内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

感性的環境論―動的均衡美の探究

2022-04-24 00:34:58 | 雑感

 論文には書けない心の叫びをここに書かせてください。

 特定の宗教によって肉食の是非に最終的な決着をつけることはできない。何を食べてよいか/食べてはならないかを政治的決定に委ねることもできない。倫理的存在価値を動物や植物にまで拡張しても、動植物の権利を主張しても、それだけでは動植物がそこで生きる環境を改善することはできないし、生態系の破壊も止まらない。
 動植物に関する哲学的言説が、哲学・思想ギョーカイの「売れ筋新商品」に過ぎないのならば、そして、それらの商品が紙媒体で売れるだけのことならば、著者と出版社は、森林破壊を糾弾する書籍で利益を上げながら、森林破壊に加担していることにならないのか。動物たちには理解できない言語で書かれた動物権利擁護本が売れたとき、儲かるのは出版社であり、印税を受け取るのは著者であって(慈善団体に寄付する人もいると思うが)、動物たちには一銭も入らない。そもそも、「私たちの代わりに私たちの悲惨な状況を訴えて」って、いつ動物たちが頼んだ? 
 言っておくが、だから何をしても人間どもの自己満足にすぎないなどと乱暴なことが言いたいのではない。ただ、いったい誰のための、何のための議論なのかと、私自身、論文を書きながら問わざるを得なかったのである。
 地球環境の現状を変えていくには、経済の力も政治の力も必要だ。悪化した環境を改善するには科学技術も不可欠だ。国際的な協力関係も必須だ。しかし、これらいずれの要素もそれだけでは現状改善のために十分に機能し得ない。現状の改善は、それらの可変的・可塑的な諸要素が協働しうる均衡点を見つける作業と不可分だ。この均衡点は固定的ではなく、その都度の所与の条件によって位置が変化する。この動的均衡点をどうやって見出すか。それを誰がやるのか。プロジェクトの規模が大きくなればなるほど、難問は山積する。
 人間の、限度を知らない欲望を満足させるためだけの―いや、限度を知らないのだから、決して満たされることはない欲望のための―森林破壊も動物の屠殺も美しくない。それらの光景は私たちに嘔吐さえ催させる。それらの行為は、生きている形あるものの破壊という点で同じである。
 残念ながら、現実的にはそれら一切の破壊行為を直ちに全面的に禁止することはできない。それを最終的には目指すとしても、今できることは、可変的諸要素間の常に危うい動的均衡を保つべく努力し続けることだろう。その均衡の具体的維持には、科学技術も政治も経済も必要だ。簡単なことではない。それはわかっている。
 どこに希望を見出せばよいのだろう。希望など、抱くのが間違いなのだろうか。
 バランスの取れたものは美しい。それは、人に教わらなくても、感性によって直感的に把握されうる。もしこの美の直感が人間にもっとも公平に付与された能力であるのならば、たとえナイーブだと言われようとも、私はそこに未来への希望を見出したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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