内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

我が人生、「自業自得」の一語に尽きる ―『K先生の黄昏放言録』(未刊)より

2019-02-04 23:59:59 | 雑感

 「あなたの人生の体たらくにもっともよくあてはまる四字熟語を一つ挙げよ」と問われたならば、瞬時も迷わずに、「自業自得」と私は答えるであろう。
 我が人生を要約するのに、これ以上適切な四字熟語があろうか。つくづくそう思う。それにしても実にイヤな言葉である。が、納得せざるを得ない。そう形容すべき日々を、飽きもせずに延々と、ほとんど生まれてこの方、過ごしてきた。なんとかならないか。なるかよ、今更。この年になって、変れるわけなかろうが。
 辞書 ・事典類には、この熟語についてどのような説明が載っているのだろうか。ちょっと見ておこう。『ブリタニカ国際大百科事典小項目事典』では、次のように説明されている。

仏教用語。みずから行なった善悪の行為によって,本人自身がその報いを受けること。よい行為によってよい結果がその本人に生じ,悪い行為によって悪い結果がその本人に生じること。転じて,自分のしでかしたことだから悪い報いを得てもやむをえないということ。

 そうか、仏教用語としては、悪い意味でばかり使われるわけではないんだ。でも、一般的用法としては、「そらみたことか」と言うときのように、悪い行いが悪い結果を生んだ場合に、あたかもそこに因果関係があるかのごとくに使用される。私もこの意味で使っている。
 福沢諭吉の『学問のすすめ』に一度だけこの熟語が出てくる。「十三篇 怨望の人間に害あるを論ず」の中である。「怨望に易るに活動を以てし、嫉妬の念を絶て相競ふの勇気を励まし、禍福毀誉悉く皆自力を以て之を取り、満天下の人をして自業自得ならしめん」というところである。この用法は、しかし、仏教的な用法とも一般的用法とも違う。
 渡辺浩は、『日本政治思想史』(東京大学出版会、2010年)で『学問のすすめ』のこの箇所での福沢の意図を次のように説明している。

「自業自得」といえば、聞こえは悪い。しかし言い換えれば、自己決定・自己努力・自己責任である。「独立の精神」を持つ主体が交際しつつ堂々と競い、その結果を受け入れる。勝って驕らず、負けて怨まず、毅然として生きていこう、というのである。(438頁)

 妥当な解釈なのであろう。それにしてもよくもまあ私が「親の敵」のごとく嫌悪する言葉 ― 自己決定・自己努力・自己責任 ― を三連発で並べてくれたものである。この箇所を読みながらそう嘆息せざるをえなかった(なんでもかんでも「ジコ」なのね。それがセーヨー的キンダイ性ってこと?)。
 昨年刊行された『学問のすすめ』の仏訳 L’Appel à l’étude (traduit par Christian Galan, Les Belles Lettres) では、この箇所は次のように訳されている。

[elles veulent] remplacer l’envie par le désir d’entreprendre, éradiquer la jalousie et encourager l’esprit de compétition, et faire en sorte que le succès comme l’échec, les honneurs comme la mauvaise réputation ne soient plus que le résultat du seul talent des citoyens du pays et que ceux-ci puissent, tous, récolter ce qu’ils ont semé.

 「自業自得」という本来仏教的な概念は、「自分で蒔いた種を自分で刈り取る」というキリスト教的発想に置き換えられている。この表現も必ずしも悪い意味でだけで使われるわけではないから、まあ適訳と言うべきなのであろう。
 要するに、福沢諭吉的な意味で「自業自得」を引き受けることができないゆえに、私の人生は、仏教的な意味においてではなく、ましてやキリスト教的換喩においてでもなく、ごく一般的な意味において、「自業自得」なのである。