内的自己対話-川の畔のささめごと

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個体化は、生成が存在の生成であるかぎり、生成それ自体である ― ジルベール・シモンドンを読む(128)

2016-10-16 11:52:03 | 哲学

 シモンドンの個体化理論は、増幅する生成の基礎を個体化に置く。そうすることで、未解決の問題を孕んだ存在の初期状態と問題解決過程である生成への入り口との間に個体化を位置づける。

L’individuation n’est pas le résultat du devenir, ni quelque chose qui se produit dans le devenir, mais le devenir en lui-même, en tant que le devenir est devenir de l’être (p. 325).

個体化は、生成の結果ではなく、生成の中で発生した何ものかでもない。個体化は、生成が存在の生成であるかぎり、生成それ自体である。

 この一節について、それを含む段落のそれ以後のテキストの記述を前提としながら、コメントを加える。
 個体化をその結果の一つに過ぎない個体化された個体との関係において説明するだけでは、個体化全過程を十全に把握することはできない。個体化の結果にすぎない個体の存在を説明するためだけに個体化を持ち出すのでは、いわば本末転倒なのである。個体化された個体は、個体化の全過程つまり生成する存在の全過程の過渡的な一側面ではありえても、その最終結果でも最も高度な達成でもない。
 個体化過程において、個体の生誕は、つねにそれとの相関項の発生と同時的である。両者は、いわば、前個体化状態の存在を親として生まれた双子のきょうだいのようなものである。生ける個体にとってその双子のきょうだいとは、個体の生育環境である。
 この考え方に従えば、個体の生育環境とは、前個体化状態の存在が個体に個体としての自律・独立・自由を与えた分だけ己から失ったことによって生まれた存在様態だということになる。個体が己の起源を忘却し、環境に対して破壊的行為を行うことは、だから、個体にとって自己破壊にほかならない。
 個体化された個体とその環境という関係に即して言えば、両者を同時創成的に捉えることができてはじめて個体化過程をその全体において把握する途が開かれる。常にある環境において個体化された限定的存在である個体は、決して存在の中心ではない。個体化された個体の一種である人間存在もまた、当然の帰結として、存在の中心ではありえない。いかなる個体も、存在の生成過程にほかならない個体化の一側面でしかない。
 一旦個体化された個体は、個体化の最終段階ではない。個体化された個体は、まさにそのようなものとして、新たな個体化の舞台となりうる。それは単に自己と同次元の別の個体の個体化の舞台に限定されるのではない。むしろ個体としての個体化は、そこで個体同士の関係が成立しうる相互関係性の舞台である集団的個体化の次元の前提となる。
 しかし、その集団的次元における個体化は、個体化された個体をそれ以上還元不可能な基礎的構成単位とした集合として静態的に捉えられてはならない。それぞれの個体が他の個体との関係に入ることができるのは、それらの個体がすべて個体化過程内の過渡的存在であるという本性を共有しているかぎりにおいてだからである。