内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

シモンドンの生成的存在論による弁証法批判 ― ジルベール・シモンドンを読む(123)

2016-10-11 10:29:11 | 哲学

 シモンドンの哲学的批判の矛先は弁証法にも向けられる。その弁証法批判の妥当性についてはしばらく措くとして、シモンドンの批判点を見ておこう。そこにシモンドンの生成的存在論の特徴がよく示されているからである。
 弁証法的思考においては、確かに生成は必要とされてはいる。その生成は、しかし、部分的にしか考えられておらず、それはあたかも生成が存在とは独立と見なされている場合と同様である。生成は、結局のところ、存在には無縁なもの、その本質には敵対的なものと考えられているからである。弁証法の生成は、生成する存在に充分には統合されていない。弁証法の時間は、本質においては非時間的な存在がその実存において生成の中に投企されているゆえの時間にとどまる。
 存在と生成とはその本質において無縁だとするこのような考え方は、現実に本来的な複数の大きさの秩序を認めない。その結果として、生成を存在の増幅として捉えることがまったく不可能になる。

Le devenir est ontogénèse, φύσις. La dialectique sépare trop le devenir de l’existence par laquelle l’être devient. Ce n’est pas le devenir qui modifie l’être, mais l’être qui devient : les modifications de l’être ne sont pas des conséquences du devenir mais des aspects des phases de l’être (p. 323)

 生成は、存在にとって偶有的な変更をもたらすだけのもの、つまりそれによって存在の本質は変わらないものではなくて、存在そのものの生成であり、そのようなこととしてギリシア語のフュシスがここで用いられている。生成過程において現れる諸相は存在そのものの諸相だということである。









 


生成的個体化論のテーゼから導かれる存在論批判 ― ジルベール・シモンドンを読む(122)

2016-10-10 16:42:20 | 哲学

 昨日の記事でその概略を示したようなシモンドン哲学の根本的テーゼは、その当然の帰結として、西洋哲学史の主要な哲学説との差異を明確にすることを要請する。
 今年の二月に開始した ILFI の序論の読解中にも再三指摘したように、シモンドンは、アリストテレスに代表される質料形相論に対して徹底的な論駁を行う。そして、この論駁の矛先は、存在の根底に何らかの不変の実体を想定するすべての実体主義にも向けられる。さらに、そこからの派生的に、関係に対する関係項の先在を前提するすべての存在論が批判される。
 これらの批判はすべて、存在とは生成であり、生成とは個体化であり、個体化とは存在が関係項として多相化する過程そのものであり、存在は、したがって、その個体の多相化過程を通じて増幅され続けるというテーゼに基づいている。
 ライプニッツとスピノザに対してもこの根本テーゼに基づいた批判が示される。

Selon la notion de substance, en effet, le devenir se raccorde mal à l’essence de l’être ; la notion d’accident est peu satisfaisante, et oblige à des édifices systématiques délicats comme celui de Leibniz, qui ne rendent guère compte du devenir en tant que devenir, puisque, tous les accidents étant compris dans l’essence conçue comme notion individuelle complète, il n’y a plus pour la substance monadique un véritable devenir, comportant pouvoir d’avenir ; l’édifice spinoziste n’est pas beaucoup plus satisfaisant relativement au devenir, qui est exclu plus qu’intégré, comme l’individu est nié en tant qu’être séparé (P. 322).

 要するに、両者いずれの場合も、生成を生成としてその存在論の中に統合できていないという点にシモンドンの批判は向けられている。生成は何か実体的なものの生成なのではなく、存在そのものが生成なのだから、それをその通り捉えられない存在論はすべて批判の対象になるわけである。












個体は自己同一性より豊かな関係性を有した存在の一齣である ― ジルベール・シモンドンを読む(121)

2016-10-09 15:45:11 | 哲学

 ILFI の結論部の 317頁から320頁の内容を私なりに要約すると以下のようになる。
 シモンドンは存在を本来的に「多相的な」(« polyphasé »)ものとして捉えている。その複数の相のうちの一つが現実に顕現しているとき、他の諸相もまた潜在的なものとしてそこに現在していると考える。今ある相の下に現れている存在は、他の諸相の下にも現れうる存在として、現勢化されているということである。
 存在は必ずある形を取って現れるという前提に立てば、存在が多相可能的であるということは、ある形がその形であるのは、その他の形にもある条件下で成りうるかぎりにおいてだということになる。
 この形の可変性・可塑性は、つねに他の形との関係において決まる。ある形が単独でまったく他の形から独立に変化することはない。
 以上のような存在の形についての考え方が、シモンドンを独自の « information » 概念へと導く。形は別の形との関係においてこそ己自身も可変的・可塑的な存在である。そのような形の相互連関的多相性・可塑性の動的現実を一言で言い表しているのが « information » なのである。
 したがって、ある形を有した存在、つまり、ある仕方で個体化された存在は、自己同一的存在ではなく、他の個体化された存在を介して成り立つ自己関係存在である。他によって媒介された自己関係存在である個体は、自己同一性よりはるかに豊かな内容を包蔵している。
 このような関係存在としての諸個体のネットワークとして生成しつつある現実を司っている原理が「転導性」(« transductivité »)である。この転導性原理から以下の帰結が導かれる。
 ある個体化された存在は、自分自身が変わるためには、その変化の原理が他の存在にも新たに適用され、自他複数の個体間に拡張的に共有されなければならない。言い換えれば、複数個体間に内的共鳴が成立しなくてはならない。
 この共有・共鳴は、しかし、なぜ可能なのか。その可能性の条件は何か。それは、すべての個体化された存在に何らかの仕方で残っている「前個体化存在」(« l’être préindividuel »)によってすべての存在は本来的に繋がっていることである。
 今日の記事の冒頭に示した結論部の頁の枠を越えて、一言先取り的に付け加えると、多相化した個体の生成過程の途上で個体間にその前個体化存在に基づいた繋がりが再び見いだされるとき、その繋がりが「通・超個体性」(« la transindividualité »)である。













個体は、存在の一局面に過ぎない。しかし、一つの全体性の萌芽である ― ジルベール・シモンドンを読む(120)

2016-10-08 19:24:31 | 哲学

 昨日の記事の末尾で予告したように、今日からまたシモンドンの ILFI の読解を再開する。
 今年の7月16日の記事で同著の読解を中断したときは、第二部第二章第二節第三項 « Limites de l’individuation du vivant. Caractère central de l’être. Nature du collectif » まで読み終えたところであった。その次の第四項から再開しようかとも思っていたのだが、ファゴ=ラルジョ論文の読解を通じで与えられた新たな導きの糸が、技術社会における相対的個体存在である人間の倫理に直接関わる問いになるので、この問題を論じている ILFI の結論を読んでいきたい。ILFI の後半の第三・四部を全部飛ばすというのは、手続き的には乱暴な話ではあるが、そこにはいずれまた立ち返ることもあるだろう。
 今日は手始めとして、結論の最初の短い段落だけ読む。原文とその私訳を提示した上で、その箇所に若干のコメントを加える。

Concevoir l’individuation comme opération et comme opération de communication, donc comme opération première, c’est accepter un certain nombre de postulats ontologique ; c’est aussi découvrir le fondement d’une normativité, car l’individu n’est pas la seule réalité, l’unique modèle de l’être, mais seulement une phase. Cependant, il est plus qu’une partie d’un tout, puisqu’il est le germe d’une totalité (p. 317).

個体化を「作用」として、そしてコミュニケーション作用として、それゆえ第一作用として構想するということは、ある一定数の存在論的要請を受け入れることである。それはまた、一つの規範性の基礎を発見することでもある。というのも、個体は、唯一つの現実ではなく、存在の唯一のモデルでもなく、ただひとつ局面に過ぎないからである。しかしながら、その個体は、一つの全体の一部分以上のものである。言うまでもないことだが、それは一つの全体の萌芽だからである。

 一度限り個体化されてしまった個体を基礎とした存在論から人間を解放し、その解放の結果として要請される倫理を提唱することが ILFI の最終的な目的である。同書を通じて、個体を実体化された存在としてそれを基礎に置く存在論をシモンドンは徹底的に批判してきた。私たち人間存在を含めて、発生した個体は、個体化過程の一局面に過ぎないのであり、存在論の基礎ではなく、己自身を超えた全体性へと発展しうる動的・可変的存在過程にある。












形容詞《prudentiel》についての注釈、そしてシモンドン読解の新たな起点 ― シモンドン研究を読む(35)

2016-10-07 05:43:28 | 哲学

 昨日の記事の最後に引用したファゴ=ラルジョ論文の結尾の一文とその私訳を再掲する。

Il faut surtout comprendre que l’éthique de Simondon est aussi éloignée des principes absolus que des stratégies prudentielles : elle est « la conscience du relatif ».

何よりも理解しなくてはならないことは、シモンドンの倫理学は、絶対的諸原則からも慎重第一主義からも同じように隔たっているということである。シモンドンの倫理学は「相対的なるものの自覚」である。

 私訳の中の「慎重第一主義」は 原文の « stratégies prudentielles » に当てた訳語であるが、その理由を以下に説明する。
 この形容詞 « prudentiel » は、Le Grand Robert には項目としてどころか本文のどこにも見当たらない。TLFi (Trésoir de la Langue Française informatisé)にも語義としては « Relatif à la prudence » とあるだけで、これでは説明になっていない。ところが、Lintern@ute というサイトに以下のような明快な定義が掲載されていた。

L'adjectif prudentiel est utilisé pour faire comprendre que tous les paramètres ont été pris en compte avant de prendre une décision, dans un souci de grande prudence, afin d'éviter toute déconvenue.

 この定義によれば、 « prudentiel » とは、失敗して失望や落胆することが絶対にないように慎重の上にも慎重を期し、ある決定を下す前にあらゆる要因を考慮に入れるような姿勢を指して使われる形容詞である。
 シモンドン思想に従って考えるならば、この形容詞によって規定されうる姿勢は、極端な場合、技術の社会的適用に際して、次のような結果をもたらす。
 現実に適用されようとしている技術について、その技術そのものの信頼性についての厳密で慎重な事前検証(これが技術に内在的な規範性を確立する)は行われ、現実的適用に関する信頼性について科学的には保証されているにもかかわらず、その技術が用いられようようとしている社会の文化的規範・道徳的価値観・一般的通念・伝統的禁忌・日常的慣習等をすべて技術の成否に関わるかもしれない可能的要因として考慮し、その結果、少しでも懸念や反対がその社会内に予想されれば、たとえそれらに科学的根拠はなくとも、その技術の現実的適用を禁止する。
 ここまで極端な場合を想定しないとしても、私たちは次のように自問することを現代社会の中で常に迫られているとは言えるだろう。しかも、それは、生体医療の現場と生命倫理においてだけではなく、環境倫理をはじめとして、様々な分野において問われるべき問いであるだろう。
 技術に内在的な規範性と文化的規範性との間に生じる葛藤の中で、生成過程にある相対的な個体存在として自覚することは私たちをいかなる倫理学へと導くのか。
 明日の記事からは、この問いを導きの糸として、シモンドンのテキストの読解を再開する。












相対的なるものの自覚としての倫理学 ― シモンドン研究を読む(34)

2016-10-06 05:36:27 | 哲学

 ファゴ=ラルジョ論文の最終段落を読んでいこう。
 遺伝子工学が、人間の生体に適用されるとき、その個体性を損なうことになりはしないか。このような疑問に対して、シモンドンの個体化論に従って答えるならば、以下のようになるだろう。
 そのような疑問は、個体とそれを現に構成している遺伝情報の全体とを混同し、個体性を絶対的なものとして固定化することから生まれて来る。ところが、実際には、個体性は相対的なものであり、実体的なものではない。遺伝情報は、個体にとって生成過程にあるものであり、一つの解決案としてよりも、むしろ一つの問題提起として捉えられるべきものである。「人工的に」補足的な遺伝子をヒトの胎芽に注入することは、その個体が抱える問題群をより豊かに、そして/あるいは、複雑化することであって、その個体がそれによって構成されている作用に取って代わることではけっしてない。
 この個体生成作用は、しかも、「存在の一契機」(« un moment d’être »)であって、存在の全体から完全に切り離され得ない。他方、技術的操作はもう一つの別の存在契機である。この二つの契機は互いに出会い、「調和する」(« consonnent »)することがある(遺伝子治療が成功したときがそれに相当する)。これは進化の一歩であり、「生成の融和的進路」(« voie résolutive du devenir », ILFI, p. 325)上の一階梯である。
 生体の「自然」に変更を加えることは恐れるに足りない。というのも、「人工的なものは励起された自然に属する」(« l’artificiel est du naturel suscité », MEOT, p. 346. 10月3日の記事参照)からである。言い換えれば、技術的人間がそれに値する者としてなす所作は、自然の中の潜在性の一つの表現を可能にするだけだからである。
 ここまでシモンドンに従って考えて来た上で、ファゴ=ラルジョは、読み手に向かって、あるいは自分自身に対してとも読める仕方で、次のように問いかける。
 一人の技術の思想家が、人間の技術力がもたらしうるすべての大胆な試みを統御する自然の能力に対してここまで(手放しに)信頼を寄せている。ILFI 第三部第二章第五節「苦悩」(« L’angoisse »)において、細分化のもたらす苦悩をあれほど深く分析した哲学者が、生成は断片化であるという仮説を退ける。(倫理的)責任に存在論的基礎を与えることに心を砕くモラリストが悪の問題を回避している。これらのことに私たちは苛立ちを覚えなくてはならないのであろうか。
 そして、ファゴ=ラルジョ論文は次の一文で締め括られている。

Il faut surtout comprendre que l’éthique de Simondon est aussi éloignée des principes absolus que des stratégies prudentielles : elle est « la conscience du relatif » (ILFI, p. 332).

何よりも理解しなくてはならないことは、シモンドンの倫理学は、絶対的諸原則からも慎重第一主義からも同じように隔たっているということである。シモンドンの倫理学は「相対的なるものの自覚」である。

 明日の記事では、上掲の引用に見られる « prudentiel » という形容詞の意味について若干の注釈を加え、それによってファゴ=ラルジョ論文の読解作業を終了する。その上で、シモンドンのテキストの読解へと立ち戻る新たな起点を明示する。













かくして諸社会は一つの〈世界〉になるか ― シモンドン研究を読む(33)

2016-10-05 05:13:33 | 哲学

 自然に「本来」備わる本性は、これを侵害してはならず、そのまま保存・継承されなければならないとする生命倫理における「保守的」立場に対して、シモンドンはどう反論するであろうか。ファゴ=ラルジョによるその仮想的反論を読んでみよう。まず、原文の当該箇所全文を引用する。その後に若干の説明語句を補った私訳を示す。

L’ingénierie génétique comme « connaissance opératoire » (i. e., comme technique) a établi sa validité ; elle a prouvé, pourrait-on dire avec un clin d’œil à l’étymologie, sa génialité : sa capacité « d’atteindre le réel selon les lois du réel lui-même » (MEOT, p. 345). Elle s’est imposée, elle fait désormais partie de notre univers. Réglementer les applications qui en sont faites ici ou là, c’est une affaire d’acceptabilité culturelle, extérieure à la technique. L’accepter comme technique, c’est s’ouvrir à la possibilité que sa normativité propre entre en conflit avec nos normes morales, par exemple en jetant un doute sur le caractère « sacré » et intouchable que certaines communautés humaines attribuent aux formes vivantes produites par l’évolution naturelle, ou en rendant intenable l’incohérence entre un principe de « non-brevetabilité » du matériel génétique humain, et la brevetabilité du matériel génétique des autres espèces. Simondon considère comme un bien que des normes disparates, issues d’histoires et de cultures particulières, soient élargies et « reliées » sous l’effet d’un choc avec le réel provoqué par le développement d’une technique. C’est ainsi que « les sociétés deviennent un Monde » (ILFI, p. 335)

遺伝子工学は、「作用的認識」(つまり技術)としてその妥当性を確立した。遺伝子工学は、その語源に一瞥を与えつつ言えば、その天分を、つまり「現実に現実自身の法則に従って到達する」能力を実証したのである。遺伝子工学は、不可欠なものとなった。以来私たちの宇宙の一部を成している。あちこちでなされている遺伝子工学の適用を法制化することは、文化的受容可能性の問題であり、技術にとっては外的な問題である。技術として遺伝子工学を受け入れること、それは、遺伝子工学固有の規範性と私たちの道徳的規範とが葛藤状態に入る可能性を受け入れることである。それは、例えば、自然の進化によって生み出された生きた形に対していくつかの人間の共同体が与えた「神聖」不可侵という性格に疑いの目を向けることによって、あるいは、ヒトの遺伝要素についての特許取得不可能性と他の種の遺伝要素についての特許取得可能性との間の不整合を維持し難いものとすることによってである。シモンドンは、個別の文化と歴史に由来する互いに乖離している規範が、ある技術の発展によって現実に対して引き起こされたショックの効果によって、拡張され、互いに「繋がれる」ことを一つの倫理的な前進と見なしている。かくして「諸社会は一つの〈世界〉になる」というわけである。

 しかし、ファゴ=ラルジョがこの直後に提示する次のような疑問を私たちが抱かずに済ませることは難しい。
 たとえ遺伝子工学が積極的な役割(つまり転導的な)を普遍的な存在生成過程の中で果たすとしても、生きた個体の生成過程において、とりわけ、生きている個体としての人間の生成過程において、場合によっては壊滅的な結果をもたらすこともありはしないのだろうか。
 私たち自身この問題について一日考えてみてから、ファゴ=ラルジョ論文の最終段落を読むことにしよう。













「そのまま保存されるべき自然の本性」という考え方 ― シモンドン研究を読む(32)

2016-10-04 06:53:56 | 哲学

 1980年代、遺伝子工学のヒトへの適用可能性が現実的に視野に入って来たことに対してヨーロッパ諸国が示した反発は非常に激しいものであった。それはちょうどシモンドンの最晩年のことであった。
 1982年、欧州評議会(Conseil de l’Europe)は、「いかなる(人工的)操作も受けていない遺伝形質の相続権」(« le droit d’hériter des caractères génétiques n’ayant subi aucune manipulation »)は「人権」(« les droits de l’homme »)の一部をなす、と宣言する。
 1986年、フランス国内倫理委員会は、「個人的特異性の生物学的基礎をなす遺伝子レベルでの偶然の支配に内在的な[...]不確実性」(« l’aléatoire [...] inhérent à la loterie génétique qui constitue la base biologique de la singularité individuelle »)は尊重されなくてはならないという見解を支持している(Rapport éthique, 1986)。
 1989年、欧州議会は、「胎芽初期段階における遺伝子異常の修正(生殖質遺伝子療法)」(« la correction d’une anomalie génétique aux premiers stades embryonnaires (thérapie génique germinale) »)によって「個体の同一性は歪められることになる」(« l’identité de l’individu se trouve faussée »)と言明している。
 これらの見解に共通しているのは、「技術的人間に人間的本性を侵害する権利はない」(« l’homme technicien n’[a] pas le droit d’attenter à la nature humaine », A. Fagot-Largeault, art. cit., p. 48)という立場である。そして、この保存されるべき(自然の)本性という考え方は、生物圏全体へと大幅に拡張された。
 明日の記事では、このような「現状」(ファゴ=ラルジョが上掲の論文の基になる発表を行ったのはそれから数年後の1992年のことで、今日の遺伝子工学の最新データは考慮されていない)を前提とした上で、ファゴ=ラルジョが敢えてシモンドンに依拠して提示する反論を見てみよう。












技術的操作は自然に潜在的なものを現勢化する ― シモンドン研究を読む(31)

2016-10-03 09:41:21 | 哲学

 私たちはようやくファゴ=ラルジョの論文 « L’individuation en biologie » を読み終えようとしている。その最終節は、遺伝子工学に代表される生命を対象とした技術と生命倫理との関係についての考察にシモンドンの個体化論と技術の哲学を適用しつつ、現代社会に現に生起している生命倫理の問題を喚起することでシモンドン思想に対して批判的に問いかけてもいる。私たちがそこで直面するのは、単にシモンドン思想に依拠して考えるだけは解答が見出されない問題である。
 技術的創意・発明(invention technique)もまた一つの個体化である。それは植物による光合成や胎芽が発達して内臓器官が形成されることがやはり invention であり、個体化であるのと同様な意味においてである。技術的創意・発明は、いわば水準が一段上がった個体化である。この個体化によって、心理-社会的個体化過程は、その内側から宇宙的個体化へと開かれる。
 このシモンドンの哲学的直観は、MEOT の結論の最終段落に次のように述べられている。

L’opération technique n’est pas arbitraire, ployée en tous sens au gré du sujet selon le hasard de l’utilité immédiate ; l’opération technique est une opération pure qui met en jeu les lois véritables de la réalité naturelle ; l’artificiel est du naturel suscité, non du faux ou de l’humain pris pour du naturel (MEOT, p. 346).

技術的操作は恣意的ではない。主体が直接的な有用性の気まぐれに応じて好き勝手にどんな方向にでも曲げることができるようなものではない。技術的操作は、純粋な操作であって自然の現実の真の法則を現に働かせる操作である。人工的なものとは、励起された自然であり、自然と取り違えられた虚偽や人間的なもののことではない。

 技術的操作は自然の潜在性を現勢化するというわけである。そうであるならば、遺伝子工学によって、動作主としての人類は、生物圏の発展の重責を引き受けているのだと考えることもできる。植物、動物、そして人間自身までも、技術的対象となりつつある。四角いトマトが開発され、遺伝子交配でハイブリッド動物たちが生まれ、そしてついにはクローン人間も...
 なぜ、シモンドンは、当時から予想され、近い将来に実現されようとしていたこれらの技術的対象に対して恐れを抱かずにいることができたのだろうか。これは単にシモンドンが生きていた時代の制約だと言って済ませることができる問題ではない。












生成の中には失われた孤島はない ― シモンドン研究を読む(30)

2016-10-02 11:53:25 | 哲学

 昨日の記事の最後に引用した箇所には以下のような脚注が付いている。

Un système de normes est problématique, comme deux images en état de disparation ; il tend à se résoudre dans le collectif par amplification constructive (p. 331).

 一つの規範システムはつねに解決すべき問題(あるいは緊張関係)をその内にはらんでいる。それはちょうど二つの網膜上の互いに他方に対して異なった像のようなものである。そのシステムは、構築的増幅によって集合レベルにおいてその問題の解決を図ろうとする。
 この規範と価値のダイナミズムの中に倫理はあるとシモンドンは考えるわけである。つまり、一個体として個体化された個のレベルから個と個の相互作用が起こる集合のレベルへと向かう個体化生成過程(それこそが存在の生成過程)に付いていくことが倫理の意味(向かうべき方向)にほかならない。

L’éthique est le sens de l’individuation, le sens de la synergie des individuations successives. C’est le sens de la transductivité du devenir, sens selon lequel en chaque acte réside à la fois le mouvement pour aller plus loin et le schème qui s’intégrera à d’autres schèmes ; c’est le sens selon lequel l’intériorité d’un acte a un sens dans l’extériorité (p. 333).

 倫理とは個体化の意味(向かうべき方向)である。継起的な個体化間の相互作用が向かうべき方向である。それが生成の転導性の向かうべき方向である。それに従えば、それぞれの行いには、より遠くへ行こうとする運動と他の様々な図式に己を統合する図式とが同時に存在している。そのような方向に向かえば、ある行いの内部性はその外部性においてある意味(向かうべき方向)を持つ。

Postuler que le sens intérieur est aussi un sens extérieur, qu’il n’y a pas d'îlots perdus dans le devenir, pas de régions éternellement fermées sur elles-mêmes, pas d’autarcie absolue de l’instant, c’est affirmer que chaque geste a un sens d’information et est symbolique par rapport à la vie entière et à l’ensemble des vies (ibid.).

 内的意味は或る外的意味でもある。生成の中には失われた小孤島はなく、それ自身の上にいつまでも閉ざされた地域もなく、瞬間の絶対的自足もない。こう(公準として)要請するということは、各々の所作には、形を生み出す意味があり、一個の生全体に対して、そして個々の生命からなる全体に対して象徴性を有していると言明することである。