内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

根源的受容性の契機を孕んだ万葉の無常感

2019-02-24 06:12:40 | 講義の余白から

 佐竹昭広『萬葉集再読』所収の「自然観の祖型」の中に引用された大西克礼『萬葉集の自然感情』第四章「萬葉的自然感情の展開」の一節をそのまま摘録しておく。

或は春の花の散るを悲しみ、或は秋の紅葉のうつろふを嘆き、或は月の入るのを惜しみ、或は雪の消ゆるを飽かず思ふ心、若しくは又季節の変移につれて、その時々の花鳥を待ちわびる情などが、おのづから自然の美的體験と融合して、詩歌の中にも定型的に表現されるやうになる。のみならず、買ういふ自然體験の傾向が發展すると、更に光陰の迅速をなげき、人生の無常を感ずる心が、自然の風物に投入され、延ては一種の厭世的氣分が、自然感情にも浸潤するに至る。(中略)飛花落葉の自然現象に、深く心を沈潜させて、佛教的人生観に彩られた生活感情の根柢から、所謂「物のあはれ」を深く感ずることは、平安時代の特徴的な自然體験の仕方であるが、たとひそれほどハッキリした形をあらはさないまでも、さういふ方向に發展する素地は、萬葉時代の自然体験の中にも、既に窺ふことはできると思ふ。(中略)斯ういふ自然感情の調子が高まって行けば、前に言つたやうに、人生の無常感を自然現象に投入して體験する(勿論そこには佛教の影響もあるが)ことになるのは当然である。その例としては、次の如き長歌がある。(昭和十八年刊『萬葉集の自然感情』二五三-二五六頁)

 この引用の直後に大西が引いている家持の長歌「世間の無常を悲しぶる歌一首并せて短歌(巻第十九・四一六〇-四一六二)を佐竹もすべて引用している。それらの家持歌について述べるのは明日の記事に譲るとして、今日の記事では次の二点を指摘しておきたい。
 一点目は、上掲の大西の引用の直前で佐竹は「無常観」という言葉を使っているが、大西は「無常感」と言っていることである。佐竹書の当該箇所を読むかぎり、両者の区別はまったく問題にされていない。しかし、唐木が『無常』「はかなし (一)序」の中で「そこはかとなき無常感覚または無常美感から、徹底した無常観へ」と両者を区別しているように、「感」と「観」とは、無常を論ずる際には、少なくとも思想史的方法論の観点からは厳密に区別されるべきであると私は考える。
 この区別の哲学的背景には認識論的に大きな問題が横たわっているが、今ここではそれには立ち入らない。さしあたり一言で両者の区別を述べるとすれば、「感」は世界内属的感情に留まるのに対して、「観」は世界離脱的観想への志向を有している。
 もう一点は、大西が平安時代に特徴的な自然体験へと発展する素地を萬葉時代に見て取っている事に関する。大西が挙げている例が家持の歌であり、これは萬葉では最後期に属する。萬葉集中、歌の中に「無常」という漢字を用いている例は一首のみ、しかも訓みは「常無し」である。「常無」の順は数例あるがいずれも訓みは「常無し」あるいはそれに準ずる訓みである。題詞に無常(むじょう)の語が見られるのは、巻第十六の作者未詳歌「厭世間無常歌」(三八四九・三八五〇、左注に「右の歌二首は、河原寺の仏堂の裏の倭琴の面に在り」とある)と、上に言及した家持歌「悲世間無常歌」のみである。
 この点についてのさしあたりの私見は以下の通り。萬葉歌には無常観を自覚的に表現した歌はなく、「無常」を詠う歌は、うつろいやすい世の中を嘆ずる無常感の表現に留まる。しかし、それは思想的に見て深度に欠けるからではなく、万葉の無常感には、うつろう世界をそれとして受け入れる根源的受容性の契機が孕まれている。