存在の初期状態として前個体化状態を措定し、その初期状態では未生以前であった潜在性が存在の自己多相化過程つまり個体化過程で特定のエネルギーとして解放され、その解放を通じて、個体化された個体とその環境(あるいは生成の場)とが生成するというシモンドンの考え方に対して、それはどこか創造説に似ているという批判は、ILFIの個体化論が形成されつつあった当時からあったことが同書の結論の一節から推測される。
しかし、これがまったくの誤解であることは、これまでシモンドンの議論を丹念に辿ってきた私たちにはすでに明らかなことである。いわゆる創造説とは、生物の種はすべて聖書のいう天地創造に際して造られ、今日に至るまで変化していないとする説のことだが、聖書とは無関係に同様なテーゼを掲げるすべての説を考慮に入れるとしても、そのいずれともシモンドンの個体化理論並びにその生成的存在論は異なっている。
創造説タイプの議論は、何らかの「造物主」によって最初にすべては与えられていたとする。その結果、その最初の創造行為に対して、それ以後の生成は、すでに創造されたものにその顕現の機会を与えるだけの契機に過ぎず、この意味での生成は、存在の生成ではなく、したがって、シモンドンの言う意味での生成ではない。創造説は、存在から生成を切り離し、生成からその本来の意味を剥奪してしまう。
シモンドンの個体化理論並びに生成的存在論においては、個体化過程にほかならない生成を通じてしか存在の創造は実現されない。前個体化的初期状態は、すべての存在が平和的に共存する安定状態ではない。未生以前の諸種の潜在性を孕んだ緊張状態である。
その前個体化的緊張状態から個体化過程に移行することで、初期の緊張状態では定式化されようもなかった葛藤が解決すべき問題として定式化される。その定式化された問題に対する解答として、ある構造と機能を具えた個体がある場においてもたらされ、その個体が己の環境としてのその場との関係に入る。そこに準安定性が成り立つ。しかし、その準安定的な関係において新たな問題が発生する。その問題に対する解決の模索と発見あるいは発明は、存在の生成過程の継続にほかならない。
この生成過程において発生する個体の一種である人間は、その生成過程で発生する問題に主体として関与せざるをえないわけであり、そこに個体としての人間にとっての倫理的責任が発生する。
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