内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

私にとってのブログの望ましい在り方

2022-04-20 22:28:18 | 雑感

 出し抜けですが、このブログ、この二ヵ月ほど、身を喰む虚しさを噛み殺しながら、息も絶え絶えの体で辛うじて続けてきました。ただ、途切れさすまいという一念だけが支えでした。「そんなにしんどけりゃさあ、やめりゃあいいじゃん。だれもこまるわけじゃないし。あんただって肩の荷がおりて、すっきりするさ」という、悪魔の囁きと日々闘いながらの投稿でした。今日もそうです。
 文章を書くこと自体が虚しくなったわけではありませんが、このブログについては、もっと他のことのために時間を有効に使うべきではないかと自問する日々でした。その自問の時間がまた無駄に思えました。悪循環です。
 他方、この二週間ほどは原稿執筆とそのための参考文献渉猟に集中し、それはそれでとても充実した時間でした。その原稿も締め切りまで五日を残して、今日、ほぼ仕上がりました。ホッとしました。締め切り日まで、時間の許す限り、推敲を重ねていきます。
 ただ、一つ心残り、というか忸怩たる思いがあります。それは、四月は書籍購入禁止月間と自ら指定したにもかかわらず、研究及び教育に即必要な文献については、これを値段の制約なしに購入できるという特例項目を設けてしまったがために、今日20日の時点ですでにこの一年間での月間最高額を更新してしまったことです。
 このことは、しかし、今回のテーマに関する文献がここ十数年で急速に増えていることを意味しているのです。原稿料を遥かに超える出費になってしまいましたが、それらの文献を読んでとても勉強になり、これからさらに考えていくべき問題をいくつも与えられたので、少しも後悔していません。
 その出費の埋め合わせとして、来月は、締め切りのある原稿はないし、今年度の授業も上旬には終了するので、「書籍購入禁止強化月間」のキャンペーンを展開し、特例措置もいっさい認めず、取り締まりを厳格にし、一冊も買わないように努力します。でも、これは、私にとって禁酒の次くらいに耐え難い試練です(ちょっと自信ないなあ)。
 今回の原稿執筆過程で、これはちょっと雑誌(来月27日刊行予定。拙稿が没にはならないことが確定したら、このブログでも宣伝させていただきます)には掲載できないけれど、副産物として記録はどこかに残しておきたいなあと思う感想も生まれ、その一部はこのブログにも書きました。
 いつも何か書くべき原稿があって、その副産物としてこのブログが続く、というのが私にとって望ましい在り方なのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


鴨短冥編著『淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)語辞典』 編著者のことば

2022-04-19 11:36:20 | 雑感

 『淀みに浮かぶ泡沫語辞典』(凡庸書房)の編著者である鴨短冥先生は、外つ国の地方都市に独り隠棲する知る人ぞなき貧しい国語学者である。凡庸書房社主(本人の希望により匿名とする)は、ほとんど引きこもりに近い生活をしている鴨先生の唯一人の友人であり、書房を独りで経営している。といっても、自分が気に入った作品を年に一冊、一部だけ印刷するだけであるから、これを経営とは言い難いし、凡庸書房を出版社とは認め難い。
 社主のところに先生が上掲の辞典の企画を持ち込んだのはつい先日のことである。社主は、印刷・製本その他辞書作成に必要な費用は全部先生持ちという条件でこの企画を快諾した。先生大喜びで「編著者のことば」を推敲に推敲を重ねて書き上げた。先生と社主の許可を得て、その全文をここに転載する。

 編著者のことば

 淀みに浮かぶ泡沫のごとくかつ消えかつ結びて久しくとどまらないのは、世の中にある人と栖ばかりではない。言葉もまたそうである。いっとき盛んに人の口の端にのぼった言葉も翌年には耳にしなくなることも珍しいことではない。産声を上げたと思ったら、産湯とともにすぐに流されてしまう痛ましい言葉もある。産まれぬ前に母の胎内で命を終えてしまう誠に儚い言の葉、とも言えぬその欠片も無数にある。ただ、多くの人たちはそれを耳にすることがないから知らないだけである。そのようにいともかそけき言葉の胎動を聞き逃すのは、それらの言葉に対して水子供養を怠ったかのような心痛と悔恨を我が心に引き起こす。それらの言葉たちの墓標にでもなればと、この辞典の編纂を決意した次第である。泡沫のごとく消えてはまた現れる言葉に独り耳を傾け、蜉蝣のごとく儚く消え去る言葉たちを辛うじて掬いとめる作業を続けていると、切なさに胸を締めつけられることも一再ならずある。この辞典を通じてその切なさを読者と分かち合うことができれば、これに過ぎる喜びは編著者にはない。

 令和四年年四月一九日

鴨短冥

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


パレーシアから遠く離れて ― 意気地なしのヒトリゴト

2022-04-18 23:59:59 | 雑感

 敢えて事を構えるような物言いを私は好まない。誤解を恐れずに公共の場で真実を言う勇気(パレーシア)もない。自分から論争を仕掛けるのも億劫だし、相手を挑発して怒らせるのも趣味ではない。結果、八方美人的で、当たり障りのない言い方を選んでしまい、おかげで人の注意を引くこともない。
 今、ついうっかりと「八方美人」という言葉を使ってしまって、ちょっと気になった。手元のいくつかの辞書によれば、これは和製漢語で、もとは「どの方向から見ても美しい人」の意だったのに、「だれに対してもあいそよくふるまう人」という侮蔑的な意に転じた。この侮蔑的意味での「八方美人」は男性にもたくさんいるし、実際この意味で男性に対しても使われる。ところが「美人」は女性にしか使われない。この語の使用は女性差別にあたるのだろうか。
 さて、話を元に戻すと、このブログも始めてもうすぐ丸九年になるが、炎上したことはまったくない。そもそも読者は少ないし、読んでくださっている方たちは、多少問題があると感じる表現があったとしても、きっと好意的解釈してくださっているか、些細なことだと寛容に見逃してくださっているのだろう(この場を借りて、感謝申し上げます)。
 なんでこんな話を始めたかというと、今、食べることと食べられることとの関係についての論文(日本のある月間思想誌の六月号に掲載される予定)を書いていて、肉食に断固反対する菜食主義者たちのことを考えているうちに、それらの人たちに対して相当に手厳しい結論に至ってしまい、それをそのまま掲載したら、命を狙われることはないにしても、激しく「噛みつかれる」かなあとちょっと弱腰になっているからなのである。
 ネタバレにならない程度にその結論の一部をここにちらっと紹介しようかと、一瞬思ったが、ヤッパリやめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「ヒトリゴティズム」― 鴨短冥編著『淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)語辞典』(凡庸書房、「没企画叢書」、非売品)より

2022-04-17 00:10:43 | 雑感

 「ヒトリゴティズム」って、聞いたことありますか。ないですよね。それもそのはず、こんな言葉、ありませんから。今、私が思いついた言葉(って言っていいのかな?)です。思いついた以上、自分で定義する権利あるいは責任があるのではないかと愚考つかまつります。そこで、僭越ながら、以下、辞書風な定義の真似事をしてみましょう。

ヒトリゴティズム 誰にも聞かれないとわかっていることを、SNS等を通じて、目に見えない不特定多数に向かって呟き続けることで、辛うじて苛酷な(あるいは本人がそう思い込んでいる)現実に耐え続ける、孤独な人たちの生活態度を指す言葉。2020年代、経済格差が深刻化した日本社会の貧困層で使われた始めた言葉。類義語 ツブヤキズム。関連語→おひとりさま、孤独死、コロナ禍、ツイッター、引きこもり、無縁社会。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「テオクレティズム」― 鴨短冥編著『淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)語辞典』(凡庸書房、「没企画叢書」、非売品)より

2022-04-16 02:33:32 | 雑感

 「テオクレティズム」って、聞いたことありますか。ないですよね。それもそのはず、こんな言葉、ありませんから。今、私が思いついた言葉(って言っていいのかな?)です。思いついた以上、自分で定義する権利あるいは責任があるのではないかと愚考つかまつります。そこで、僭越ながら、以下、辞書風な定義の真似事をしてみましょう。

テオクレティズム もう何をやっても無駄、すべては手遅れであると、何も試みない前から一切の努力を放棄する投げやりな態度を指す言葉(軽蔑語)。派生語 テオクレティスト。テオクレティズム的な態度を取る人(軽蔑語)。用例-「現代の若者たちはテオクレティズムに深刻に冒されている」。関連語→後の祭り、ニヒリズム、ペシミズム。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「アホ」リズム(三)― 生物界に対する「人間的な、あまりにも人間的な」立場

2022-04-15 02:53:44 | 哲学

 肉食を人類の「蛮行」として批判する立場の一つとして、自己の行いの善悪を判断できる理性を与えられた人類(あるいは、邪悪なる蛇に唆されたエヴァと愚かにも彼女の言いなりになったアダムとがエデンの園の禁断の実を食したがゆえに、二人とも「目が開け」、神のごとく善悪が判断できるようになった、と思い込んだことがその始まりである人類)は、それができない生物たちの世界を「超越」した存在であり、まさにそれゆえに、生物界を保護する立場にこそあれ、その秩序を乱す権利はなく、しがって、生物界の捕食者である動物たちを殺害し、自らの食物とすることは許されないとする、精神的に「高貴」であるとは言えるかもしれないが、生物界に対してどうしようもなく「上から目線」で「人間的な、あまりにも人間的な」立場がある。
 他方、そもそも人間は他の諸生物とは「別格」の存在として神によってその姿に似せて創造されたのであり、他の諸生物は人間がそれらを支配するために「創られた」のであるから、人間はそれらを自分たちのために「善用」する権利を独占的に与えられているとする、この上なく傲慢で野蛮な考え方もある(日々愚昧への道を邁進する老生の私見によれば、[以下、オフレコでお願いしますね]神様が自らの姿に似せて人間を創造してしまったのは、人類史上決してなかったことにできない痛恨のミスである。謝ってすむことではない。もし、人間を神に似ても似つかぬ醜い姿に創っておけば、人間がこれほど傲慢になることもなかったであろうと、悔やんでも悔やみきれぬ)。
 前者が二十世紀も終わりかけた頃に欧米で生まれた「新思潮」であるのに対して、後者はナザレ人イエスが生まれる数百年前からユダヤ教世界で広く信じられていた長い伝統を誇る神話である。しかし、見比べればすぐにわかるように、人間と他の諸生物との存在身分をはっきりと分ける点において両者はよく似ている。
 現代世界において、前者が後者に取って代わろうとしているかのように見える。ということは、人類は、二千数百年をかけて、生命観・世界観において進歩したということであろうか。地球上での自らが負うべき責任についてより自覚的になり、神様のお墨付きを必要としなくなり、それだけより賢くなったということであろうか。
 だが、たとえそうだとしても(正直に言えば、老生は、あらゆる進歩史観に対して懐疑的なのだが、今、それは措く)、賢くなるのが遅すぎたのではないか。もう手遅れなのではないか。
 「賢くなるのに遅すぎることはないのである」と宣った聖賢が過去にいたであろうか。寡聞にして老生の記憶にはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「アホ」リズム(二)― 動物の権利をめぐる論争は、ヒト同士の間の「代理戦争」か

2022-04-14 02:20:27 | 哲学

 動物の権利を主張し、肉食を殺害行為の一環として告発・弾劾する反肉食主義者たちが提起する議論には、当の「被害者」である動物たちは常に不在である。それは、殺害されてしまったから不在なのではなくて、「被告」であるヒトたちと共通言語を持ちえないという理由で、動物たちはそもそもこの議論に参加することができないからである。
 アニマルウェルフェアの観点から、家畜の劣悪な飼育環境を告発する場合も、訴えを起こすのはつねにヒトであって、動物たち自身は「原告」ではありえない。動物たちが「証人」として証言台に立つこともない。動物たちは、どこまでも「サイレント・マジョリティ」なのである。
 動物の権利をめぐる論争は、いつもヒトたちによる「代理戦争」である。代理である以上、動物たちの「意」を汲み、彼らの「苦痛」を理解し、彼らの「主張」をヒトの言語に翻訳しているはずである。であるとすれば、これは、動物たちの「味方」であるヒトたちが、不当な扱いを受けている動物たちに代わって、動物たちの「仇敵」であるヒトたち向かって仕掛ける闘いである。動物たちのためのヒトによるヒトに対する闘いである。
 いや、ほんとうにそうだろうか。動物の権利をめぐる論争は、実のところ、「動物たちの幸福のために」という錦の御旗の下、「動物倫理学」あるいは「動物権利論」という形を取った、ヒト同士の論争であり、ヒト同士の間のイデオロギー論争あるいは主導権争いなのではないか。いや、それだけではない。その「聖戦」の背後には、動物そっちのけのヒト同士の経済的・政治的利害をめぐる争いが隠されていはしないのか。とどのつまり、ヒトによるヒトのためのヒト同士の争いに過ぎないのではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「アホ」リズム(一)― 食物連鎖の「頂点」

2022-04-13 04:45:53 | 哲学

 食物連鎖が自然界の「掟」であるとすれば、捕食者の捕食行動はその掟に従っているだけのことで、何ら非難には値しない。生物としての人間もその連鎖の一環を成しているかぎり、その捕食行動は他の捕食者においてと同様に「正当」であり、批判される謂れはない。その捕食が生命維持に必須な要素の最低限の摂取であればなおのことである。
 人類は、この食物連鎖の頂点に立っている(と錯覚している)。したがって、猛獣に襲われるなどの不幸な事故に遭わないかぎり、食べられることはない。人類はいつも食べるものの側に立っている。しかし、動物界にも、一方的に食べるものの側に立ち、他の生き物に食べられることのない「猛者」たちもいるから、この頂点は人類によって独占されているわけではない。
 それに、頂点に立っているからといって、すべてが許されるわけではない。何をどれだけ食べようが自由だというわけではない。過剰な捕食行動はいつか食物連鎖の均衡を脅かすに至るからである。つまり、継続的過剰捕食は捕食者側にとって自殺行為になりかねない。
 だから、動物界の「賢い」猛者たちは、必要以上には食べない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


原稿作成作業に没頭できる幸せ

2022-04-12 21:40:02 | 雑感

 今日も午前六時から原稿作成作業。原稿執筆そのものはペース抑えめ。二十冊ほどの参考文献を拾い読みしている時間の方が長かった。幸福な時間だった。
 総計字数は八千字になる。制限字数の三分の二に達した。量的にはもうゴールが見えてきた。とはいえ、内容的にはまだまだ。問題が多岐に渡り過ぎ。取っ散らかったままだ。
 木曜日には制限字数に達するだろう。そこから「剪定」作業に入る。そこで徹底的に刈り込む。削りに削って残された字数内で可能なかぎり、内容の充実化を図る。
 午後三時四十分頃、ジョギングに出発。よく晴れた春の陽射しの温みを感じながら13,2キロ走る。
 三月後半から体組成計の数値は停滞気味だった。嬉しいことに、ここ数日、また上向きになってきた。
 体脂肪率と骨格筋率の相関関係と両者の数値の週単位の推移、体組成計が示すその他の数値、内側から感じられる身体感覚、鏡に写った外観、これらすべてを勘案して、自分の身体の現状について、整合的な帰結を導き出すことを試みる。考慮に入れる要素が増えれば増えるだけ、全体としての整合性を得るのは難しくなる。素人の遊びに過ぎない。でも、頭の体操にはなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


筆、走る

2022-04-11 23:59:59 | 雑感

 午前六時から原稿執筆開始。午後二時まで休憩なしで集中的に書く。六千字ほどになる。指定制限字数のちょうど半分くらい。
 筆が走った。いや、走りすぎた。でも、ここから難儀しそう。今週の土曜日までには第一草稿を書き上げるつもり。その後残された一週間は推敲と注作成に充てる。
 ただ、勢いにまかせて一気に書くと、展開が単線的になりがち。取り扱っている問題からして、それは望ましくない。そのまま走りたがる脳の思考回路を一旦リセットするために、ジョギングに出かける。13,6キロ走る。
 ジョギング後、早めに夕食を済ませ、十時に就寝。