内的自己対話-川の畔のささめごと

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個体化研究の哲学的方法論 ― ジルベール・シモンドンを読む(125)

2016-10-13 08:07:53 | 哲学

 不活性なものと生命との対立という図式は、質料形相論的発想から来る二元論的図式の適用から生まれたとシモンドンは考える。この種の図式に特徴的なのは、対立する二項間がグレーゾーンとして残されたままになることである。この図式に従って考えるかぎり、まずそれ自体としてそれぞれに存在する両項の間に種々の関係が発生するかのように記述される。
 ところが、シモンドンによれば、存在の生成はまったく逆の方向をたどる。存在はその〈中心〉から生成する。生命と不活性なものとは、一つの同じ現実、つまり前生命的・前物理的な現実の二つの異なった速度の異なった様態の個体化として捉えられる。
 このような生成論的存在論は、その哲学的方法と表裏一体をなしている。その方法を記述している次の箇所は、シモンドンの哲学を理解する上で極めて重要な内容を含んでいる。

L’étude de l’individuation par laquelle cette différenciation s’opère ne peut donc être seulement un paradigmatisme ; logiquement, elle est une source de paradigmes ; mais elle peut n’être logiquement une source de paradigmes que si elle est fondamentalement, au moins à titre hypothétique, une saisie du devenir réel à partir duquel les domaines d’application des schèmes qu’elle dégage se constituent ; le paradigme, ici, n’est pas un paradigme analogique comme celui de Platon, mais une ligne conceptuelle et intuitive qui accompagne une genèse absolue des domaines avec leur structure et les opérations qui les caractérisent ; il est une découverte de l’axiomatique intellectuelle contemporaine de l’étude de l’être, non une initiation au domaine du difficilement connaissable à partir d’un domaine plus connu et plus facile à explorer (ce qui supposerait une relation analogique entre les deux domaines) (p. 324).

 生命と非生命とがそれによって現実において分節される個体化研究は、単なる範列主義ではありえない。つまり、その研究は、ある範列が現実にすでにそれとして存在すると仮定して、その仮定に立って現実を分析することではない。その個体化研究自体が現実において範列を産出するか、あるいは少なくとも仮定としてそれを現実に適用する。そのような研究は、したがって、それ自体として与えられた現実を外から「客観的に」それに変化をもたらすことなく考察・分析することではない。個体化研究は、現実の生成の把握であり、その現実の生成から、個体化研究が引き出した図式を適用する領域そのものが構成される。
 ここでの範列は、したがって、プラトンに見られるような類比的な範列ではない。つまり、それ自体として存在し、それとの類比において現象が理解されるような形而上学的範列ではない。ここで言われる範列とは、概念的・直観的線型であり、その適用領域及びそれを特徴づける構造と作用の生成そのものに現実において付き添うことである。このような意味での範列とは、存在研究そのものと同時的に発見される知的公準系のことである。存在生成の範列の探究は、より接近しやすい分野でまず確立された範列をより認識困難な分野に適用することではない。そのような適用は、それら二つの分野の間に類比的関係があることを予め前提してしまっている。ところが、個体化研究は、現実の生成過程における類比の産出そのものなのである。