて「歴史と現在」と題された節がある。この節は来週の授業で読む予定だ。
 この節には、イタリアの哲学者・歴史家クローチェとイギリスの歴史学者E. H. カーからの引用がある。後者は名著『歴史とは何か』(岩波新書、1962年。原本 What is History ? は1961年刊)からの引用で、引用箇所もすぐに特定できるが、前者については、「すべての歴史は現代史である」という一文が引用されているだけで出典が示されていない。出典は La storia come pensiero e come azione (1938) である。本書には日本語訳『思考としての歴史と行動としての歴史』(上村忠男訳、未來社、1988年)がある。フランス語訳 L’Histoire comme pensée et comme action (Droz, 1968) もあり、その全文の最初の三分の一ほどがグーグルブックスで公開されている。その中に「すべての歴史は現代史である」という考えを表明している箇所がある。

Le besoin pratique, qui est à la source de tout jugement historique, confère à toute histoire le caractère d’« histoire contemporaine » : en effet, si éloignés de nous et même si perdus dans le plus lointain passé que semblent les faits qui entrent dans cette histoire, il s’agit toujours en réalité d’une histoire qui se réfère aux besoins et à la situation actuelle, dans laquelle se propagent les vibrations de ces faits (p. 38).

すべての歴史的判断の源である実際的な必要が、すべての歴史に「現代史」の性格を与えている。実際、この歴史に登場する諸事実が、いかに我々から遠く離れ、最も遠い過去に失われたように見えても、それは常に現実には(現在の諸々の)必要と現在の状況とに関連している一つの歴史なのであり、この状況の中でそれらの事実の振動が伝播しているのだ。

 この一節はカーの『歴史とは何か』の脚注の一つに英訳が引用されており、『大学でまなぶ日本の歴史』の著者たちは、おそらく『歴史とは何か』のみを参照し、クローチェの著作に直接あたらなかったからクローチェの当該著作名を挙げなかったのであろう。その英訳はこうなっている。

The practical requirements which underlie every historical judgment give to all history the character of “contemporary history”, because, however remote in time events thus recounted may seem to be, the history in reality refers to present needs and present situations wherein those events vibrate. (B. Croce, History as the Story of Liberty (Engl. transl., 1941), p. 19.

 イタリア語原文を見たわけではないのでどちらがより正確なのか確かなことは言えないが、仏訳と英訳との間に微妙な違いがいくつか見られる。仏訳は si éloignés de nous et même si perdus と過去分詞の形容詞的用法を重ねているところ、英訳は remote 一語で済ませている。英訳では to present needs and present situations となっているところ、フランス語訳では aux besoins et à la situation actuelle となっている。文脈からして「現在の」は「必要」にも「状況」にもかかると見るべきで、英訳はそれを正確に反映しているが、フランス語訳では actuelle は直前の situation にしかかかっていない。英訳では situations と複数形なのに、仏訳では単数形になっている。英訳の関係副詞 wherein は先行詞として needs も situations もとることができるが、仏訳の関係代名詞 laquelle は女性単数形であるから、situation のみを先行詞としている。いずれにせよ、「すべての歴史は現代史である」というテーゼは変わらないから、これらの違いは文章の内容からすれば小さな問題だし、イタリア語原文がわかれば簡単に決着がつく。どなたかご教示いただけないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


歴史哲学講義からはじまる「近代日本の歴史と社会」

2022-09-16 23:59:59 | 講義の余白から

 今日、学部三年の「近代日本の歴史と社会」の今年度最初の授業があった。今年で五回目の担当になる。毎年、使用テキストの一部を入れ替え、説明内容を修正あるいは変更しているが、ここ三年は主な部分に変更はない。
 しかし、学生たちからの反応は年によって違う。一昨年度は主に遠隔で行わざるを得なかったにもかかわらず、学生たちの反応はもっとも活発だった。一年生のときから担当したすべての教員たちから評価の高かった学年だったが、特に授業中によく質問してくる学生が何人かいて、それらの質問が授業を活性化してくれた。
 それに反して、昨年度は、一年を通じて教室での対面授業であったにもかかわらず、授業中の質問はほぼ皆無であった。こちらから問いかけても反応が乏しかった。試験の出来が悪いというわけではなかったが、そもそも内容にあまり関心がないようであった。コロナ禍以前も年によってクラスの雰囲気は違ってはいたが、昨年度は、私にとってはストラスブール着任以来最悪の一年だった。
 今年はどうか。学生たちは月曜日の授業と同じ顔ぶれ。月曜日の記事に書いたように、日本学科史上最多の学生数で今日の出席者は三十七名。教室定員は五十名だから満席ではないが、空席は後方にしかなかった。これはすでに「吉兆」である。年によっては最前列に空席が目立つ。月曜日も感じたことだが、全体として集中度が高い。ノートをよく取っている学生も多い。最前列でただ腕を組んで聴いている学生も一人いたが。
 例年通り、初回は歴史哲学講義である。歴史とは何かという問いに正面から向き合う。昨年までに比べて、読むテキストの分量は大幅に絞り込み、一時間十分でまとめた。引用したのはすべて仏語のテキストである。ヴァレリー、レヴィ=ストロース、ジャン・スタロバンスキー、Rémi Brague、Pierre Vesperini、Henri-Irénée Marrou、Paul Veyne、Jacques Le Goff 等。
 五分ほど休憩を入れて、残り四十分あまりで日本語のテキストを一つ読んだ。『大学でまなぶ日本の歴史』(吉川弘文館、二〇一六年)の序文にあたる「オリエンテーション」の中の「歴史の学び方」と題されたおよそ一一〇〇字あまりの節である。とても良い文章だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


カミとホトケから始める宗教史

2022-09-15 23:59:59 | 講義の余白から

 今日は学部二年の「古代日本の歴史と社会」の初回だった。この講義を担当するのは今年が初めてだ。とはいえ、現在のカリキュラムになる前の四年間「日本古代史」を担当していたし、前任校でも日本通史を八年間担当していたから、講義の基礎資料はすでに十分に揃っていた。しかし、今回担当するにあたって新規に年間プログラムを作ることにした。
 講義のタイトルは « Histoire et société du Japon ancien » であるからその日本語訳は上掲のようになるのだが、実際には « ancien » といっても「中世以前」という意味ではなくて「近代以前」という意味で使われている。つまり、古代から幕末までをカヴァーしなくてはならない。前期は古代から平安時代まで、後期が鎌倉時代から江戸時代までを対象とする。それぞれ二時間の授業が十二回であるから、講義内容はおのずとかなり選択的にならざるをえない。しかも日本語のテキストを読ませなくてはならないから、一回の授業に多くの知識を詰め込むわけにもいかない。
 学科長からの要望もあって、テーマとしては宗教と思想に重点を置くことにした。それに文化を加えて、宗教史・思想史・文化史という三本柱で通年プログラムを構成した。限られた時間数の中でどう工夫しても偏りなくはできないが、それぞれの柱ごとに古代から近世まで一応の全体的見通しをもてるように組み立てた。
 読ませるテキストは、教科書的なものは避け、当該分野それぞれで多数出版されている新書の中から比較的文章が平易なものを選んだ。といっても、昨年一年間で基礎日本語を学んだだけの学生たちには難しすぎる場合が多く、語彙レベルだけではなく文法・構文についても、はじめはゆっくりと詳しく説明していかなくてはならない。
 今日読ませたのは、大野晋[編]の『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、二〇一一年)の「ほとけ」の項の一段落である。この項の執筆は大野晋自身が担当している。

日本では神は無数に存在した。しかし、その形はないものであった。輸入されたホトケは仏の形であったから、日本人ははじめて具体的な形のある、尊崇の対象を得た。それは従来の慣習とまったく異なるものであったが、ホトケは多数ある神の一種として受け入れられた。神は直接人間の苦しみを救うものではなかったが、新米のホトケは人間の苦しみを救済するというので、従来の神にも人間を救うという概念の変化が生じた。ただ天皇政府が仏閣・仏像の建造・制作に国家予算の大きな部分を投じたのは、ホトケが国家を鎮護するとされたことを信仰してのことであった。

 このわずか数行の文章の中に、学生たちが新たに身につけなくてはいけない単語・表現が三十以上ある。それを語彙表にして示したところ、六十人ほどが出席している階段教室から大きなため息がもれた。今日のところは私が声に出して一通り読みごく簡単な解説を加えたところで時間となった。来週の授業ではこの文章の一文一文を学生たちに読ませながら、内容的な解説をすることで宗教史への導入とする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


修士一年の演習始まる

2022-09-14 23:59:59 | 講義の余白から

 今日は修士一年の演習の初日だった。原則として、修士の演習は一コマ二時間六回の計十二時間を一単位とするのだが、私の場合、日本留学準備演習と近代思想史の二つの演習を修士一年の前期に担当するので、両者をひとまとめにして一回二時間の演習を十二回行う。留学準備演習は日本語での発表能力を鍛えることが主な目的である。近代思想史のほうは日本語のテキスト読解が主な内容になる。毎回の演習は、前半はフランス語、後半は日本語で行う。これにさらに日本人学生たちとの月一回の遠隔合同演習への参加と来年二月に行う最終的な日仏合同チームでの発表の準備という作業が加わる。学生たちにとってはかなり負担の大きい演習なのである。
 すでにこのブログでも話題にしたが、この演習の今年の課題図書は中井正一の『美学入門』である。一九五一年に刊行された本で、内容的にすでに古びてしまったところがあるのは否めないが、「美しいこと」とはどういうことか、比較的平易な日本語でさまざまな角度から具体的な例を挙げつつ論じているから、それらのどこかに関心をもつことができれば、今でも面白く読むことができる本だ。
 特に、身体、スポーツ、技術、映画などに関する考察は大変興味深い。それには、単なる理論家としてだけではなく実践者としてこれらの分野あるいはテーマに中井が関わっていたことも関係していると思う。他方、あまりにも図式的だったり簡略にすぎる理論的考察も後半には多く、それらの部分を読むのはかなり苦痛であった。
 中公文庫版で本文一七〇頁足らずの短い著作だが、演習では全部は読まない。ミカエル・リュッケン教授による素晴らしい仏訳が昨年刊行されたから訳す必要もない。中井は引用や言及に際してまったく出典を示しておらず、記憶に頼って引用しているところは不正確でもあるが、それらすべての箇所に行き届いた注が付いているのも大変ありがたい。中井が言及している多数の人名についても略歴が注に示してあり、日本語版よりもはるかに情報量が多い。
 だから、原文をはじめから順に読んでいくのではなく、各自自分の関心に応じて中井の提示する論点を自由に取り上げ、それを批判的に検討することを次回から早速始める。今日はその準備として、本書の中でどのような論点が取り上げられているか、そこからどのような方向に議論をさらに展開・発展させることができるか、私の方から概観を示し、さらに、中井が取り上げていない論点も指摘するなどして、学生たちに考える材料を与えておいた。来週は出席者全員(十名)一人一人に日仏両語で短い発表をしてもらう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ミッション・ハンディキャップ

2022-09-13 23:59:59 | 雑感

 ストラスブール大学ではここ三年ほど、特にコロナ禍が落ち着きを見せキャンパスに学生たちが戻って来たころから、ハンディキャップのある学生たちの受け入れに目立って積極的になった。その基本方針に反対する教員はいない。私ももちろん賛成だ。
 しかし、昨年度から学科のミッション・ハンディキャップ担当責任者になってからいろいろと思うところはある。基本方針を大々的に大学が喧伝し、実際様々なハンディキャップをもった学生たちが目に見えてキャンパス内に増えている。その割には、現実の予算配分・設備投資・人員配置等が現実に追いついていない。バリアフリーなどまだほとんど実現できてないと言っていいし、エレベーターなどしょっちゅう故障しているし、ハンディキャップのある学生に付きそうスタッフの数も十分ではない。学生バイトを急募しているが、それだけでは不十分なことは明らかだ。
 ハンディキャップといっても実に様々なタイプとケースがあり、それぞれに取るべき対応が異なってくる。ところが対応する側がきめ細かく適切に対応できるだけの知識も経験もないのだ。教員はそれぞれ自分の分野では教えることのプロではあっても、ハンディキャップに関しては素人同然である場合がほとんどで、訓練を受けている暇もない。私自身もそうだ。
 身体的なハンディの場合、適切な対応は比較的明確だが、心的あるいは精神的ハンディキャップの場合はとても対応が難しく、そもそも何が学生本人にとって問題なのかよくわからないこともある。よかれと思って掛けた言葉が逆効果になってしまうこともあるし、コミュニケーション自体がうまく取れないこともある。
 まだ始まったばかりの今年度だが、非常に難しいケースを一件学科としてかかえることになった。個人のプライバシー情報に関わることなので具体的は書けないが、先週のガイダンスのときにすでに目立った問題行動が見られ、これから授業中にも同様な行動が見られるであろうことはほとんど避け難く、そうなれば担当教員たちはそれに振り回され、円滑な授業運営は困難になり、他の学生たちからは当然苦情が出るであろう。早急な対応を迫られている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今日から今年度授業開始

2022-09-12 23:59:59 | 講義の余白から

 今日から2022/2023年度の授業が始まった。例年より一週間遅いスタートとなった。先週一週間をガイダンスや語学テストにあてたためである。そうしないと八月最終週からガイダンス等を始めなくてはならず、それを避けるための学部レベルでの決定だった。ただし、それに反対した一学科は先週からすでに授業を開始している。
 今年度、最終学年の三年生の授業は二コマ担当する。今日はその一つ「日本の文明と文化」と題された授業の初回だった。この授業はすべて日本語で行う。昨年の二年生は例年になく合格者が多く、今日の出席者は三十八名。怪我と手術のための欠席を知らせてきた学生が一人いたし、名簿に載っていて今日欠席だった学生がもう一人いたから、全部で四十名である。これは私がストラスブールに赴任した2014/2015年度以降で最多である。おそらくそれ以前もそんなに多かったことはないはずであるから、日本学科開設以来三十六年間で最多ということになるだろう。私が赴任してからはだいたい二十五名前後で推移していたから、これだけ一気に増えると授業運営上にも影響が大きい。今日の授業もほぼ教室一杯。他の授業では教室変更が必要になるかもしれない。
 留年生を除いて、彼らは2020/2021年度入学であるから、一年次の大半の授業は遠隔だった。昨年度は二年生を担当していなかったから直接的には感触がよくわからないが、特にできのよい学年でもなかったはずである。今日の反応だけでは確かなことはまだなんとも言えないが、少なくとも全体の三割くらいはかなり期待できそうだという感触は得た。
 今年から私が担当するすべての授業で素読を導入することにした。今日はその意味と効用について安達忠夫の『素読のすすめ』(ちくま学芸文庫、2017年。原本は1986年。第二版は2004年)を読みながら説明した。学生数が多いこともあり、教室で実践することは難しいが、彼ら自身が自ら実践してくれるようにと繰り返し丁寧に説明した。
 まずは順調な滑り出しの今年度である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本から帰ってきたら、より速く走れるようになっている

2022-09-11 23:59:59 | 雑感

 東京での夏休み約一月半の間、滋養のあるものを毎日しっかり食べさせてもらい、さまざまなサプリメントを常に摂取させてもらったおかげだと思うが、こちらに戻ってきてからジョギングの平均ペースが上がっている。意識して上げているわけではない。フォームを変えたわけでもなく、夏休み以前と同様、呼吸が苦しくなく無理なく走れる程度のスピードで走っているのだが、結果として同じ距離をより短い時間で走れている。夏休み前は一時間で一〇キロがやっとだったのが、今は一〇・六から一一キロ難なく走れる。体組成計の数値に表れているわけではないが、脚の筋力が向上しているのだと思う。それで、自ずと脚の回転数がアップし、歩幅も少し広がり、より速く走れるようになっているのだろう。ジョギングへのモチベーションがいやがうえにも高まろうというものである。