内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

《 information 》再論 ― ジルベール・シモンドンを読む(132)」

2016-10-21 17:41:28 | 哲学

 シモンドンの information をめぐる議論は錯綜していてとてもわかりにくい。シモンドンが « information » という言葉を使うとき、それをそのまま「情報」とは訳せない場合の方が圧倒的に多く、したがって information をめぐるシモンドンの議論を情報理論と命名すること自体が途端に誤解を生んでしまう。
 そうかといって、他に適当な訳語が見つからない。シモンドン読解を開始した今年の二月以来、何度かこのブログの記事の中でもこの問題を取り上げ、「形成」「情報形成」「形態情報」などを暫定的な訳語として提案してみたが、そのいずれもシモンドンの information 理論の全体をカヴァーできていないことは即座に認めなくてはならない(information を取り上げている記事として、3月28日3月31日4月12日4月13日を参照されたし)。
 そもそもシモンドンの同語の用法が混乱しているのだという批判もある。しかし、そのような批判が妥当かどうかを検討するためにも、シモンドンのテキストをまずは追ってみる必要がある。私たちがずっと読んできているシモンドンの主著のタイトル L’individuation à la lumière des notions de forme et d’information であることを改めて思い起こすまでもなく、« information » がシモンドンの個体化理論の要をなす根本概念の一つであることは明らかなのであるから。
 結論部にも information の定義に割かれた長い段落が一つある。それまでの議論が凝縮されていることもあり、そこだけ読んで簡単に理解できるような論述の仕方にはなっていないのだが、シモンドンの個体化理論の中で information という概念がいかに重要な位置を占めているかはそこを読むだけでもよくわるとは言える。
 明日から、これまでの読解作業から得られた理解を基に、その段落での information の定義を少しずつ解きほぐしていくことにする。












マレイ・ペライア演奏 バッハ『フランス組曲全曲』

2016-10-20 17:23:18 | 私の好きな曲

 ずっと哲学の記事が続いていて、以前ほど記事のジャンルにヴァリエーションがなくなってしまっている。研究発表の機会がこれから年末にかけて複数回あり、その準備にこのブログの記事を充てていることがその主な理由なのだが、自分でもいささかうんざりしてきたので、今日は一回休憩して、音楽の話題にする。
 昨年秋に自転車を購入してからは、よほどの悪天候でないかぎり、大学への行くのに自転車を使っており、路面電車はめったに利用しなくなってしまった。通勤時間は電車通勤の半分以下で済むし、何より経済効果が絶大で、自転車及び周辺備品の購入費用のもとはもうすっかりとってしまった。
 今朝、プールで泳いでいる(そうですよ、水泳は休まず続けています)と、雨が降ってきて、たいした降りではなかったのだが、なんとなく、たまには電車で大学へ行ってみようかという気になった。
 通勤電車の中で聴く音楽を選ぶために、iPhone や iPad にダウンロードしてあるアルバムからどれか選ぼうとしていたら、新譜の中にマレイ・ペライア演奏のバッハ『フランス組曲全曲』を見つけた。ペライア演奏の『イギリス組曲全曲』『ゴールドベルク変奏曲』『パルティータ全曲』は、いずれも今も繰り返し聴いている愛聴盤だが、そのペライアが『フランス組曲』を弾けば、その演奏が悪かろうはずはない。
 2013年12月13日の記事「愛情に満ちた名曲 ― バッハ、フランス組曲第五番ト長調」にも書いたことだが、私は『イギリス組曲』より規模の小さい『フランス組曲』の方を好む。しかし、これで決まりと言いたいほどの演奏には出会っていなかった。グールド、ガヴリーロフ、シフ、フィオレンティーノ、ケンプ、ケフェレックなどいろいろ聴いてきたけれど、全曲盤に話を限ると、チェンバロ演奏も含めて、どの曲を聴いてもまったく素晴らしいと言い切れるほどの演奏、これさえあればいいと言えるほどの演奏にはまだ出会っていなかった。
 そんなこともあって、大いに期待しつつ、第一番第一曲アルマンドから聴きはじめた。
 なんと美しく澄みきり、かつ優しく暖かい音なのだろう。一貫して芯がしっかりとしていながら、それそれの舞曲の性格に合わせた装飾音が軽やかに、愉しげに、艶やかに、あるいは力強く、まるでキラキラと転がっていく宝石のように鏤められている。
 繰り返しをすべて行っているため、総録音時間83分という長さだが、その繰り返しが聴いていて嬉しくなるほど、一瞬の弛緩も欠片ほどの冗長さも感じさせない。全曲、稀有な名演奏と言い切って差し支えないと思う。録音も、ヘッドホンで聴いたかぎりでだが、超優秀。
 今朝からもう三回全曲聴いている。今晩も明日の講義の準備をしながら繰り返し聴くことだろう。私個人にとって、このペライアの演奏がやっと出会うことのできた『フランス組曲全曲』の決定盤である。












個体としての人間に倫理的責任が発生する場の理論 ― ジルベール・シモンドンを読む(131)

2016-10-19 12:06:27 | 哲学

 存在の初期状態として前個体化状態を措定し、その初期状態では未生以前であった潜在性が存在の自己多相化過程つまり個体化過程で特定のエネルギーとして解放され、その解放を通じて、個体化された個体とその環境(あるいは生成の場)とが生成するというシモンドンの考え方に対して、それはどこか創造説に似ているという批判は、ILFIの個体化論が形成されつつあった当時からあったことが同書の結論の一節から推測される。
 しかし、これがまったくの誤解であることは、これまでシモンドンの議論を丹念に辿ってきた私たちにはすでに明らかなことである。いわゆる創造説とは、生物の種はすべて聖書のいう天地創造に際して造られ、今日に至るまで変化していないとする説のことだが、聖書とは無関係に同様なテーゼを掲げるすべての説を考慮に入れるとしても、そのいずれともシモンドンの個体化理論並びにその生成的存在論は異なっている。
 創造説タイプの議論は、何らかの「造物主」によって最初にすべては与えられていたとする。その結果、その最初の創造行為に対して、それ以後の生成は、すでに創造されたものにその顕現の機会を与えるだけの契機に過ぎず、この意味での生成は、存在の生成ではなく、したがって、シモンドンの言う意味での生成ではない。創造説は、存在から生成を切り離し、生成からその本来の意味を剥奪してしまう。
 シモンドンの個体化理論並びに生成的存在論においては、個体化過程にほかならない生成を通じてしか存在の創造は実現されない。前個体化的初期状態は、すべての存在が平和的に共存する安定状態ではない。未生以前の諸種の潜在性を孕んだ緊張状態である。
 その前個体化的緊張状態から個体化過程に移行することで、初期の緊張状態では定式化されようもなかった葛藤が解決すべき問題として定式化される。その定式化された問題に対する解答として、ある構造と機能を具えた個体がある場においてもたらされ、その個体が己の環境としてのその場との関係に入る。そこに準安定性が成り立つ。しかし、その準安定的な関係において新たな問題が発生する。その問題に対する解決の模索と発見あるいは発明は、存在の生成過程の継続にほかならない。
 この生成過程において発生する個体の一種である人間は、その生成過程で発生する問題に主体として関与せざるをえないわけであり、そこに個体としての人間にとっての倫理的責任が発生する。












〈生成=存在〉におけるすべての安定性は準安定性である ― ジルベール・シモンドンを読む(130)

2016-10-18 16:18:46 | 哲学

 現実において、安定的な均衡は極限状態としては想定されうるが、諸状態の一般的な態勢は準安定的なものだとシモンドンは考える。どのような見かけ上の安定状態も、最終的な安定性ではけっしてなく、一定の期間・一定の条件下で実現されているに過ぎないと見る。
 ある構造が実現されて均衡状態を保っているのは、一定の限界内・一つの大きさの秩序内でのことであり、他の大きさの秩序と相互作用がないときに限られる。そのような準安定状態は、諸種の潜在性を覆い隠しており、この諸潜在性は、一旦その状態から解放されれば、突然の変化をもたらしうるものであり、その変化は、場合によっては、新しい構造化をもたらす。この構造化も、しかし、言うまでもなく、同じく準安定的なものである。
 諸種の状態は、準安定的な存在様態であり、構造から構造へと飛躍を重ねる暫定的安定性だ考えれば、存在と生成とは互いに対立する概念ではなくなる。

Le devenir n’est pas continuité d’une altération, mais enchaînement d’états métastables à travers les libérations d’énergie potentielle dont le jeu et l’existence font partie du régime de causalité constituant ces états (p. 327).

生成は、一つの変化の連続ではなく、潜在エネルギーの解放を通じて現れる準安定的状態の連鎖であり、この潜在エネルギーの作用と実在とがこれらの状態を形成する因果関係の体制の一部をなしている。

 準安定的システムの中に含まれているエネルギーとは、ある状態から別のある状態へと移行するという形で現実化されるエネルギーと同じエネルギーである。この〈構造-エネルギー〉という全体が存在なのである。
 この意味で、存在は〈一〉であるとは言えない。存在は、一体性を超えるシステム、つまり〈一〉であることを超えるシステムとして自己多重化されている。一体性、特に個体の一体性が存在の只中に現れるのは、分離的単純化によるのであり、これが個体をもたらし、それと相関的に環境をもたらす。この環境には、しかし、一体性はなく、そこにあるのは同質性である。












存在はけっして一ではない ― ジルベール・シモンドンを読む(129)

2016-10-17 11:50:57 | 哲学

 シモンドンの個体化の哲学がスピノザやライプニッツのように存在の根底に実体を措定する哲学とは相容れないことは容易に理解できる。唯一の実体であれ、無数の個体的実体であれ、存在の根底に不変の実体を措定するあらゆる実体主義的哲学は、シモンドンによれば、生成としての存在を捉えることができない。唯一の実体であれ、無数の実体であれ、それ自身に常に同一であるものは、存在の本来的な姿ではないとシモンドンは考える。
 以下、スピノザ批判後のILFIの原文を数行ごと掲げ、説明的語句を組み込んだ意訳をその後に提示する。

Selon la doctrine que nous présentons, l’être n’est jamais un : quand il est monophasé, préindivituel, il est plus qu’un : il est un parce qu’il est indécomposé, mais il a en lui de quoi être plus que ce qu’il est dans son actuelle structure ; [...] l’être n’est pas plusieurs au sens de la pluralité réalisée : il est plus riche que la cohérence avec soi (p. 326).

 存在はけっして一ではない。単相状態にあり、前個体化状態にあるときでも、存在は一以上である。存在が一であるときは、まだ複数相に分解されていないからにすぎず、その単相的初期段階でも、己自身の内にその現在の構造においてそうである以上のものになるのに必要なものをすでに具えている。存在が複数相に転位するのは、複数の実体としてではない。存在はそれ自身との整合性以上に豊かなものなのである。

L’être un est un être qui se limite à lui-même, un être cohérent. Or, nous voudrions dire que l’être originel de l’être est un état qui dépasse la cohérence avec soi-même, qui excède ses proprems limites : l’être originel n’est pas stable, il est métastable ; il n’est pas un, il est capable d’expansion à partir de lui-même ; l’être ne subsiste pas par rapport à lui-même ; il est contenu, tendu, superposé à lui-même, et non pas un. L’être ne se réduit pas à ce qu’il est ; il est accumulé en lui-même, potentialisé (ibid.).

 いわゆる一なる存在は、己自身に限定された存在、それ自身に対してそれ自身の内で整合的な存在である。ところが、本源的存在は、己自身との整合性を超出し、己自身に固有な限界を超過している状態にある。本源的存在は、本来安定しておらず、安定はいつも仮初のものでしかない。本源的存在は、一ではなく、己自身から拡張可能な存在である。存在は、己自身との関係において持続するのではない。内に秘めたものがあり、緊張を孕み、それ自身に対して重層的である。存在は、己がそうであるところのものに還元されない。それ自身において積み重なっていくものであり、つねに潜在性を孕んでいる。

Il existe comme être et aussi comme énergie ; l’être est à la fois structure et énergie ; la structure elle-même n’est pas seulement structure car plusieurs ordres de dimension se superposent ; à chaque structure correspond un certain état énergétique qui peut apparaître dans les transformations ultérieures et qui fait partie de la métastabilité de l’être (ibid.).

 存在は、エネルギーでもある。存在は、同時に構造であり且つエネルギーである。構造自身も、単に構造であるのではない。なぜなら、そこには複数の異なった次元の秩序が重なり合っているからである。各々の構造はあるエネルギー状態に対応しており、その状態は後に発生する変化・変容の中に現れうる。このエネルギー状態が存在の準安定性の一部を形成している。












個体化は、生成が存在の生成であるかぎり、生成それ自体である ― ジルベール・シモンドンを読む(128)

2016-10-16 11:52:03 | 哲学

 シモンドンの個体化理論は、増幅する生成の基礎を個体化に置く。そうすることで、未解決の問題を孕んだ存在の初期状態と問題解決過程である生成への入り口との間に個体化を位置づける。

L’individuation n’est pas le résultat du devenir, ni quelque chose qui se produit dans le devenir, mais le devenir en lui-même, en tant que le devenir est devenir de l’être (p. 325).

個体化は、生成の結果ではなく、生成の中で発生した何ものかでもない。個体化は、生成が存在の生成であるかぎり、生成それ自体である。

 この一節について、それを含む段落のそれ以後のテキストの記述を前提としながら、コメントを加える。
 個体化をその結果の一つに過ぎない個体化された個体との関係において説明するだけでは、個体化全過程を十全に把握することはできない。個体化の結果にすぎない個体の存在を説明するためだけに個体化を持ち出すのでは、いわば本末転倒なのである。個体化された個体は、個体化の全過程つまり生成する存在の全過程の過渡的な一側面ではありえても、その最終結果でも最も高度な達成でもない。
 個体化過程において、個体の生誕は、つねにそれとの相関項の発生と同時的である。両者は、いわば、前個体化状態の存在を親として生まれた双子のきょうだいのようなものである。生ける個体にとってその双子のきょうだいとは、個体の生育環境である。
 この考え方に従えば、個体の生育環境とは、前個体化状態の存在が個体に個体としての自律・独立・自由を与えた分だけ己から失ったことによって生まれた存在様態だということになる。個体が己の起源を忘却し、環境に対して破壊的行為を行うことは、だから、個体にとって自己破壊にほかならない。
 個体化された個体とその環境という関係に即して言えば、両者を同時創成的に捉えることができてはじめて個体化過程をその全体において把握する途が開かれる。常にある環境において個体化された限定的存在である個体は、決して存在の中心ではない。個体化された個体の一種である人間存在もまた、当然の帰結として、存在の中心ではありえない。いかなる個体も、存在の生成過程にほかならない個体化の一側面でしかない。
 一旦個体化された個体は、個体化の最終段階ではない。個体化された個体は、まさにそのようなものとして、新たな個体化の舞台となりうる。それは単に自己と同次元の別の個体の個体化の舞台に限定されるのではない。むしろ個体としての個体化は、そこで個体同士の関係が成立しうる相互関係性の舞台である集団的個体化の次元の前提となる。
 しかし、その集団的次元における個体化は、個体化された個体をそれ以上還元不可能な基礎的構成単位とした集合として静態的に捉えられてはならない。それぞれの個体が他の個体との関係に入ることができるのは、それらの個体がすべて個体化過程内の過渡的存在であるという本性を共有しているかぎりにおいてだからである。












生成のその都度の瞬間がオプティマルだと考える楽観主義 ― ジルベール・シモンドンを読む(127)

2016-10-15 16:35:13 | 哲学

 今日の記事では、ILFIの324頁から325頁にかけての段落を読んで私が考えたことをそのまま記す。その私の考えがシモンドン理解として妥当かどうかは差し当たり問わずに、そのように考えることが私自身の哲学的思考にどのような方向性を与えてくれるかを提示する。
 存在をその中心から捉えようとするモンドンの生成論的存在論は、存在の初期状態として緊張状態を想定する。その状態には、共立不可能な諸要素が可能的なエネルギーとして内包されている。存在は、己の内に内包されたそれらの共立不可能な諸要素のうちのいくつかを自己多相化することで問題として顕在化させ、その問題的な状態に一定の構造と機能をもった個体化によって解決を与える。しかし、その解決はけっして最終決定的なものではなく、その解決がまた新たな問題的状況を発生させる。潜在的な問題の顕在化、それに対する暫定的な解決としての個体化、その個体化の結果として発生する新たな緊張状態、その問題として顕在化、その問題に対する解決としての構造と機能を備えた個体化、この無限の繰り返しが生成である。この生成は、しかし、存在の初期状態の不完全性に起因する負の連鎖ではない。この生成こそが端的に存在そのものにほかならない。
 シモンドンの存在論は、存在を何らかの実体に還元するあらゆるタイプの還元主義的実体論に反対する。それとまったく逆方向の思考を提示する。存在は自己生成過程そのものなのであり、その過程で発生する諸問題を解決しつつ、無限に自己を増幅していくと考える。
 このようなパースペクティヴから一切の現実を見るならば、個体と環境という対立や葛藤を内包しうる関係も、形態形成情報と物質という相互に異なり相補性をもった様態として個体化された存在同士の関係も、存在の自己生成過程の一局面あるいは一齣として、いわば存在の全生成史の中に統合される。
 このような思考方法は、いたずらに問題を固定化し、袋小路に追い詰められてしまうことを私たちに回避させ、一見共立不可能に見える対立的要素間にこそ問題解決の糸口が隠されているはずだという、置かれた状況に対するどこまでもオプティミストな態度を保持させる。
 ここでいうオプティミストとは、しかし、「そのうちなんとかなるだろう」という無根拠な楽天主義のことではない。生成過程に生きる個体の生のその都度の各瞬間がオプティマルだと考える、現在に対して徹底的に肯定的な姿勢のことである。












存在の中心から存在の生成を捉えようとする哲学 ― ジルベール・シモンドンを読む(126)

2016-10-14 17:19:26 | 哲学

 限りなく零に近い少数の人にしか僅かでも関心を持ってもらえそうにないテーマについて、容易には理解できないような論述を延々と展開するだけの記事を書き続けることにどんな意味があるのかと疑問に思われる方も当然いらっしゃるであろう。
 しかし、シモンドンの考え方を必ずしも充分には理解できていなくても(私自身がそうなわけだが)、その著作の中には、現代の高度技術社会において提起される倫理的諸問題の考察・検討にとって重要な示唆が多く含まれているという確信が私にその著作の読解を継続させている。
 差し当たりの目標として、ILFI の結論の最後まで読み上げたい。
 昨日読んだ箇所の次の段落では、そこで提示された哲学的方法論から導かれる帰結の一つが展開される。
 その帰結を、まず一言で言うと、生命は、物理的現実の「後に」現れ、その現実を統合することによってその上に立つと考えてはならない、ということになる。つまり、それとはまったく逆方向に考えて、生命の誕生は、物理的現実の展開を、その構成の初期段階を膨張させることによって、遅らせるという結果をもたらすと捉えるべきだということである。生命が現れることによって、物理的現実の構成の初期段階で与えられていた緊張と準安定性との成立の条件が複雑化・精密化される。このより複雑化し精密化する諸条件が物理的個体化を「幼態成熟化」する。つまり、再生能力を保持しながら、自己の形態変容の可能性を持った種へと進化させる。
 個体化された存在それ自体の生成以前に、生成と生成が含む交換とを研究することで、個体的存在 ― それが物理的であれ生体であれ、植物であれ動物であれ ― の生成がいかにして可能になるかを捉えることができる。

Qu’il s’agisse de l’être avant toute individuation ou de l’être dédoublé après l’individuation, la méthode consisterait toujours à tenter d’appréhender l’être en son centre, pour comprendre à partir de ce centre les aspects extrêmes et la dimension selon laquelle ces aspects opposés se constituent : l’être serait ainsi saisi comme unité tendue ou comme système structuré et fonctionnel, mais jamais comme ensemble de termes en relation entre eux ; le devenir, et les apparences de relations qu’il comporte, seraient alors connus comme dimensions de l’être, et nullement comme un cadre dans lequel il advient quelque chose à l’être selon un certain ordre. Le devenir est l’être se déphasant par rapport à lui-même, passant de l’état d’être sans phase à l’état selon des phases qui sont ses phases (p. 324).

 存在をその中心において捉えるというシモンドンの哲学的方法は、対立する諸項として分節化された存在を、緊張を孕んだ一つの全体として、あるいは構造と機能を持ったシステムとして把握するという態度において徹底している。
 生成とそれが含んでいる様々な現れは、存在そのものの次元なのであって、存在に何かがそこで到来する枠組みにすぎないようなものではない。生成は、己自身対して多相化する存在そのものなのであり、存在が無相の存在から複数の相を持った存在へと移行していくことそのことにほかならない。












個体化研究の哲学的方法論 ― ジルベール・シモンドンを読む(125)

2016-10-13 08:07:53 | 哲学

 不活性なものと生命との対立という図式は、質料形相論的発想から来る二元論的図式の適用から生まれたとシモンドンは考える。この種の図式に特徴的なのは、対立する二項間がグレーゾーンとして残されたままになることである。この図式に従って考えるかぎり、まずそれ自体としてそれぞれに存在する両項の間に種々の関係が発生するかのように記述される。
 ところが、シモンドンによれば、存在の生成はまったく逆の方向をたどる。存在はその〈中心〉から生成する。生命と不活性なものとは、一つの同じ現実、つまり前生命的・前物理的な現実の二つの異なった速度の異なった様態の個体化として捉えられる。
 このような生成論的存在論は、その哲学的方法と表裏一体をなしている。その方法を記述している次の箇所は、シモンドンの哲学を理解する上で極めて重要な内容を含んでいる。

L’étude de l’individuation par laquelle cette différenciation s’opère ne peut donc être seulement un paradigmatisme ; logiquement, elle est une source de paradigmes ; mais elle peut n’être logiquement une source de paradigmes que si elle est fondamentalement, au moins à titre hypothétique, une saisie du devenir réel à partir duquel les domaines d’application des schèmes qu’elle dégage se constituent ; le paradigme, ici, n’est pas un paradigme analogique comme celui de Platon, mais une ligne conceptuelle et intuitive qui accompagne une genèse absolue des domaines avec leur structure et les opérations qui les caractérisent ; il est une découverte de l’axiomatique intellectuelle contemporaine de l’étude de l’être, non une initiation au domaine du difficilement connaissable à partir d’un domaine plus connu et plus facile à explorer (ce qui supposerait une relation analogique entre les deux domaines) (p. 324).

 生命と非生命とがそれによって現実において分節される個体化研究は、単なる範列主義ではありえない。つまり、その研究は、ある範列が現実にすでにそれとして存在すると仮定して、その仮定に立って現実を分析することではない。その個体化研究自体が現実において範列を産出するか、あるいは少なくとも仮定としてそれを現実に適用する。そのような研究は、したがって、それ自体として与えられた現実を外から「客観的に」それに変化をもたらすことなく考察・分析することではない。個体化研究は、現実の生成の把握であり、その現実の生成から、個体化研究が引き出した図式を適用する領域そのものが構成される。
 ここでの範列は、したがって、プラトンに見られるような類比的な範列ではない。つまり、それ自体として存在し、それとの類比において現象が理解されるような形而上学的範列ではない。ここで言われる範列とは、概念的・直観的線型であり、その適用領域及びそれを特徴づける構造と作用の生成そのものに現実において付き添うことである。このような意味での範列とは、存在研究そのものと同時的に発見される知的公準系のことである。存在生成の範列の探究は、より接近しやすい分野でまず確立された範列をより認識困難な分野に適用することではない。そのような適用は、それら二つの分野の間に類比的関係があることを予め前提してしまっている。ところが、個体化研究は、現実の生成過程における類比の産出そのものなのである。












物理と生命とに分化する以前の「自然なもの」から全体を考える ― ジルベール・シモンドンを読む(124)

2016-10-12 18:55:27 | 哲学

 自らの哲学的立場から他の主要な哲学的立場のいくつかを批判した後、シモンドンは、己の立場が陥る可能性のある危険について言及する。そして、その危険の回避の仕方を示すことによって、自身の生成的存在論を支えている哲学的直観を提示する。ここにもシモンドンの哲学的世界像がよく表れている。その危険とは、存在の生成過程の記述に物理的パラダイムを用いることに伴う還元主義の危険である。
 しかし、この危険は次のような仕方で回避できるとシモンドンは考える。
 非生命的な諸性格に基づいた構造と機能の支えとして物理的領域を捉えるとき、それらの諸性格をその初期段階で膨張させ、さらにはそれらを増幅させる方向で考え、それらに還元する方向では考えない。確かに、物理的なものの認識の領域と生命的なものの認識の領域がある。しかし、それと同じように、物理的なものの現実的領域と生命的なものの現実的領域とがあり、それらが同じく現実的な境界によって分離されているわけではない。物理的なものと生命的なものとの区別は、構造と機能とに拠るのであって、実体的な現実に拠ってではない。
 ある物理的存在様態があるのであって、それは生命発生後の物理的なものと混同されてはならない。生命発生後、物理的なものはいわばその分だけ乏しくなり、弛緩し、生命がそこから発生した全過程の残りとなる。しかし、他方、「自然なもの」(« le naturel »)と名づけうる物理的なものがあるのであって、それは前生命的(prévital)であると同時に前物理的(préphysique)でもある。生命と非生命的な物質とは、ある意味において、現実の進化の二つの異なった速度として取り扱うことができる。
 ここでもまた次のような考え方から自由にならなくてはならないのだ。それは、複数の極限項を基礎として措定し、それらの組み合わせから、全現実をそれらの間に成立するすべての相対的現実として説明するという考え方である。
 この考え方とはまったく逆方向の考え方をシモンドンは次のように提示する。
 極限項の組み合わせから発生したと考えられていた中間的な現実が、実のところ、これら極限項を発生させ、それらを支え、その現実を限界づける極限項として極端にまで推し進めた。関係を構成する諸極限項がまずあって、それらの関係から成り立っているかのように見える現実は、実のところ、「前関係的存在」(« un être pré-relationnel »)をおそらく前提している。