内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

式子幻想―「孤独な春のナルシシズム」

2019-02-18 23:59:59 | 読游摘録

 今すぐ式子内親王について何か書けるほどの準備はできていないが、古典文学の授業で今学期中に和泉式部を取り上げることは計画に入っており、それは『和泉式部日記』の景情一致の場面を取り上げるためなのだが、補足として和泉式部と式子内親王とを対照させることで、両者の歌人としての傑出した資質の異なりには少し触れておきたいと思っている。
 馬場あき子の『式子内親王』の初版刊行は一九六九年でちょうどう半世紀前。歌人である著者の最初の評論。式子内親王の史実に関わる部分では、今日の研究によって修正されなくてはならないところもあるが、歌の解釈の踏み込みの深さと歌の成立の背景となる式子の心事への洞察には今なお多くの学ぶべき点があるように思われる。
 本書の第二部「式子内親王の歌について」と題され、歌の注釈と解釈に多くの頁が割かれている。その第一節は、式子内親王の心情を『源氏物語』の宇治の大君のそれと重ね合わせて推し量ることから始まる。
 冒頭に掲げられているのは、式子内親王が斎院退下後、比較的早く読まれたと考えられる歌。

あと絶えて幾重も霞め深く我が世をうぢ山の奥の麓に

 この一首を口誦むに従い思い浮かぶと著者が言うのは、『源氏物語』の「橋姫」の巻の一首。

あと絶えて心すむとはなけれども世をうぢ山に宿をこそかれ

 これは不遇な八宮が隠棲地の宇治山荘から冷泉院に奉った歌。式子の歌と共通する「あと絶えて」は「世間的な交わりを断って」ということで、八宮の歌の意は、「世間的な交わりを断つことによって、澄んだ悟りの境地に入るというわけではないが、結局は世を憂いものと思って宇治に隠れ棲んでいるのです」。

これに対して式子の歌は、悟りや仏教的内省などには全く無縁に、直情的うたいすすめているところが、いかにも若い一途な心情を感じさせる。「あと絶えて」と、初一句の据え方を八宮と全く同じにしているなども、本歌に寄せる心情のなみなみならぬものを感じさせるが、また、二句切れの高揚した感情表現には、潔癖ともいえる汚濁への嫌悪と、孤独な春のナルシシズムへの傾斜がみられる。そして、この一首がたまたま八宮の歌を本歌としているというだけでなく、式子の歌にある〈詠め〉―物思い― の心情は、あるとき八宮の姫君宇治の大君の内面と交錯し、錯覚させる共通性をもって読者に迫るところがある。

 実在の歌人の心事を物語の登場人物の心情の鏡に映して読み解くことによって、言い替えれば、ロマネスクな世界の中に詩人の感情の共鳴を聴き取ることによって、歌人の内面により深く立ち入ろうとするこの手法は、私にとって大変示唆的である。













式子内親王の珠玉の名歌を訪ねて書林逍遥

2019-02-17 17:12:05 | 詩歌逍遥

 先週の水曜日の古典文学の授業で大岡信の『日本の詩歌 その骨組みと素肌』(岩波文庫)の「四 叙景の歌」の第一節を読んだ。そこに例として引かれていたのが式子内親王の和歌「跡もなき庭の浅茅に結ぼほれ露の底なる松むしのこゑ」であったことについては先日の記事で触れた。
 この和歌を取り上げたのがきっかけで、ここのところ毎日式子内親王の歌を読んでいる。ただ、手元には『式子内親王集』がないので、『新古今集』や注釈書や評論に引かれた作品に限られている。そのうち紙の書籍は、角川ソフィア文庫版『新古今和歌集 上・下』(久保田淳校注)、塚本邦雄『淸唱千首』(冨山房百科文庫、1983年)『王朝百首』(講談社文芸文庫、2009年)『珠玉百歌仙』(同文庫、2015年)。電子書籍として「手元」にあるのは、馬場あき子『式子内親王』(講談社文庫、2018年、初版1969年)、竹西寛子『式子内親王 永福門院』(講談社文芸文庫、2018年、初版1972年)、田渕句美子 『新古今和歌集 後鳥羽院と定家の時代』(角川選書、2015年、初版2010年)、『異端の皇女と女房歌人 式子内親王たちの新古今集』(角川選書、2014年)、塚本邦雄『新撰 小倉百人一首』『詩華美術館』『百花遊歴』(いずれも講談社文芸文庫、それぞれの電子書籍版発行年は、2016年、2017年、2018年)。
 今日、これらの書林の中を逍遥しながら、式子内親王の名歌を歎賞していたのだが、ちょっと調べたいことがあってネット上で式子内親王の和歌を検索していたら、萩原朔太郎の『戀愛名歌集』(1930年)中の式子内親王評を引用しているサイトがあった。その評言に惹かれ、新潮文庫電子書籍版を即購入した。これは1954年同文庫刊行版に基づいている。面白いことに、同書の初版1930年版の復刻版(響林社文庫、2015年)がフランスのアマゾンでも買えるようになっている。
 式子内親王を和泉式部と並んで古典和歌の女流歌人中の最高峰と絶賛する近現代の詩人・歌人・批評家は少くないが、朔太郎もその一人。『戀愛名歌集』には式子内親王の歌が二十二首採られている。私が惹かれた評言は以下の通り。

彼女の歌の特色は、上に才気溌剌たる理智を研いて、下に火のような情熱を燃焼させ、あらゆる技巧の巧緻を尽して、内に盛りあがる詩情を包んでいることである。即ち一言にして言えば式子の歌風は、定家の技巧主義に万葉歌人の情熱を混じた者で、これが本当に正しい意味で言われる「技巧主義の芸術」である。そしてこの故に彼女の歌は、正に新古今風を代表する者と言うべきである。

 この評言の直前に挙げられているのが次の一首。

わが恋は知る人もなし堰く床の涙もらすな黄楊の小枕












唐木順三『無常』再読 ― 学生たちとの「会読」を通じて

2019-02-16 15:14:17 | 講義の余白から

 修士一年後期の演習「近現代思想」でどのテキストを講読するか、散々に迷った挙げ句、三年前にも一度取り上げたことがある唐木順三の『無常』に決めた。この選択には、私が指導教官である学生のうちの一人が『蜻蛉日記』を、もう一人が時枝誠記の言語過程説を修論のテーマにしているから、その学生たちに特に講読のリーダーシップを取らせるという目論見も働いている。しかし、なによりも、この名著の読解を通じて、日本の古典文学の世界に分け入りつつ、日本思想史を古代から現代まで通観するための一つの観点を学生たちに捉えてほしいというのが主たる選択理由である。
 一昨日木曜日に、修士一年十三名全員に、ちくま学芸文庫の電子書籍版の『無常』を各自購入しておくように指示した。9ユーロ程度だから、皆了承してくれた、と思う。少なくとも拒否した学生はいなかった。紙の書籍版が安く入手できればそれにこしたことはないのだが、現在入手可能な新本は、中公選書の『唐木順三ライブラリーIII 中世の文学 無常』だけであり、これは三千円以上する。さすがにこれを買えとは学生に言えない。
 過去には、文庫版や新書版で入手可能なテキストを使ってきた。なぜコピーを使わないかというと、著作権の問題というよりも、学生に一冊の本を読むという経験をさせたいからだ。それによって得られる達成感はコピーでは得られない。電子書籍をテキストとするのは今回がはじめてだが、これはこれで利点がある。マーカー・コメント・検索機能を活用できることである。
 残念ながら演習の枠だけで一冊全部読み上げる時間はないが、学生たち自身にその気があれば、いつでも読解は継続できる。これから八回の「会読」を通じて、学生たちがその先を自力で読んでみたいと思うようになるような演習にしたい。












昨日の記事の補足

2019-02-15 23:59:59 | 雑感

 もし昨日の記事の内容が、学生全般についての印象と勘違いされてしまっては私の意図に反するので、一言補足を加えておきたい。
 当たり前といえは当たり前のことだが、真面目な学生たち、優秀な学生たちも、もちろん毎年必ずいる。多数とは言えないが、各学年に何人かはほんとうに優秀かつ熱心に勉強する模範的な学生もいる。
 問題は、そういう学生たちと同じ教室に、昨日の記事で説明した「相殺制度」を「フル活用」してあがってくる学生たちもいるということである。教師たちにしてみれば、優秀で真面目な学生たちだけを相手にできればそれにこしたことはないが、現実には、日本語能力がまったく学年水準に達していない学生たちが「合法的に」同じ授業に出席しているのだ。
 授業のタイプによっては、その手の「相殺進級組」を無視してかかることもできなくはないが、語学の授業ではそういう学生たちがどうしても足を引っ張ってしまいがちだ。このような傾向が真面目で優秀な学生たちにも影響を及ぼさずにはおかないのである。彼らが内心どう思っているか知らないが、けっして面白くはないだろう。自分たちはちゃんと勉強してしかるべき成績を収めて進級してきているのに、「相殺制度」のおかげで成績不良にもかかわらず上がってきた学生と同じ教室にまとめられてしまうのだから。もっと多くのことを速く学びたいと思い且つそれができる学生たちが自分たちに合ったペースで勉強できない理由が「相殺進級組」の存在なのだ。
 私は「相殺進級組」たちの人格を否定しようとしているのではもちろんない。「相殺制度」という天下の悪法が学生全体に及ぼしている否定的な作用のことを問題にしているのだ。一定の明確な基準にしたがって成績判定がなされ、その成績に応じて合否が決まり、合格したもののみが進級する、という至極まっとうな原則が、「相殺制度」によってほぼ完全に否定されてしまっている。このような現実を知っても、それでもなお、そんなこととは関係なく、向上心を保って努力を重ね、優秀な成績を収める学生たちがいることは教員たちにとって救いである。だが、他方、明らかに「相殺制度」のせいで、まともに努力をしようとする姿勢を失ってしまった学生たちもいることは否定できない。
 「相殺制度」によって歪んでしまったフランスの大学教育の病状は、対処療法ではどうにもならない深刻なステージにまで進行してしまっている。













恥知らずな駄目学生を量産するシステムに蝕まれつつあるフランスの大学の現状

2019-02-14 23:59:59 | 雑感

 日本の大学の教育レベルやそのシステムにもいろいろと問題があることは知っているが、問題の深刻さにおいてはフランスも負けてはいない。というか、悪化の一途を辿っているのではないかと、つい悲観的な気持ちになる今日このごろである。現場では、教員たちはそれぞれにみな努力をしていないわけではない。しかし、その努力を嘲笑うかのごとき悪名高きシステムがフランスの大学をここ十数年蝕みつつある。
 そのシステムは « Compensation » という。日本語に訳せば「相殺制度」とでもなろうか。簡単に言うと、ある科目で不合格点でも、他の科目で良い点を取り、総合平均点で合格点(20点満点で10点)に達していれば、セメスター全体を取得したとみなすのである。
 事の起こりは二十年ほど前だったと記憶しているが、当初は一種の救済措置だった。他はみんな合格点が取れているのに、一科目だけ不合格で、セメスターが取得できないのは気の毒だというようなことのがその導入の理由ではなかったかと思う。
 最初は、この制度の適用には様々な制約があり、その効果も限定的であった。それが年を追うにつれて適用範囲が拡大され、適用条件が緩和され、現状では実に悲惨なことになっている。
 例えば、英文学専攻の学生が、簡単に高得点が得られる自由選択科目で16点を取り、必修科目の英文学史で4点を取ったとしよう。もしその他のすべての科目の平均点が10点に達していれば、この学生はそのセメスターを取得したことになる。一科目とは限らない。主専攻の必修科目をいくつか落としていても、その他の科目で点数を稼げば、同じ結果が得られる。
 それだけではない。前期の総合平均点が8点て後期が12点ならば、その学年を修了したことになる。この逆でもよい。つまり前期12点で後期が8点でも合格である。さすがに学年間の相殺はない。そこまでいけば大学教育の自殺であろう。
 日本学科に即していえば、日本語の成績は悪くても、日本語とは何の関係もない選択科目で点数を稼いで学年をあがっていくことができるということである。3年生になっても小学生レベルのテキストもまともに読めず、同レベルの漢字もろくに読めもしなければ書けもしない、聴解能力も一年からほとんど進歩していないような、どうしようもない学生が毎年必ず何人かいる。そこまでひどくなくても、肝腎の主専攻科目において合格水準以下でも上がってきてしまい、果てはそのまま卒業してしまう学生も少くない。
 彼らは何も規則上ズルをしているわけではない。「相殺制度」を十全に活用しているだけだ。だから深刻なのだ。最初からこの制度をあてにして、各学年の最低限要求レベルに達する努力もせずに、いかに楽に単位を取るかしか考えていない学生が確実に一定数いる。彼らに自覚を促してもほとんど無駄である。彼らは「権利」として「相殺制度」を「享受」しているのであり、なんの恥じるところもない。
 この制度が廃止されれば、たちどころに留年生が倍増するだろう。だから当局は廃止できない。そして現場の教員たちは、確信犯的にこの制度を悪用する学生たちに怒りを覚えつつ、為す術もなく、水準に達していない学生たちを前にして絶望の一歩手前に辛うじて踏みとどまり、ただ疲弊していくのである。












VPNを利用してみての最初の報告

2019-02-13 23:59:59 | 雑感

 先日の記事で Kindle 購入を話題にしたときに、海外に在住していると日本のアマゾンの電子書籍が購入できないことについて不満を漏らしました。その後、ネット上でVPNを提供しているサイトを探し、セカイVPNというところに仮入会してみました。最初の二ヶ月間は課金が発生しないという謳い文句を信じて登録し、すぐに退会できるかどうか確認してみましたが、できるようなので、試しに使ってみることにしました。
 電子書籍をいきなり購入するのは躊躇われたので、サンプルをダウンロードしようとしましたが、できませんでした。無料の書籍についても試してみましたが結果は同じ。これでは入会した意味がありません。ただ、 日本でのみ視聴可能になっている Prime Video は利用できることがわかりました。VPN を介さないで日本のアマゾンにアクセスしても海外で視聴可能な日本の作品はごくわずかで、そのことをこれまでとても不満に思っていたので、日本でのみ視聴可能だった作品すべてをこれからは鑑賞できるようになったことは嬉しく思いました。
 NETFLIXも試してみましたが、こちらはちゃんとブロックがかかっていて、日本でのみ視聴可能な作品にはまったくアクセスできませんでした。
 毎月1080円の契約料を払うに値するかどうか、もう少しあれこれ試してから、結論を出したいと思います。












叙景と抒情 ― 式子内親王の歌を手がかりとしてフランス語で解析する日本詩歌の特質

2019-02-12 23:59:59 | 講義の余白から

 明日の古典文学の授業のテーマは「叙景と抒情」。大岡信の『日本の詩歌 その骨組みと素肌』(岩波文庫、2017年、初版講談社、一九九五年)の中の「四 叙景の歌」の「一」をまず読ませる。この本は、もともと大岡信が一九九四 ・一九九五年にコレージュ・ド・フランスで行った講義のために日本語で書かれた原稿であり、その日本語原文がどうフランス語に訳されたか、その経緯については同書の「あとがき」のはじめに簡単に触れられている。大岡信がどのくらいフランス語が話せたのかは知らないが、仏訳者ドミニック・パルメの手によって見事に訳された仏語原稿を彼は講義の際に読み上げた。その訳文は「まことにすぐれたもので、朗読していて、原文は私自身の文章でありながら、終始みごとな翻訳に対する感嘆の念を押さえることができないほどでした」と記されている。確かに、その訳文は、大岡の日本語原文の意図を損なうことなく、読み上げやすいフランス語に訳されている。
 「四 叙景の歌」という表題の脇には、「なぜ日本の詩は主観の表現においてかくも控え目なのか?」という問の形の副題が添えられている。その前の回の講義「奈良・平安時代の一流女性歌人たちの最後にとりあげられた式子内親王の歌を出発点として講義は展開されていく。
 明日の授業では、式子内親王の歌「跡もなき庭の浅茅にむすぼほれ露のそこなる松むしのこゑ」を大岡が読み解いていく箇所を読む。その後、私自身の仏語論文「心身景一如論」の要旨を述べ、叙景即抒情という日本詩歌の特質の一つについての私自身の考察を示す。さらに時間があれば、参考文献として田渕句美子の『異端の皇女と女房歌人 式子内親王たちの新古今集』(角川選書、二〇一四年)と竹西寛子『式子内親王と永福門院』(講談社文芸文庫、一九九三年、初版筑摩書房一九七一年)を紹介する。












来年の日仏合同セミナー共通課題図書選定作業開始

2019-02-11 23:59:59 | 雑感

 毎年二月の日仏合同セミナーのための共通の課題図書を決め、それを日本とフランスとでそれぞれ前年の九月から一学期かけて読んでおく。一昨日そのセミナーが終わったばかりだが、さっそく来年のためのテキスト選びを始めた。日本の四月の新学年開始前に決まっていたほういいからだ。
 この選定がかなり悩ましい作業なのである。何らかの仕方で日本思想に関わっている著作の中から選ぶというのが第一条件。こちらの学生の日本語能力が十分に高ければ、仏訳あるいは英訳のない日本語の本の中から自由に選べるのだが、それは要求水準としてちょっと高すぎる。
 はじめてこのセミナーを担当した年に私が選んだテキストは、高橋哲哉の『靖国問題』だった。これはそのすぐれた仏訳が出たばかりだった。
 翌年は丸山眞男の『日本の思想』をテキストにしたのだが、これには仏訳がなかった。未だにない(もうすぐ出るらしい)。その年は概してできのよい学生たちだったので、結果として、みなそれぞれに立派な発表をしてくれたが、読解作業ではみなかなりうんざりしていた。
 その次の年は加藤周一の『日本文化における時間と空間』にした。これにも大変優れた仏訳がある。
 去年はレヴィ=ストロースの『月の裏側』だった。これはオリジナルがフランス語で、邦訳があるというケース。
 今年はラフカディオ・ハーンだったが、これはオリジナルがすべて英語で日本語のテキストが翻訳というケース。過去の例でいうと、ルース・ベネディクト『菊と刀』がそうだったが、このときは私はまだストラスブールにいなかったので聞いた話でしかない。このケースでは、こちらの学生には英語の原文を十分に読みこなせる英語力を持っている学生もいるので、その点で「優位」に立つことになる。
 学生は毎年変わるのだから、過去に採用したテキストを再度採用することにも特段の問題はない。やはり私が赴任する前のことだが、九鬼周造の『「いき」の構造』が採用されたことがあった。これには仏訳がある。日本人による旧訳とフランス人による新訳と二つある。だから、またこれにしてもいいのだが、私としては、今まで取り上げられていないテキストにしたい。
 今のところ、有力候補は二冊。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』とヘリゲルの『弓と禅』。どちらにも仏訳がある。前者には二つ仏訳がある。内容的には後者の方が私の好みなのだが、原文がドイツ語だというのが難点。仏訳がどこまで信頼できるかこれから確かめてみないといけない。日本語訳は、魚住孝至による新訳が二〇一五年に角川ソフィア文庫の一冊として刊行されている。訳も信頼できそうだし、注・解説も充実している。
 ちゃんとした仏訳があるという条件を満たしているその他の候補は、福沢諭吉『学問のすすめ』『福翁自伝』、中江兆民『三酔人経綸問答』『一年有半・続一年有半』、岡倉天心『茶の本』、夏目漱石『私の個人主義』「現代日本の開化」など。一冊の本ではなく、論文一つだけでよければ、まだ他にもあるし、日本の近代以前の古典から選んでよいとなれば、さらに選択肢は広がるのだが。『方丈記』『徒然草』『風姿花伝』など。
 以下は、採用の見込みはないけれど、信頼できる仏訳がある重要文献。西田幾多郎『働くものから見るものへ』『一般者の自覚的体系』、西谷啓治『宗教とはなにか』、丸山眞男『日本政治思想史研究』。
 仏訳があるけれど使いたくないのは、今西錦司の『生物の世界』。仏訳者が今西の思想を理解せずに訳しているのは明らか。
 いましばらく思案することにする。












元気が出る Perfume

2019-02-10 20:42:16 | 私の好きな曲

 今日の記事は短いです。
 明日の授業の準備、推薦状書き、大学関係の各種申請書類作成、成績証明書の日本語訳(なんで私がやらなきゃいけないの?)などなど、せっかくの日曜日だというのに、休めないし、気が休まらないんです(同情するなら、金はいらない、時間をくれ!)。
 こんなときにストレスをためないための特効薬はあるのでしょうか。朝泳ぎに行くだけでもかなりの効果はあるのですが、これは完全に習慣化しているので、残念ながら効果は限定的なんですね。それどころか、二日もサボったりすると、たちまち罪悪感が生じてしまい、逆効果なんです。休めなくなってしまっているです(ばっかみたい、ですよね)。
 最近自宅でできるお手軽な気分転換方法は、YouTube にそれこそ無数にアップされている Perfume の MV を鑑賞することです。オフィシャルMVはどれもほんとうに入念に仕上げられていて、ほとほと感心しております。それらをいくつか観て、元気をもらって、さて、また仕事に戻るって感じですかね。
 どれが一番とは決めかねるし、決める必要もないわけですが、今は「Sweet Refrain」が気に入っています。『ちはやふる-結び-』の主題歌である「無限未来」も MV の映像がいいですね。
 作詞・作曲の中田ヤスタカは、掛け値なしに、天才だと思います。楽曲分析は私にはまったくできませんが、歌詞もほんとうに面白くて、実は明日の授業でもいくつかの歌詞を「教材」として使います。
 それじゃあ、仕事に戻りま~す。













Kindle Paperwhite 第一印象

2019-02-09 23:59:59 | 雑感

 数ヶ月前から電子書籍リーダー Kindle を買おうかと思いはじめ、折に触れてネット上で利用者の様々な意見・感想を読み、それに影響されて散々迷った挙げ句、ようやく一昨日になって Kindle Paperwhite 32GB の購入を決意し(って大袈裟な)、今日午前中に商品が届いた。
 Kindle の電子書籍は数年前から PC やタブレットで使っていたから、電子書籍そのものにはすでにすっかり慣れているのだが、読書機能に特化した電子書籍リーダーがどれほどのものなのか試してみたいというのが主な購入理由である。
 早速起動し、ネットに接続して初期設定を行い、すでに購入済みの百数十冊の電子書籍の中からその一部をダウンロードして、読んでみた。
 まだ使い始めて半日だから、これは第一印象にすぎないが、まず一言でいうと、「ふーん、こんなものか」という、期待はずれとは言わないが、思ったほど快適でもないなという、ちょっと冴えない感想を懐いた。
 スクリーンにタッチしたときの反応が全般にモサッとしている。一瞬間があく。これはネット上の感想にもあった。同感である。画面が思ったほど明るくない。これは個人差もあるだろうが、私はもうちょっと明るい画面がほしい。
 とまあ、ちょっとケチはつけたいのだが、外出先でただ本が読みたいとき、だけど荷物はできるだけ軽くしたいときには、やはり便利この上ないだろう。タブレットや PC に比べて目に優しいのも確かだ。防水機能が付加されて風呂でも安心して読めるというのも悪くない。
 ついでだが、そしてこれは電子書籍リーダーそのものの機能の問題ではなく、アマゾンのポリシーに関わる問題だが、私のように海外のアマゾンで端末を購入して、その国のアマゾンのアカウントに登録すると、たとえ別に amazon.co.jp のアカウントを持っていても(しかもプライム会員ですよ)、日本語の電子書籍が買えないのは本当に残念だ。ネット上では購入するためのさまざまな方法が紹介されているが、よくわからないし、なんとなく不安でもある。
 もっとも、大半の日本語電子書籍は honto でも買えるから、読むのにはさほど不自由しない。ただし、読書機能に特化したリーダーは発売されていない。それに、PCだと海外からでも直接アプリをダウンロードできるが、スマートフォンとタブレットはできない。日本国内のアカウントが必要だ(これにも解決策があるようだが、私にはよくわからない)。日本在住の家族のアカウントを一時的に借りてダウンロードした。それで問題なく使えてはいる。
 いろいろセキュリティ上の問題もあるとは思うが、海外からも日本の電子書籍が自由に購入できるように早くなってほしい。