内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

昨日の記事の補足

2019-02-15 23:59:59 | 雑感

 もし昨日の記事の内容が、学生全般についての印象と勘違いされてしまっては私の意図に反するので、一言補足を加えておきたい。
 当たり前といえは当たり前のことだが、真面目な学生たち、優秀な学生たちも、もちろん毎年必ずいる。多数とは言えないが、各学年に何人かはほんとうに優秀かつ熱心に勉強する模範的な学生もいる。
 問題は、そういう学生たちと同じ教室に、昨日の記事で説明した「相殺制度」を「フル活用」してあがってくる学生たちもいるということである。教師たちにしてみれば、優秀で真面目な学生たちだけを相手にできればそれにこしたことはないが、現実には、日本語能力がまったく学年水準に達していない学生たちが「合法的に」同じ授業に出席しているのだ。
 授業のタイプによっては、その手の「相殺進級組」を無視してかかることもできなくはないが、語学の授業ではそういう学生たちがどうしても足を引っ張ってしまいがちだ。このような傾向が真面目で優秀な学生たちにも影響を及ぼさずにはおかないのである。彼らが内心どう思っているか知らないが、けっして面白くはないだろう。自分たちはちゃんと勉強してしかるべき成績を収めて進級してきているのに、「相殺制度」のおかげで成績不良にもかかわらず上がってきた学生と同じ教室にまとめられてしまうのだから。もっと多くのことを速く学びたいと思い且つそれができる学生たちが自分たちに合ったペースで勉強できない理由が「相殺進級組」の存在なのだ。
 私は「相殺進級組」たちの人格を否定しようとしているのではもちろんない。「相殺制度」という天下の悪法が学生全体に及ぼしている否定的な作用のことを問題にしているのだ。一定の明確な基準にしたがって成績判定がなされ、その成績に応じて合否が決まり、合格したもののみが進級する、という至極まっとうな原則が、「相殺制度」によってほぼ完全に否定されてしまっている。このような現実を知っても、それでもなお、そんなこととは関係なく、向上心を保って努力を重ね、優秀な成績を収める学生たちがいることは教員たちにとって救いである。だが、他方、明らかに「相殺制度」のせいで、まともに努力をしようとする姿勢を失ってしまった学生たちもいることは否定できない。
 「相殺制度」によって歪んでしまったフランスの大学教育の病状は、対処療法ではどうにもならない深刻なステージにまで進行してしまっている。