内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「正しい意見しか言わない奴らは間違っている」―『K先生の黄昏放言録』(未刊)より

2019-02-06 03:42:38 | 雑感

 以下に書くことは、けっして誰か身近な誰かを念頭に置いての素面の攻撃的暴言ではなく、酔にまかせた一般論的与太話であることをあらかじめご承知おきいただければ幸甚に存じます。

 いつも「正しい」意見を仰られたり書かれたりする御仁がいらっしゃるが、正直、気に入らない。北斗の拳のように瞬殺し、「お前はすでに死んでいる」と言ってやりたいくらい、そういう奴らが私は嫌いだ。なぜか。だいたいにおいてそういう輩の言うことは、「確かに、世界中のすべての人があんたと同じように考え、そしてそれにしたがって行動すれば、そりゃあ、良い世の中になるでしょうよ」というような、非寛容で一方的な理屈だからである。
 思想家と称される人たちの中にもこのタイプが少くない。「大」がつくほど嫌いである。というか、そんな奴、思想家の名に値しないだろうが、そもそも。
 「わたくしは有言実行しています。ただ愚かな大衆がそうしないから、世の中うまく運ばないだけです」― この通りの言い方ではないにしても、こういう超越的上から目線で物を言う奴に出くわす、あるいはそういう奴が書いた書物を見ると、思わず「焚書坑儒!」と叫びたくなる(使い方間違っているとか言わないでね、教養ある「正しき」諸氏よ)。
 正しいことばかり言う人とはコミュニケーション不可能である。そういう人と一緒にいると疲れる。それどころか、下手をすると、そういう人は本人がそこに属しているはずのコミュニティを機能不全に陥れかねない。
 とはいえ、そういう人たちを排除すべきだと言いたいのでもない。そのような「和」を第一義とする非寛容な態度は、実のところ排他的正論と同じ穴の狢だからだ。
 酒で憂さを晴らすのは、心身ともに健康に良くない。だから、「マジ、やってられねぇーんえだよ」的なネガティブモードに入りそうになるときは、別の対処法を講じるほうがよいだろうとは思う。とはいえ、これといって妙案があるわけではない。
 何の脈絡もなく、書棚から西田幾多郎の随筆集を取り出す。「暖炉の側から」は、滋味あふれる随筆だ。これまで何度読んだか知れない。

私は近頃モンテーンにおいて自分の心の慰藉を見出すように思う。彼は豊富な人間性を有し、甘いも酸いもよく分かっていて、如何なる心持にも理解と同情を有ってくれそうな人に思える。彼自身の事を書いたという彼の書の中に、私自身のことを書いたのではないかと思われる所が多い。彼の議論の背後に深い、大きな原理として摑むべきものがあるのではない。また彼の論じている事柄は、何人の関心でもあるような平凡なものであるかも知れない。しかし彼は実に具体的な人生そのものを見つめているのである。摑むことのできない原理を摑んでいるのである。(『西田幾多郎随筆集』岩波文庫、180頁)

 なにがなんでも正しい「原理」を摑んでやろうというガツガツした態度を捨てたときにしか見えてこない真実が如実に書かれているから、それを読むと慰められるのだろう。