シモンドンの哲学的批判の矛先は弁証法にも向けられる。その弁証法批判の妥当性についてはしばらく措くとして、シモンドンの批判点を見ておこう。そこにシモンドンの生成的存在論の特徴がよく示されているからである。
弁証法的思考においては、確かに生成は必要とされてはいる。その生成は、しかし、部分的にしか考えられておらず、それはあたかも生成が存在とは独立と見なされている場合と同様である。生成は、結局のところ、存在には無縁なもの、その本質には敵対的なものと考えられているからである。弁証法の生成は、生成する存在に充分には統合されていない。弁証法の時間は、本質においては非時間的な存在がその実存において生成の中に投企されているゆえの時間にとどまる。
存在と生成とはその本質において無縁だとするこのような考え方は、現実に本来的な複数の大きさの秩序を認めない。その結果として、生成を存在の増幅として捉えることがまったく不可能になる。
Le devenir est ontogénèse, φύσις. La dialectique sépare trop le devenir de l’existence par laquelle l’être devient. Ce n’est pas le devenir qui modifie l’être, mais l’être qui devient : les modifications de l’être ne sont pas des conséquences du devenir mais des aspects des phases de l’être (p. 323)
生成は、存在にとって偶有的な変更をもたらすだけのもの、つまりそれによって存在の本質は変わらないものではなくて、存在そのものの生成であり、そのようなこととしてギリシア語のフュシスがここで用いられている。生成過程において現れる諸相は存在そのものの諸相だということである。