内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

音読によってはじめて捉えられる思考のリズムがある

2022-04-10 19:44:57 | 雑感

 昨日は晴れだったが、気温は5,6度と低かった。
 子供の頃から手先がかじかみやすい私は、そんな天気のなか自転車でハンドルを握ったまま15分も走ると、防寒用の手袋をしていても指先が冷えきってしまい、指先が痛くなるほどだ。手袋をはずすと、指先からすっかり血の気が引いていた。
今日は、一転、いかにも春らしい、うららかな日和だった。
 早朝から、原稿執筆のために必要な仏語の参考文献を漁っていた。気に入った一節があると、論文執筆のためにはまったく必要のないことなのだが、音読する。それも、低い声でぼそぼそと単調に読むのではなく、まるで大きな円形劇場の舞台上に立っているかのように、胸を張り、目線をやや上方に向け、「観客」に向かって語りかけるように、腹の底から声を出して音読する。
 傍から見れば、滑稽の一語に尽きるかもしれない。「こいつ、あぶないかも」と思われる方々もいらっしゃるだろう。
 でも、言わせていただきたい。音読されることを予想して書かれていないテキストでも、大きな声で読んでみてはじめて感じられる言葉のリズムがある。そのテキストを書いた当人でさえ、その音声リズムに自覚的だったとは必ずしも言えない。そのリズムは黙読では捉えにくい。音読によってはじめて捉えられる思考のリズムがある。そう私は思う。
 今日は2時間で20キロ走った。日曜日はジョガーが多い。皆どんどん私を抜かしていく。ちょっと悔しい。でも、彼ら彼女らのピッチ、ストライド、リズム、それに足の長さ、などなどを後ろから見て、とてもじゃないがついていけないと諦め、マイペースを守る。
 フォーム、リズム、ピッチ、ストライド。これらすべてが「生きる姿」なのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


本棚修繕記

2022-04-09 09:14:55 | 雑感

 昨日の朝、そろそろ大学に講義に出かけようとしていたとき、仕事机右脇の木製の書架の棚の一つが前方に若干傾いていることに気づいた。すぐには原因がわからず、時計をにらみながら、棚の本をすべて下ろし、棚を書架から外してみて、驚いた。本の重みで前方の留め金が歪み、外れてしまっていたのだ。これはすぐには直せない。時間がない。仕方なく、そのままにして出かけた。帰宅して、すぐに直そうと思ったが、ちょっと手間がかかりそうなので、まず昼食をしたためた。
 言葉で説明するとちょっとわかりにくいかもしれないが、なぜ過重になったかというと、当該の棚の上に別の棚を直角に置き、その棚が机上にせり出すようにして、その上にも本が並べてあり、その本の重みでせり出した棚が傾かないように、書架上で二つの棚が直角に重なり合っている部分に普段読まない本を詰め込んであったので、その重なり合った部分にだけ偏って重量がかかっていたからである。それでその部分を支えていた金具が歪み、穴から外れて落ちてしまったのだ。穴の方も少し抉れてしまっている。だから、元の穴に金具を戻すこともできない。
 幸い予備の金具があったので、それに差し替え、一段穴を下げ、基本的な配置は以前のままだが、せり出した部分にはできるだけ負担がかからないように調整した。ついでに棚とその上に並んでいた本の埃をきれいに払った。
 結果として、以前よりも本が取り出しやすくなり、よい気分である。


雨の中を歩く

2022-04-08 23:59:59 | 雑感

 今日から二十五日まで、原稿執筆に集中したい。その間、このブログは取り留めのない日常雑記になる。
 今日は朝から夕方までずっと雨が降っていた。珍しいことだ。毎日走っているからわかるのだが、昨年七月から、雨のせいで走るのを止めた日は片手でかぞえるほどしかなかった。今朝は、小降りになったら、大学まで自転車で行くつもりだった。でもそうはならず、路面電車で出かけた。これも年に数えるほどしかないことだ。
 昼過ぎ、授業とオフィスアワーを終えて、教員室の窓から空を見上げると、雨雲に覆われたまま。キャンパスを見下ろすと、傘をさしている人もいれば、傘なしで歩いている人もいる。外に出る。けっこう雨脚が強い。帰りも路面電車を使おうと最寄り駅まで歩く。
 でも、電車を待っているうちに、歩いて帰ろうという気になった。昨年来、最初はウォーキング、そしてジョギングと、ほぼ毎日運動を続けてきたおかげだが、急ぎでもないかぎり、かなり遠い距離でも歩くのが苦にならなくなった。いや、楽しいとさえ言っていい。電車に乗って、ぼーっと立っていたり座っていたりするのは、むしろもったいないと思ってしまう。別に電車賃が惜しいわけではない。せっかく歩けるのに、移動する「箱」のなかでじっとしているのが時間の無駄遣いに思えてしまうようになったのだ。
 私は傘が嫌いだ。片手が塞がり、両手を振ってバランスよく歩けないからだ。傘はほんとうに鬱陶しい。それでも、左右交互に持ち替えながら歩いているうちに、これも腕の運動だと思い直す。傘に当たる雨音に耳を傾ける。増水して流れが波立っているリル川を眺めながら、欧州議会の方へと歩く。自宅に帰り着くまでに約五キロ歩いた。靴の中まで雨が染み込んで、靴下はびしょびしょ。
 でも、気分は悪くない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


十七世紀初頭、ヨーロッパでは、人間に対して「犯罪」を犯した動物たちは「処刑」されていた

2022-04-07 23:59:59 | 哲学

 昨年、スピノザの『エティカ』の新しい仏訳がフラマリオン社から刊行された。これがかなり野心的な企画で、一言で言えば、『エティカ』を一冊の書物として前から順に読めるように工夫が凝らされている。
 『エティカ』は、ある定理の証明をそれ以前に証明された定理を前提として行なうのが原則であるから、その前提とされている証明を参照することがしばしば要求される。したがって、浩瀚なテキストの中を行きつ戻りつしながら読まなくてはならない。だから、後ろを振り返らずに前へ前へと読み進めることがなかなかできない。それが理由で、読み続けるのがいやになってしまうこともある。
 このフラマリオン社の新訳は、見開き二頁の右頁に本文(仏訳)を配し、その本文中に付された注を同じ見開きの左頁側に置いている。しかも、本文の活字よりは一回り小さいとはいえ、読みやすさに配慮したレイアウトになっている。右頁の本文を読みながら、ちょっと横に視線をずらすだけで左頁の注が参照できるように工夫されている。
 第四部三七定理注解一の「動物がわれわれにたいしてもっている権利と同じ権利を、われわれは、動物にたいしてもっている」という一文には、左頁の半分を占める注が付けられている。その注が大変興味深い。そのおよその内容は以下の通りである。
 十七世紀のヨーロッパではなお、動物たちは、場合によっては、人間に対して犯した「犯罪」について裁かれた。フランスでは、法律家のジャン・デュレ(Jean Duret, 1563-1629)が1610年に刊行した刑法論で次のように述べている。「もし獣が単に人間に怪我をさせただけではなく、殺害あるいは捕食に及んだ場合には、死刑に処される。絞首か馘首による。それは、その甚大な被害事実の記憶を消失させるためである」。このような処刑の対象になったのは、主に、致死的被害を引き起こした馬、乳幼児を死傷させ、さらには捕食した豚などであった。
 当時の初期オランダ共和国は、このような処刑を廃止したばかりであった。その廃止の理由は、動物は善悪の判断ができる徳性を備えておらず、したがって法的に責任能力を問うことはできず、被害の責任はその動物の所有者に帰される、ということである。責任能力を人間に限定し、動物を上掲のような「処刑」から解放した「近代化」は、しかし、人間による肉食を法的に妨げるものではもちろなかった。
 動物処刑廃止に対してスピノザがどのような立場をとったのかはわからない。スピノザの動物権利論がこの廃止理由と直接的に対立するわけでもない。しかし、スピノザは、動物にも感覚を認め、各個の権利はその所有している能力に応じて規定されるという原則は動物にも適用されると考えた。スピノザは、『神学政治論』のなかで、小さい魚が大きな魚に食べられるのはその自然権によるという主旨のことを述べており(XVI, §2)、食物連鎖を肯定しているわけだから、動物愛護論者だったわけでもない。しかし、「動物の権利」擁護者ではあった。
 動物に感覚(つまり受苦性)を認め、人間の権利よりは小さいとはいえ、動物にもその能力に応じて権利を認める思想は、動物を感覚のない機械とみなす同時代の「近代的」哲学者たちとスピノザとを画然と区別する指標の一つであるとは言えるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


動物も人間も、その権利は、それぞれの徳と能力に応じて規定される ― スピノザ『エティカ』第四部三七定理注解一について

2022-04-06 23:59:59 | 哲学

 昨日の記事で言及したモロー氏の注には、神、人間、動物の関係についてのストア派の考え方を代表するものとして、キケロが『善と悪の究極について』(De finibus bonorum et malorum)のなかでソロイのクリュシッポスの考えに言及している箇所を引用している。

Et quo modo hominum inter homines iuris esse vincula putant, sic homini nihil iuris esse cum bestiis. praeclare enim Chrysippus, cetera nata esse hominum causa et deorum, eos autem communitatis et societatis suae, ut bestiis homines uti ad utilitatem suam possint sine iniuria.

人間同士の間には権利関係が存在する。しかし、人間と動物の間にはそれは存在しない。クリュシッポスがきわめて明確に述べているように、すべては人間と神々のために生まれたのであり、それは彼らの共同体及び社会の利益のためであり、したがって、彼らは自分たちにとっての有用性のために、何らの不正を犯すことなしに、動物たちを利用できる。

モロー氏の仏訳ともう一つの仏訳は以下の通り。

Il y a des liens de droit entre les hommes, il n’y en a pas entre les hommes et les animaux. Chrysippe a dit très clairement que tout a été fait pour les hommes et les Dieux, dans l’intérêt de leur communauté et de leur société, de sorte qu’ils peuvent user sans injustice des animaux en vue de leur utilité.

(Les Stoïciens pensent que,) s’il existe assurément des liens de droit entre tous les hommes, il n’y en a absolument aucun entre l’homme et les bêtes. Car Chrysippe dit fort bien que tous les autres êtres sont nés pour les hommes et les dieux, mais que ceux-ci sont nés pour leur propre communauté et société : ainsi les hommes peuvent-ils sans injustice utiliser les bêtes dans leur propre intérêt.
Fins des biens et des maux, GF Flammarion, 2016.

 そして、モロー氏はこう付け加える。スピノザは、第一文の前半には同意することだろうが、後半にはしないだろう。なぜなら、動物もある能力を所有しているかぎり、人間が動物に対して一定の権利を所有しているのと同じように、動物も人間に対して権利を所有しているとスピノザは考えるからである。
 スピノザの考えでは、人間も動物も、その権利は、それぞれの徳(virtus)能力(potentia)に応じて規定される。「徳」と訳された virtus には、力、才能、長所、美点という意味もあるから、必ずしも道徳的価値に限定されない。
 スピノザは、なぜ動物の権利を主張したのか。17世紀ヨーロッパにおける動物をめぐる法規定の大きな変化がその背景にあったと思われる。その点については明日の記事で取り上げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人間の動物利用は動物がもっている権利によって制限される ― スピノザ『エティカ』第四部三七定理注解一より

2022-04-05 18:00:33 | 哲学

 昨日の記事を読んでくださった方のなかに、最後に引用したスピノザの『エティカ』の注解の第二段落のなかの一文を、もしかして逆の意味に取られた方がいらっしゃるかもしれないと気になった。今日はその点について一言補足しておきたい。
 問題の一文とは、「私が否定するのは、そのために自分たちの利益をはかって、動物を自分の思うままに利用したり、またそれをわれわれにできるだけ好都合なようにとりあつかうことは許されないことである」という文である。この日本語訳をさっと一読しただけだと、「私が否定する」のは、「動物を自分の思うままに利用したり、またそれをわれわれにできるだけ好都合なようにとりあつかうこと」であり、それはいけないことだと強調するために、「許されない」とダメ押ししているかのようにも読まれてしまいかねない。
 しかし、少し注意して読めばわかるように、この文が言っているのはその逆である。つまり、「動物を自分の思うままに利用したり、またそれをわれわれにできるだけ好都合なようにとりあつかうこと」は人間に許されていないわけではない、と言っているのである。上掲の訳文はこの点でラテン語原文に対して忠実であり、私が参照した三つの仏訳にもまぎれはない。
 では、スピノザは、人間が動物を自分の好き勝手に取り扱うことを肯定したのだろうか。そうではない。
 この点の理解に関して、一昨年刊行された Pierre-François Moreau の仏訳(PUF)のこの箇所につけられた注が参考になる。モロー氏はまず、ここでのスピノザの考えはストア派のテーマの一つであるが、それをスピノザは非目的論的なパースペクティブのなかで書き直していると指摘している。どういうことかというと、人間による動物の利用は、目的の階層的相互連関のなかで、より高次の目的のゆえに肯定されるということではなく、昨日引用した第一段落にあるように、「各自の権利は各自の徳、あるいは能力によって規定されるものであるから、人間は、動物が人間にたいしてもっている権利よりもはるかに大きな権利を、動物にたいしてもっている」かぎりにおいて、人間による動物の利用が肯定されている、ということである。
 つまり、その利用範囲・条件は、動物がもっている権利によって制限されている。問題の一節からだけでは、その利用範囲・条件を具体的に知ることはできないが、少なくとも、人間が動物を自分たちのために好きなだけどのように利用してもいいとはスピノザは言っていない。動物の権利はそれとして尊重されなくてはならない。その権利は徳と能力に応じて与えられている。こうスピノザは考える。
 この点について、明日の記事でもモロー氏の注を参照しつつ、もう少し考えてみよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


食べるものの倫理と食べられるものの心理 ― 「動物が人間に対してもっている権利」について

2022-04-04 21:26:49 | 哲学

 二月初旬から折に触れて「食べる/食べられる」の関係について考えてきた。はっきりとそれとして意識していないときでも、いつもどこかでこの問題のことが気にかかっていた。それくらいこれは大事な問題だと思っていたということである。
 切り口はいろいろありうる。思考の材料にも事欠かない。まさにそうであるからこそ、今回実際に考察する問題をどのように絞り込むか、なかなか難しかった。思いついたときにその都度書きつけるノートやメモが溜まっていくばかりの状態が一月あまり続いていた。
 ついニ三日前、ようやく、それまで辺りを覆っていた霧が晴れるかのように、アタックするべき経路がかなりくっきりと見えてきた。先週の金曜日深夜から土曜早朝にかけて、布団の中でほとんど寝ずにこの問題について考え続けていた。いや、「考え続けていた」というのは適切な表現ではない。もっと実感に即して言うと、それまで脈絡なく書き溜められてきた思考の破片が自ずと互いに繋がり合い、ネットワークを形成するのを、少し興奮しながら、「見ていた」と言ったほうがいい。
 今日は早朝から、明日の授業の準備はそっちのけ、先々週の試験の答案採点も手つかずのまま(許せ、学生諸君)、かくして形成されたネットワークの主な「結節点」に目印を付けるべく、古今の文献にあたっていた。
 そのうちの一つがスピノザの『エティカ』第四部「人間の隷従あるいは感情の力について」の定理三七注解一の以下の一節である。その前半は、一見したところ、今日の私たちには受け入れがたい主張(特に女性蔑視とも取れる一節)のように読めるが、その後半を読み、さらにこの箇所についての諸注を読むと、事はそれほど簡単ではないと思われる。引用する邦訳は中公クラシックス版である。

ここから屠畜を禁ずるかの法律が、健全な理性によってよりも、むしろむなしい迷信と女々しい同情にもとづいていることは明らかである。たしかに、われわれの利益を追求すべしというこの原理は、人間がたがいに結びつく必要性を教えてはいるが、動物や、その本性が人間の本性と異なるようなものと必然的に結びつくべしとは教えていない。むしろ動物がわれわれにたいしてもっている権利と同じ権利を、われわれは、動物にたいしてもっていると教える。むろん各自の権利は各自の徳、あるいは能力によって規定されるものであるから、人間は、動物が人間にたいしてもっている権利よりもはるかに大きな権利を、動物にたいしてもっている。
 とはいえ、私は動物にも感覚するはたらきがあることを否定しているのではない。むしろ私が否定するのは、そのために自分たちの利益をはかって、動物を自分の思うままに利用したり、またそれをわれわれにできるだけ好都合なようにとりあつかうことは許されないことである。じっさい、動物は本性上われわれと一致していないし、また彼らの感情は、人間の感情とは本来的に異なっているからである。

 今日のところは、次の一つの問いを提起するに止めよう。

 スピノザがいう「動物が人間にたいしてもっている権利」とは、どのような権利だろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ブログ ― 毒にも薬にもなる「ファルマコン」

2022-04-03 17:37:56 | ブログ

 ちょっとわかりにくい言い方になってしまいますが、ほんとうはモノローグにすぎないものをダイアローグだと思いなし、あるいは、自分では両者をすり替えたことにも気づかずに、けっこうダイアローグができているつもりで会話を続ける、あるいは、そのつもりでこのブログの文章を綴ることを私は自分に厳禁しています。というよりも、それは、そもそも、不可能なことなのだと私は思っているのです。
 日常会話のことは措くとして、このブログに関してのみ言えば、そのタイトルが示しているように、これはどこまでも「内的自己対話」に過ぎません。つまり、どこまでいっても「おひとりさま」なのです。そんな精神的「ひきこもり」状態を、ブログで文章を「公開」することで擬似的に解消したつもりになっても、それは、とどのつまり、自己満足に浸っているに過ぎません。そう、ドストエフスキーの『地下室の手記』の「書き手」のように。そこには「他者」がいないのです。そんなことをもう九年間も続けています。
 でも、多分、当面、やめられない、と思います。ブログは、私にとって、「おひとりさま」状態で恍惚となる麻薬である、と同時に、捌け口のない悪感情を解毒する治療薬なのです。プラトンが『パイドロス』で言っていた「ファルマコン」の一種なのだと言ってもよいかもしれません。
 良い効能も確かにあるわけですから、むげに排除すべきものでもないでしょう。しかし、悪作用も確かにあるとすれば、その「服用」には、本来、「魂の医師」による処方箋が必要なのでしょう。ところが、ブログという「民間薬」は、処方箋なしに、誰でも、しかもタダで、いつでも入手できてしまう。仲介料も斡旋料も必要ありません。
 もしかすると、このブログを始めたとき、私は、それと知らずに、悪魔に魂を売ってしまったのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


小雪舞う中、今日も走る

2022-04-02 21:54:05 | 雑感

 昨夜来、小雪が降り、明け方には隣家の屋根や木々が薄っすらと雪に覆われていました。気温も零度。ちょっと躊躇いましたが、午前中、ジョギングに出かけました。防寒装備は十分にしたので寒さは感じず、走っている間は幸い雪もちらつく程度で、1時間で10キロ走りました。今日は比較的身体が軽く感じられ、快適に走れました。
 2月6日に完全休養した翌日から今日までの55日間、休まず運動しています。この間、7日はウォーキングでしたが、それ以外はジョギングです。一日平均10キロという「ノルマ」も維持されており、今年に入って今日で総計920キロ走りました(ただしウォーキング49キロを含みます)。
 去年7月から今年の1月にかけて購入した6足のランニングシューズをそれぞれでの走行距離が均等になるように順に履き替えています。それでもさすがにそのうちの何足かは靴底の摩耗が目に見えるようになってきたので、5月あたりから順次新しいのに買い替えていくつもりでいます。
 ただ、この半年あまりで自分の走り方とシューズとの相性も分かってきたので、同じメーカーのものでもまったく同じモデルの最新型を購入するのは、アシックスは Gel Nimbus、ナイキは Pegasus、ミズノは Wave Rider だけに絞られます。その他のモデル、あるいはメーカーのシューズを買うかどうかは、ネット上のレヴューを比較検討した上で決めるつもりです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


もし「あなたは何をしていますか」と聞かれたら

2022-04-01 23:59:59 | 雑感

 現時点において、「ご職業は」と聞かれれば、「大学教員」ですと答えることに嘘偽りはありません。その答えに特段の誇りもなければ格別の羞恥もありません。しかし、これは定年退官までという年限付きの回答に過ぎません。
 もっと端的に、「あなたは何をしていますか」と聞かれたら、なんと答えましょうか。今の私はきっと次のように答えるのではないかと思います。
 私生活における将来計画などなく、何らの社会貢献もしておらず、趣味生活を楽しむでもなく、翻って、衝動的に何もかも投げ出したいという自暴自棄な気持ちになることもなく、世の中の不条理に瞋恚を覚えることもなく、老後を思って居ても立っても居られないような不安を感ずることもなく、社会の秩序を乱すような逆恨み的な凶悪犯罪を計画するだけの想像力さえなく、日々、ただ、目の前の職業的義務を人並みに果たすだけで、一言で言えば、「ああ今日も死なずに生きた」というだけのことで、それをありがたやと神に感謝するでもなく、避けがたい死に恐れ慄くでもなく、波風立つこともない、傍から見ればいたって平穏無事な日常は、地獄でもなければ天国でもなく、要するに、「なんでもない」ということに耐えつつ、生き恥を晒しながら辛うじて生きております。
 こう答えるしかないよなあと思うことから、寒の戻りで底冷えのする四月は始まりました。