昨日の記事でその概略を示したようなシモンドン哲学の根本的テーゼは、その当然の帰結として、西洋哲学史の主要な哲学説との差異を明確にすることを要請する。
今年の二月に開始した ILFI の序論の読解中にも再三指摘したように、シモンドンは、アリストテレスに代表される質料形相論に対して徹底的な論駁を行う。そして、この論駁の矛先は、存在の根底に何らかの不変の実体を想定するすべての実体主義にも向けられる。さらに、そこからの派生的に、関係に対する関係項の先在を前提するすべての存在論が批判される。
これらの批判はすべて、存在とは生成であり、生成とは個体化であり、個体化とは存在が関係項として多相化する過程そのものであり、存在は、したがって、その個体の多相化過程を通じて増幅され続けるというテーゼに基づいている。
ライプニッツとスピノザに対してもこの根本テーゼに基づいた批判が示される。
Selon la notion de substance, en effet, le devenir se raccorde mal à l’essence de l’être ; la notion d’accident est peu satisfaisante, et oblige à des édifices systématiques délicats comme celui de Leibniz, qui ne rendent guère compte du devenir en tant que devenir, puisque, tous les accidents étant compris dans l’essence conçue comme notion individuelle complète, il n’y a plus pour la substance monadique un véritable devenir, comportant pouvoir d’avenir ; l’édifice spinoziste n’est pas beaucoup plus satisfaisant relativement au devenir, qui est exclu plus qu’intégré, comme l’individu est nié en tant qu’être séparé (P. 322).
要するに、両者いずれの場合も、生成を生成としてその存在論の中に統合できていないという点にシモンドンの批判は向けられている。生成は何か実体的なものの生成なのではなく、存在そのものが生成なのだから、それをその通り捉えられない存在論はすべて批判の対象になるわけである。