内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

自律と独立 ― ジルベール・シモンドンを読む(92)

2016-06-10 07:06:35 | 哲学

 生体の個体性を一つの情報システムの成立過程として捉えるとき、個体における自律(autonomie)と独立(indépendance)とは、次のように区別される。
 生命の維持に必要な情報の循環をその内部で可能にしているシステムは、それ自身の規則に従ってその全体をコントロールできているという意味で、限界を有した一個の全体として自律している。しかし、そのことは、そのような情報システムを備えた一個体が他の諸個体とは独立に生きているということを意味しない。それら個体群とともに己がそこで生きる環境から独立しているということも意味しない。
 このような意味での独立は、現実にはきわめて稀であり、ほとんど不可能だとシモンドンは言う。たとえ身体器官としては互いにまったく非連続な複数の個体であっても、取り巻いている環境からの影響を同じように受けることがある。その環境の構成要素でもある隣接する他の個体らからの影響もある。しかも、各々の個体は、単に一方的に周囲から影響を受けるだけではなく、他の個体の反応を限定しもする。
 個体間の恒常的で不可避的なこのような相互作用は、ある関係を成立させる。しかし、この関係は、各個体の自律を妨げない。それら個体間に身体器官の機能的な協調はない。一個の身体内を循環している情報は、身体器官を通じて直接他の身体に転送されることはない。同一の環境に生きる諸個体は、それぞれに自律した情報システムとしての機能を維持しながら、互いの間に関係を形成する。
 生命の世界には、生体として自律した個体は在り得ても、完全に独立した個体というものは存在し得ないとすれば、そのような個体であろうとすることは、反生命的で自己破壊的だということになる。




































































ひとつの生体における複数の個体性という問題 ― ジルベール・シモンドンを読む(91)

2016-06-09 16:39:31 | 哲学

 今日の記事では、シモンドンのテキストを逐語的に追うのではなく、ここまで読んできたところに依拠しながら、少し自由に考えてみたい。
 生物の一個体を一つの情報システムとして捉えるとしても、そのシステムが単純で単一構造をもったものであるか、あるいは複雑で複数の次元をもったものかによって、その一個体の把握の仕方は異なってくる。
 一般に、個体の各部分において受け止められた刺激に対して、その部分だけで反応することができるような生物は、その個体性の程度が低い。この場合、各部分がそれだけ自律性をもっていて、諸部分を統括する中心の果たす役割はそれだけ乏しい。
 逆に、外部からの様々な刺激を集約する情報センターをもった生物は、その個体性の程度が高い。この情報センターとして高度な発達を遂げたのが脳である。この意味では、脳が最も高度な情報集積能力をもった人間は、最も個体性が高い生物だと言うことができる。
 しかし、一個の生物としての個体性の高さは、単に情報集積度だけでは測れない。なぜなら、いくら情報を集積しても、その情報に基づいて適切な反応を迅速に命令できなければ、生体として自己保存し続けることができないからである。つまり、生物の個体性は、刺激に対してその情報センターから発信される反応の正確さと速さとにも依存する。
 問題をさらに複雑化するのは、刺激の質によって生物の反応の仕方が異なることである。刺激がすべて化学反応に還元できるわけでもない。同一の刺激が生体の複数の次元で感受されることもある。ところが、反応する生体は一つしかない。
 とりわけ、生理的反応と心理的反応とを区別しなければならないと思われる人間の場合は、この受容の次元の複数性がその個体性の規定を一層複雑化する。人間に関しては、生物としての個体性と心理-社会的主体としての個体性とはほとんど別物であるように見える。しかし、両者は無関係でもない。
 もし一つの情報システムの形成が一つの個体性に対応するとすれば、相互に独立した二つの情報システムからなる生体は、二つの個体性をもっていることになってしまう。しかし、これはおそらく問題の立て方が間違っている。この間違った見立てから、二つの個体性のいずれかに人間の個体性を還元する、あるいは一方を他方に従属させるという誤った帰結に導かれてしまう。
 存在全体を重層的・多元的な個体化過程として捉え、その中で形成されつつある種々の個体性の中の一つの複雑な個体性として人間存在を捉えようとするシモンドンの個体化理論において決定的に重要な役割を果たしている « information » という概念は、そのような陥穽を回避しつつ、問題の別の立て方を私たちに教えてくれている。























































個体は、一つの統一された自己形成情報システムである ― ジルベール・シモンドンを読む(90)

2016-06-08 09:52:04 | 哲学

 ILFIの第二部第二章の冒頭の段落を昨日読み終えた。今日から、同章の中で « information » 概念との関連で重要な議論が展開されていると思われる箇所の要点を摘録しつつ読解を進めていく。
 シモンドンの個体化理論においては、厳密に言えば、完全に完成された個体は存在しない。存在につて語りうるのは、個体化の多様で可変的な程度だけである。根本的な存在様態としての個体化の程度は、形態に関する基準だけでは規定し得ない。機能に関する基準を同時に導入することではじめて、個体化の程度を計測することができる。形態上は群生グループ内の隣接する別の諸個体と区別可能であっても、機能的には周囲の諸個体と直接的に相互依存関係にあるとき、それら各個体の個体性の程度は低い。
 個体性は、したがって、個体の形態生成過程とは独立に、機能的自立性によって性格づけられるものとして提示しうる。しかし、このテーゼが妥当性をもつのは、「自律」という言葉にその十全な意味が与えられたときだけである。
 自律とは、己自身による制御、己に固有な規則にのみ従うこと、己に固有な構造にしたがって自発自展することである。自律している存在とは、己の発展を己自身で支配し、己自身で形態形成情報を蓄積し、その情報を用いて己の行動を支配する存在のことである。
 個体とは、自己形成に関する情報内容を保存し、増大させることができる存在である。個体の自律性とは、厳密には、この情報についての自律性である。したがって、ある一個の存在について、それを構成する諸部分の全体に対する個体性の程度を知るためには、その存在の形態形成情報システムを考察しなくてはならない。この意味で、個体は、一つの統一された情報システムとして性格づけられる。
































































「演奏」としての個体化 ― ジルベール・シモンドンを読む(89)

2016-06-07 17:14:07 | 哲学

 昨日の続きで、同じ段落の最後まで読んでしまおう。個体とは何かという問いに答えている箇所である。原文を引用した後、その一文一文を少し言い換えるか、若干のコメントを加えるかすることによって、原文の理解を図る。

Il emmagasine, transforme, réactualise et exerce le schème qui l’a constitué ; il le propage en s’individuant. L’individu est le résultat d’une formation ; il est résumé exhaustif et peut redonner un ensemble vaste ; l’existence de l’individu est cette opération de transfert amplifiant. Pour cette raison, l'individu est toujours en relation double et amphibologique avec ce qui le précède et ce qui le suit. L’accroissement est la plus simple et la plus fondamentale de ces opérations de transfert qui établissent l’individualité. L’individu condense de l’information, la transporte, puis module un nouveau milieu (191).


 「個体は、己自身を構成した図式を蓄積・改変・更新して実行する。」この文脈では、生物レベルの個体化が問題であるのだから、自己設計のための情報の総体である遺伝情報とそれに基づく個体発生に対してこの定式が適用されていると読める。しかし、シモンドンは、生物の個体化モデルを一般化することで一般個体化理論を構築しているのではなく、むしろ後者の中に生物レベルの個体化をその特性とともに位置づけようとしていると読むべきだろう。
 「個体は、自ら個体化することによって、その図式を伝播させる。」個体は、個体形成に必要な情報にしたがって自己設計することによって、その情報の総体を伝達・拡散させる。
 「個体は、ひとつの形成の結果である。」個体がそこに在るということは、形成が実行された結果がそこに在るということである。
 「個体は、網羅的な要約であり、一つの広大な全体を改めて与えうる。」個体発生は、単に同じ種に属する別の一個の個体の再生産に尽きるのではなく、その発生が実行される環境との関係に応じて、その個体自身をその内に含んだ、より大きな新しい全体性を生成する可能性をもっている。
「個体があるということは、このような増幅的転移が実行されているということである。」個体化は、同じ場所で繰り返されるだけではなく、個体化によって生成された個体自身が移動ししつつ、個体化を他の場所に増幅していく。
 「それゆえ、個体は、常に己に先立つものと己に続くものとに対して二重の両義的関係をもっている。」個体は、過去の情報の単なる再生産ではなく、自己を形成している情報を次世代にそのまま伝達するだけでもない。過去の情報なしには再生産は不可能だが、各個体の生成には、常に過去に対して新たなものが生まれる可能性が含まれている。ある個体が次世代に伝達するのは、主に自己を形成している情報だが、その情報は、環境に応じて、新しい性質・特性をもった個体の生成をもたらしうる。
 「個体性を確立する転移の諸操作のうち最も単純で最も基礎的なもの、それは成長である。」シモンドンの個体化理論が、完成されてもはや変化のない、或いはいかなる変化も被ることのない実体を基礎モデルとしてではなく、動的な個体化過程を基礎モデルにして構築されていることがここにもよく表れている。
 「個体は、情報を凝縮し、それを移送し、そして新しい環境を調える。」個体は、自己形成情報を転送可能な形で凝縮しており、それが別の場所で「解凍」され、そこに新たな個体が生成される。そのとき、情報の総体が個体自身によっていわば「楽譜」のように用いられることで個体が形成される。このように個体形成の場所で個体自身によって新しい「演奏」が実行され、その演奏が共鳴する空間に一定の調性が与えられるとき、その空間全体が一つの新たな環境を形成する。














































 


個体あって個体化あるにあらず、個体化あって個体あるのである ― ジルベール・シモンドンを読む(88)

2016-06-06 10:01:05 | 哲学

 昨日読み始めた段落の続きを読む。そこには、過程としての個体化とその結果として生成された個体(性)との区別と関係について、私自身の問題 関心から注目すべき箇所がいくつかあるので、まず原文を引用した後、その各文のおよその訳を示しつつ、それにコメントを加えていくというスタイルを取る。

L’individualité est un aspect de la génération, s’explique par la genèse d’un être et consiste en la perpétuation de cette genèse ; l’individu est ce qui a été individué et continue à s’individuer ; il est relation transductive d’une activité, à la fois résultat et agent, consistance et cohérence de cette activité par laquelle il a été constitué et par laquelle il constitue ; il est la substance héréditaire, selon l’expression de Rabaud, car il transmet l’activité qu’il a reçue ; il est ce qui fait passer cette activité, à travers le temps, sous forme condensée, comme information (191).

 個体性は、生成過程の一つの相であり、ある一個の存在の生成によって説明され、その生成を恒常化させることからなる。個体がまずあるのではなくて、生成過程の中からある形が形成され、その形が一定期間維持されるという仕方で生成が持続されるとき、個体の存在について語りうるようになる。これを西田幾多郎『善の研究』初版「序」中の有名な一文「個人あつて経験あるにあらず、経験あつて個人あるのである」に準えて定式化すれば、「個体あって個体化あるにあらず、個体化あって個体あるのである」となるだろう。
 個体は、個体化されたものであり、己を個体化し続けるものである。個体は、この意味で、個体化の自発自展の一契機として形成されるものである。個体は、ひとつの活動の転導的関係であり、この活動の結果であると同時に作因である(この「転導」という概念については、4月2日5日6日の記事を参照)。ここでもまた西田の表現を援用するなら、個体とは、「作られたもの」でありかつ「作るもの」であると定式化することができるであろう。
 個体とは、個体がそれによって構成され、それによって構成するところのこの活動の一貫性の具体的実現に他ならない。ある場所に一定の形で一定の活動が一定期間持続的に保持されるとき、そこに個体が生まれる。
 個体における個体性は、しかし、その個体自身の自己保存に尽きるものではない。個体性には、個体を生み出し、その個体を維持させる活動を他の個体に伝達するという特性も含まれている。つまり、個体は、己と同様な個体化過程を繰り返すのに必要な諸要素を、別の個体に時間を通じて凝縮された形で伝達する。この同様な形の生成の反復を可能にするものが « information » であり、遺伝情報はまさにこの意味での « information » である。
 しかし、シモンドンにおける « information » 概念がいわゆる「情報」に尽きるものではなく、形の生成という意味での形成過程そのもの、形成に必要な諸要素の凝縮、形成の別の場所への伝播をも意味する多義性を孕んだ概念であることをここでも確認しておく必要がある。



























































個体は、一個の存在ではなく、一つの作用である ― ジルベール・シモンドンを読む(87)

2016-06-05 07:45:36 | 哲学

 ILFIの読解をぼちぼちと再開する。
 今日から第二部 « L’individuation des êtres vivants » 第二章 « Individuation et information » を読んでいく。
 生物レベルでの具体的な現象を挙げながら議論を進めていく方針は前章と変わりないが、一般的に既得の使用概念が批判的に問題にされる箇所では、とにかく繰り返しが多い。すでに議論された問題を、よく言えば、倦むことなく、悪く言えば、飽き飽きするほど、取り上げ直すのが同書でのシモンドンのスタイルである。
 しかし、その繰り返しの中に、それ以前には出て来なかった主張や概念の使用の仕方がひょいと登場することがあるから、油断がならない。だから、「またかよ」といささかうんざりしつつも、そのような箇所にもそれ相当の注意を払って読む必要がある。
 今日読むのは、第二章第一節 « Information et individuation vitale » 第一項 « Individuation et régimes d’information » の第一段落である。
 その冒頭でシモンドンは一つの問いを立てる。だが、それは深められた問いというよりも形式的な問いになると断る。なぜなら、その問いに答えるためには、習慣的に使用されている諸概念の改鋳が必要だからである、と言う。
 その問とは、「群体的な出芽は、ある一つの個体が常軌を超えた度合いで成長したということに尽きるのか、あるいは、まったく反対に、互いに繋がっているとはいえ、区別され得る複数の個体を発生させたのか」(191)という問いである。この問いを一言に約めるならば、「個体とは何か」となる。
 この問に対して、シモンドンは次のように答える。
 厳密には、「個体」(« individu » )について語ることはできず、語りうるのは「個体化」(« individation »)だけである。一つの個体があるかどうかということを知るための諸基準を発見するためには、すでに出来上がった個体を把握しようとする替わりに、それをもたらした活動や生成にまで遡らなければならない。
 個体は、一個の存在ではなく、一つの作用である。その存在が個体であるのは、個体化作用の作因としてであって、この個体化作用によってその個体はそれとして顕現し、実在する 。

L’individu n’est pas un être mais un acte, et l’être est individu comme agent de cet acte d’individuation par lequel il se manifeste et existe (ibid.).




























































休息と反省

2016-06-04 12:30:49 | 雑感

 昨日三日は、久しぶりのことだったが、日中丸々心身ともに休息させることができた。体の「ネジ」を全部緩めて、ぼんやりと過ごした。
 夜は、同僚二人と大学近くのレストランで会食。様々な話題について会話が弾み、楽しかった。しかし、先の審査の結果が話題になったときは、人事というデリケートな問題ということもあり、結果が出た後のことについてその場で初めて知らされた特定の個人に関する事実もいくつかあって、心中複雑であった。自分の判断は正しかったのか、再度考えながらの帰り道であった。
 私自身、最初のポストを得るまでの道のりは、平坦であったとはとても言いがたく、その途上で失ったものも少なくない。しかし、その間、不透明なあるいは不当と思われる審査結果に腹を立てたり、その過程で誰か特定の個人に対して恨みを持つような経緯は一切なかったことは、今にして思えば幸いなことであった。自分にとって否定的な結果が出るたびに、もちろん落ち込みはしたけれど、冷静に考えれば、そのときどきの諸条件からして順当な結果だったと納得せざるをえなかった。その気持ちに今も変わりはない。
 最初のポストを得て後、審査する側に立つようになり、ましてやこれから自分の同僚となる新人のポストの審査委員長であった今回の審査過程では、自分が審査される側だった時のことが何度も思い出された。候補者の中からたった一人しか選ばれない以上、誰かにとって良き結果は、必然的に他の誰彼にとっては悪しき結果にならざるを得ないことを改めてひしひしと感じさせられた。
 誰もが納得できる公平な審査が事実行われたのであれば、少なくとも審査する側としては恥じることも後悔することもないであろう。たとえ審査された側は全員が同じようにその結果を受け入れることができないとしても。
 しかし、様々な理由から微妙な結果にならざるをえないことも少ないとは言えない。そして、その結果によって人生が大きく左右されてしまう人たちが必ずいる。それらの人たちの人生に対して何らの責任を負うこともなく、それを左右できる立場に立つということが組織に属することによって可能になる。しかし、そのような立場に実際立つ人がそれに相応しい人だとは限らない。私自身、自分がそのような立場に立てる器でもなく、能力的にも不十分なことは、要請されて引き受けた時点からわかってはいたことだが、その時から今までの経緯を振り返りながら、今またそれを痛感している。


























































パリでの外部審査員としての責務を終えて

2016-06-03 01:19:02 | 雑感

 先ほどパリから最終TGVでストラスブールに戻った。帰宅したのは2日午後11時半だったが、今はもう午前零時を回っている。だから昨日ということになるが、2日は朝一番のTGVでパリに向かい、イナルコの准教授のポストのオーディションに外部審査員として参加した。
 ストラスブールのオーディションのときもそうだったが、今回もSNCFのストライキに影響され、リヨンの外部審査員が来ることができず、このような場合、規則に従って内部審査員を一人減らさなければならない。
 今回はそれに加えて、数日来の雨でセーヌ川が記録的に増水し、川沿いの自動車専用道路や遊歩道が完全に水没してしまい、パリ市内の交通も大幅に乱れるという想定外の事態も重なり、肝心の審査委員長が面接会場の教室に到着したのは、最初の候補者の面接開始予定時間の五分前であった。
 まず上記の理由で、内部審査員を一人減らさなくてはならない。内部審査員四人のうち、審査委員長を除く三人の間で話し合って誰が抜けるかをまず決めた。そして、審査員六人で面接が始まった。
 予定されていた候補者は八人だったが、そのうちの一人は別のポストで第一位にランクされた時点で応募を取り下げたので、七人を面接した。午前中に三人、午後に四人。
 ここでその具体的な審査内容に触れることはできないが、審査員全員で議論を尽くした上での順当な選考結果であったと思う。
 この審査委員会終了をもって、今年の大学年度中の本務校以外での責務はすべて果たしたことになる。
 帰り際に、審査委員長から、早くHDR(habilitation à diriger des recherhces)を取れと発破をかけられた。イナルコで取得する可能性についても示唆を受けた。確かに、ここのところHDRを取得する必要を痛感させられる機会が立て続けに何度かあった。いい加減その準備に本腰を入れないといけない。
 審査委員会は4時半頃に終わったので、当初乗るつもりだった最終のTGVよりも早い時間帯のTGVに乗れないかと東駅まで行って窓口で聞いてみたが、空席なしとのことだったので、また市の中心部までメトロで引き返し、セーヌ沿いを歩いて、記録的な増水の様を写真に撮った。ネットでも簡単に見つかるであろう普段のセーヌの様子と比べれば、その増水ぶりがわかるであろう。

                     
























































現実の中での自発的な個体発生の可能性 ― ジルベール・シモンドンを読む(86)

2016-06-02 03:25:01 | 哲学

 2013年6月2日に始めたこのブログに、昨日までの丸三年間、一日も休むことなく記事の投稿を続けることができた。それを可能にする諸条件が恵まれたことを幸いに思う。今日から四年目に入る。たとえわずか数行しか書けない日があっても、とにかく毎日書き続けていきたいと思う。

 昨日の続きで、同じ段落を最後まで読む。今日読む箇所に « information » と « individuation » という二つの概念が同時に登場する。原文をまず見てみよう。

Une telle propriété, qui indique l’existence d’un processus d’information au cours d’une opération d’individuation, ne fait pas partie de la systématique des genres et des espèces ; elle indique d’autres propriétés du réel, les propriétés qu’il offre lorsqu’on le considère relativement à la possibilité des ontogénèses spontanées qui peuvent s’effectuer en lui selon ses propres structures et ses propres potentiels (p. 158-159).

 昨日の記事の中で取り上げた同時晶出という化学現象に見られる特性は、個体化作用が実行されている間に一つの « information » 過程が存在することを示している。したがって、この特性は、固定的・非時間的的な〈類-種〉概念からなる分類法には馴染まない。
 この文脈で « information » を「情報」とは訳せないことは明らかであろう。この語の原義に忠実に、「形を与えること」「形を成すこと」「形に成ること」という意味を込めて、「形成」と訳すほうがより適切ではあるだろう(« information » の訳の問題は、この連載の中でもすでに何度か取り上げているが、特に4月12日13日の記事を参照されたし)。
 この意味での形成が〈類-種〉関係に馴染まないのはなぜか。それは、現実の個体化過程を通じて形成された種々の形を固定的な階層からなる分類法に当てはめることは、現実の現象に対して本末転倒だからである。つまり、〈類-種〉関係によって現実に存在する形態相互の関係が説明されるのではなく、現実に生成しつつある形態相互の重層的な構造から〈類-種〉という関係概念が一定の抽象化の手続きを経て構成されうるにすぎない、ということである。
 同時晶出という化学現象は、〈類-種〉関係には還元され得ない現実の別の特性を示している。その特性は、現実の中でその現実固有の構造とそれ固有の潜在性にしたがって実行されうる自発的な個体発生の可能性との関係で現実を考えるときに現実によって与えられる特性である。この自発的な個体発生が「形成」(« information »)に他ならない。













































同時晶出が示している「一つの深い現実」― ジルベール・シモンドンを読む(85)

2016-06-01 05:32:36 | 哲学

 昨日の記事の内容がそれに基づいている段落にはまだ続きがある。そこで〈類-種〉関係が現実の現象から析出されてくる過程の例証として、同時晶出(syncristallisation)という化学現象が挙げられている。同時晶出とは、「異質の物質、元素が同時に結晶化し、固溶体を作ったり、二種以上の結晶合体になること」(『小学館ロベール仏和大辞典』)である。
 同時晶出の基準は、どのようなシステムの中で化学種が結晶化するかを示すことによって、複数の異なった化学種をそれとして認識することを可能にする。この基準が示しているのは、ある一つの同じ個体発生のダイナミズムに基づいた現実的類比関係のタイプである。
 シモンドンは同時晶出という化学現象に何を見ようとしているのだろうか。正直なところ、まだよくわからない。だから、まったく覚束ない仕方にすぎないが、およそ次のようなことだろうかと今は思量している。
 複数の異なった化学種からなる結晶が形成されていく過程で連鎖反応が起こり、それが他の結晶化を引き起こすことがあり、それによって種的に異質な層において形成過程が引き継がれていく。この晶出過程全体の連続性によって生成された統一性は、互いに異質な種を包摂しており、そのいずれの種にも還元できない「一つの深い現実」(« une réalité profonde »)を示している。この「一つの深い現実」は、それを形成している諸種にとって、単なる偶有性ではなく、その本性に属する。
 同時晶出によってもたらされた全体である「一つの深い現実」とそこに包摂されている複数の異なった化学種とは、どのような関係にあるのか。それは〈類-種〉関係ではない。なぜなら、この場合、全体からそれが包摂している異種へと再下降することはできないからである。同時晶出における全体とそこに包摂される要素との関係は、したがって、〈類-種〉関係に還元されうるものではない。まったく逆に、この同時晶出という化学現象から、〈類-種〉関係が帰納的に概念として抽出されうると考えるべきである。