内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

十七世紀初頭、ヨーロッパでは、人間に対して「犯罪」を犯した動物たちは「処刑」されていた

2022-04-07 23:59:59 | 哲学

 昨年、スピノザの『エティカ』の新しい仏訳がフラマリオン社から刊行された。これがかなり野心的な企画で、一言で言えば、『エティカ』を一冊の書物として前から順に読めるように工夫が凝らされている。
 『エティカ』は、ある定理の証明をそれ以前に証明された定理を前提として行なうのが原則であるから、その前提とされている証明を参照することがしばしば要求される。したがって、浩瀚なテキストの中を行きつ戻りつしながら読まなくてはならない。だから、後ろを振り返らずに前へ前へと読み進めることがなかなかできない。それが理由で、読み続けるのがいやになってしまうこともある。
 このフラマリオン社の新訳は、見開き二頁の右頁に本文(仏訳)を配し、その本文中に付された注を同じ見開きの左頁側に置いている。しかも、本文の活字よりは一回り小さいとはいえ、読みやすさに配慮したレイアウトになっている。右頁の本文を読みながら、ちょっと横に視線をずらすだけで左頁の注が参照できるように工夫されている。
 第四部三七定理注解一の「動物がわれわれにたいしてもっている権利と同じ権利を、われわれは、動物にたいしてもっている」という一文には、左頁の半分を占める注が付けられている。その注が大変興味深い。そのおよその内容は以下の通りである。
 十七世紀のヨーロッパではなお、動物たちは、場合によっては、人間に対して犯した「犯罪」について裁かれた。フランスでは、法律家のジャン・デュレ(Jean Duret, 1563-1629)が1610年に刊行した刑法論で次のように述べている。「もし獣が単に人間に怪我をさせただけではなく、殺害あるいは捕食に及んだ場合には、死刑に処される。絞首か馘首による。それは、その甚大な被害事実の記憶を消失させるためである」。このような処刑の対象になったのは、主に、致死的被害を引き起こした馬、乳幼児を死傷させ、さらには捕食した豚などであった。
 当時の初期オランダ共和国は、このような処刑を廃止したばかりであった。その廃止の理由は、動物は善悪の判断ができる徳性を備えておらず、したがって法的に責任能力を問うことはできず、被害の責任はその動物の所有者に帰される、ということである。責任能力を人間に限定し、動物を上掲のような「処刑」から解放した「近代化」は、しかし、人間による肉食を法的に妨げるものではもちろなかった。
 動物処刑廃止に対してスピノザがどのような立場をとったのかはわからない。スピノザの動物権利論がこの廃止理由と直接的に対立するわけでもない。しかし、スピノザは、動物にも感覚を認め、各個の権利はその所有している能力に応じて規定されるという原則は動物にも適用されると考えた。スピノザは、『神学政治論』のなかで、小さい魚が大きな魚に食べられるのはその自然権によるという主旨のことを述べており(XVI, §2)、食物連鎖を肯定しているわけだから、動物愛護論者だったわけでもない。しかし、「動物の権利」擁護者ではあった。
 動物に感覚(つまり受苦性)を認め、人間の権利よりは小さいとはいえ、動物にもその能力に応じて権利を認める思想は、動物を感覚のない機械とみなす同時代の「近代的」哲学者たちとスピノザとを画然と区別する指標の一つであるとは言えるだろう。