内的自己対話-川の畔のささめごと

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人間の動物利用は動物がもっている権利によって制限される ― スピノザ『エティカ』第四部三七定理注解一より

2022-04-05 18:00:33 | 哲学

 昨日の記事を読んでくださった方のなかに、最後に引用したスピノザの『エティカ』の注解の第二段落のなかの一文を、もしかして逆の意味に取られた方がいらっしゃるかもしれないと気になった。今日はその点について一言補足しておきたい。
 問題の一文とは、「私が否定するのは、そのために自分たちの利益をはかって、動物を自分の思うままに利用したり、またそれをわれわれにできるだけ好都合なようにとりあつかうことは許されないことである」という文である。この日本語訳をさっと一読しただけだと、「私が否定する」のは、「動物を自分の思うままに利用したり、またそれをわれわれにできるだけ好都合なようにとりあつかうこと」であり、それはいけないことだと強調するために、「許されない」とダメ押ししているかのようにも読まれてしまいかねない。
 しかし、少し注意して読めばわかるように、この文が言っているのはその逆である。つまり、「動物を自分の思うままに利用したり、またそれをわれわれにできるだけ好都合なようにとりあつかうこと」は人間に許されていないわけではない、と言っているのである。上掲の訳文はこの点でラテン語原文に対して忠実であり、私が参照した三つの仏訳にもまぎれはない。
 では、スピノザは、人間が動物を自分の好き勝手に取り扱うことを肯定したのだろうか。そうではない。
 この点の理解に関して、一昨年刊行された Pierre-François Moreau の仏訳(PUF)のこの箇所につけられた注が参考になる。モロー氏はまず、ここでのスピノザの考えはストア派のテーマの一つであるが、それをスピノザは非目的論的なパースペクティブのなかで書き直していると指摘している。どういうことかというと、人間による動物の利用は、目的の階層的相互連関のなかで、より高次の目的のゆえに肯定されるということではなく、昨日引用した第一段落にあるように、「各自の権利は各自の徳、あるいは能力によって規定されるものであるから、人間は、動物が人間にたいしてもっている権利よりもはるかに大きな権利を、動物にたいしてもっている」かぎりにおいて、人間による動物の利用が肯定されている、ということである。
 つまり、その利用範囲・条件は、動物がもっている権利によって制限されている。問題の一節からだけでは、その利用範囲・条件を具体的に知ることはできないが、少なくとも、人間が動物を自分たちのために好きなだけどのように利用してもいいとはスピノザは言っていない。動物の権利はそれとして尊重されなくてはならない。その権利は徳と能力に応じて与えられている。こうスピノザは考える。
 この点について、明日の記事でもモロー氏の注を参照しつつ、もう少し考えてみよう。