内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

〈食べる〉ことの神秘 ― ジャン・ヴァール『ヘーゲル哲学における意識の不幸』より

2022-04-22 23:59:59 | 読游摘録

 「食べる」ことについての哲学的考察を二十世紀フランスの様々な哲学書の中から拾い出す作業をしているとき、ジャン・ヴァールの『ヘーゲル哲学における意識の不幸』(Le malheur de la conscience dans la philosophie de Hegel 初版1929年 第二版 PUF 1951年)の次の一節に行き当たった。

 L’acte de manger qu’un romantique comme Schlegel prend volontiers comme terme de comparaison est un acte mystique par lequel l’objet et le sujet se confondent : le Christ devenu objet redevient sujet, de même que la pensée devenue mot redevient pensée de celui qui lit. Mais la lecture donne une idée qui n’est pas encore très exacte du processus, car il faudrait que le mot disparût comme chose par le fait même qu’on le verrait comme esprit. La nourriture assimilée redevient être vivant. la vie rentre dans la vie. L’objet, produit de la séparation, retourne au sujet. Il y a vraiment ici une synthèse subjective. p. 164-165.

 ヘーゲルの宗教哲学の要所を説明している節の中の一段落である。シュレーゲルのようなロマン主義者たちが宗教と哲学との違いを説明するとき、あるいは哲学が最終的には宗教に至らなくてはならない理由を説明するとき、好んで引き合いに出すのが「食べる」という行為である。それは、〈食べること〉が〈食べるもの〉と〈食べられるもの〉とが融合する神秘的な行為だからである。聖餐式においてパンを食べることは、その行為を通じて、客体化されたキリストの体が再びに主体になることである。同化された食べものはかくして再び生けるものとなる。いのちがいのちの中に帰る。いったんは切り離されて客体化されたものが、再び主体へと帰る。まさにここに主体的総合がある。
 およそこのような内容だが、いろいろと考えるヒントを与えてくれた。今回の論文には引用しないが、後日別の機会に引用することもあろうかと、1951年の第二版を古書で購入した(参照したのが電子書籍版で頁数がわからなかったからである)。市場にはよく出回っているようで、日本円にして2千円程度で入手できた。
 ただ、七十年以上も前の本で、しかも紙質も悪く、製本も粗末で、背表紙は剥がれ落ちそうになっている。中身はおそらく開かれたことがほとんどなく、書き込みもなければ、折れもシミも虫食いもない。剥がれ落ちそうになっている背表紙を接着剤で貼り直した上で、表紙・裏表紙・背表紙を包むようにブックコートフィルムを貼って外側を補強した。こういう作業は嫌いではない。それに、これは、この本に、いやその著者に対する、感謝のしるしでもある。