内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「精神と自然との一種の根源的相即融合」― 叙景歌の起源への美学的・現象学的遡行の試み

2019-02-20 12:40:49 | 哲学

 昨日の記事で言及した白川静の『初期万葉論』第四章第五節「叙景歌の成立」には、大西克礼の『萬葉集の自然感情』(一九四三年)からの引用がある。この大西書の初版は、国立国会図書館デジタルコレクションに収録されており、無料で閲覧・ダウンロードできる(こちらがリンク。因みに、一九四〇年刊行の『風雅論:「さび」の研究』も同コレクションで公開されている。こちらがリンク)。
 「日本の古本屋」のサイトで検索してみると、『萬葉集の自然感情』の一九七〇年版は相当数市場に出回っている。その価格設定に古書店によって大幅な開きがあるのが興味深い。単に本の物理的な状態だけがその理由ではないように思える(『風雅論』の方は、旧版・新版とも一段と出回っている数が多い)。『萬葉集の自然感情』の最新版は、二〇一二年から二〇一三年にかけて書肆心水から刊行された『大西克礼美学コレクション』全三巻の第二巻『自然感情の美学』に収録されている(『風雅論』は第一巻『幽玄・あはれ・さび』収録)。
 国立国会図書館デジタルコレクションからダウンロードした初版の第二章「萬葉集に現れたる自然感情」から、白川が引用している箇所よりもう少し広範囲に引用しよう。

表面上には単純なる叙景的、客観的性質をしめしてゐるやうな歌に於いても、尚その根本的作因としての自然感情の性格を見ると、やはり精神と自然との一種の根源的相即融合の趣を看取することができると思ふ。この意味に於いて、日本の歌に於いては、本来叙景詩、抒情詩といふ如き、概念的分類をあてはめることは困難であると言はなければならぬ。(一五八頁)

 この後に万葉の代表的な叙景歌を六首引用している。そして、大西はこう述べる。

是等の歌は表面から見たところでは、単純なる叙景詩のやうであるが、しかしその真の内容からいへば、それらは決して自然をはなれ、自然と對立した精神が、客観的態度を以て観察したところを表現しただけのものではない。自然を斯く觀、自然の斯様なモメントを捉へ、又それを斯く表現することは――否もつと根本的にいへば、自然の斯様に単純な契機をとらへ、斯様な簡単な形に表現するだけで、それが直に立派な「詩」になるといふことは、その根柢に精神と自然との、深い根源的の契合があり、宇宙のリズムと人間精神のリズムとが、ピッタリ適合することによつて、初めて可能になるのではなからうかと思はれる。(一五九頁)

故にそれは人間の精神、人間の生命に對立する、自然の雄渾壮大な景色を、意識して表現する詩的技能のために、その壮美(エルハーベン)の効果が生じたと見るべきものではない[…]。むしろ「我」と「非我」とを一貫し、「精神」と「自然」とを流通する、殆ど無意識的な「宇宙的感情」(Kosmisches Gefühl)の端的の表現の故に、且つまたその素朴な直接性の故に、限りなく大きな感じがそこに出てゐるのだと思ふ。それだから、このやうな自然感情は、小鳥の囀りや、鶴の聲を通じて體験された場合でも、やはり同様な効果を伴ひ得るのである。(一六〇頁)

 「精神と自然との一種の根源的相即融合」を具体的表現において実現している個々の詩がそのようなものとして可能なのは、「精神と自然との深い根源的の契合」がその前提としてあるからだろうか。しかし、それだけでは、なぜ詩は生れなければならないのかという問いの答えにはなっていない。精神と自然との根源的契合が予め与えられているだけでは、それは詩の生誕の可能性の条件ではありえても、その十分条件ではありえないからである。
 叙景詩の範疇に属すとみなされる万葉の叙景歌は、ある階調において景色を言語化することで自然のリズムと人間精神のリズムとが互いに照応・共鳴するとき、初めて生まれる、と言うべきではないのだろうか。この照応・共鳴は、メルロー=ポンティが『知覚の現象学』において感覚や知覚について言う意味でのコミュニオン(communion)やコミュニカシオン(communication)に近く、シモンドンが言う意味でのコミュニカシオンはこの問題によりいっそうの照明を与えてくれると思われる。