内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

道とは、同時に世界でありかつ主体である ― ジルベール・シモンドンを読む(102)

2016-06-20 06:31:51 | 哲学

 昨日読んだ箇所に、行動は、それによって各全体の特異性がより豊穣で広大な全体の中に統合され、その全体が新しい次元を有することになるような意味を見いだすことだとあった。このような新しい有意な次元は、自発的個体化において発見されたものである。

Le schème de l’action n’est que le symbole subjectif de cette dimension significative nouvelle qui vient d’être découverte dans l’individuation active. Ainsi, telle incompatibilité peut être résolue comme signification systématique par un schème de succession et de conditionnement. L’action suit bien des chemins, mais ces chemins ne peuvent être des chemins que parce que l’univers s’est ordonné en s’individuant : le chemin est la dimension selon laquelle la vie du sujet dans le hic et nunc s’intègre au système en l'individuant et en individuant le sujet : le chemin est à la fois monde et sujet, il est la signification du système qui vient d’être découvert comme unité intégrant les différents points de vue antérieurs, les singularités apportées (211).

 行動図式は、自発的個体化において発見された新しい有意な次元を主体の側から見た象徴にすぎない。行動以前の共立不可能性は、継起と条件づけを可能にする図式によってあるシステムの中の意味として統合されることで、解消されうる。行動は多くの道にしたがって展開されるが、それらの道がまさに道であるのは、行動がそこで展開される世界自身が個体化されることで組織化されているからにほかならない。道とは、今ここで主体の生がそれにしたがってシステムに統合される次元のことであり、この道がシステムとそこに生きる主体とをそれぞれ個体化する。道とは、同時に世界でありかつ主体である。道とは、既存の相異なった観点や持ち込まれた特異性を統合する統一性として発見されたばかりのシステムの意味にほかならない。
 上記の意訳を一言で易しく、しかしいささか身も蓋もなくまとめれば、以下のようになろうか。
 生きている意味が分かるとは、この世界で進むべき道が分かことであり、この世界で進むべき道が分かるとは、生きている意味が分かることである。
 一言だけこのまとめに注を付けておくと、ここでの「分かる」は「理解する」ではない。後者は、他動詞、つまり、誰かが何かをどうかすることであるが、前者は、自動詞、つまり、何かが自ずとそうなることである。この「分かる」と「理解する」との違いについては、2013年6月26日の記事2015年1月9日の記事を参照されたし。

























































行動以前の魂の揺らぎ ― ジルベール・シモンドンを読む(101)

2016-06-19 07:38:32 | 哲学

 今日読むのは昨日の箇所に続く以下の一節。

Le fluctuatio animi qui précède l’action résolue n'est pas hésitation entre plusieurs objets ou même entre plusieurs voies, mais recouvrement mouvant d'ensembles incompatibles, presque semblables, et pourtant disparates. Le sujet avant l’action est pris entre plusieurs mondes, entre plusieurs ordres ; l’action est une découverte de la signification de cette disparation, de ce par quoi les particularités de chaque ensemble s'intègrent dans un ensemble plus riche et plus vaste, possédant une dimension nouvelle. Ce n’est pas par dominance de l’un des ensembles, contraignant les autres, que l’action se manifeste comme organisatrice ; l’action est contemporaine de l’individuation par laquelle ce conflit de plans s’organise en espace : la pluralité d’ensembles devient système (211).

 最初に出てくる « fluctuatio animi » というラテン語は、スピノザ『エティカ』第三部第十七命題の注解に出てくる言葉で、そこでは、悲しみと喜びのように相対立する感情間の「魂の揺らぎ」を指す。しかし、ここでは、別の意味で使われている。
 以下は上掲引用箇所のおよその訳である。
 魂の揺らぎとは、決断された行動に先立つ、複数の対象間での、あるいはむしろ複数の方途の間での躊躇いではなく、ほとんどそっくりだが一致はしていない共存不可能な複数の全体(あるいは集合)同士が互いに重なり合って定まるところがない状態のことである。行動以前の主体は、複数の世界、複数の秩序の間に捕らえられている。行動は、それら差異を有した複数の要素間に意味を見いだすことである。つまり、それによって各全体の特異性がより豊穣で広大な全体の中に統合され、その全体が新しい次元を有することになるような意味を見いだすことである。行動がそのような統合化因子として出現するのは、既存の複数の全体のうちの一つがその他を圧して支配することによってではない。行動は、個体化と同時的であり、この個体化によって複数の面の葛藤が一つの空間として組織される。複数の全体はそこでシステム化される。













































行動を妨げるもの ― ジルベール・シモンドンを読む(100)

2016-06-18 07:36:08 | 哲学

 今日も同じ段落の続きを読んでいく。今日から何回かに分けて、残りの部分を数行ずつ細切れにして、それぞれに意訳か多少のコメントを加えながら終わりまで読んでいくことにする。
 今日読む箇所には、生きられる空間内に現れる障壁・障害(obstacle)についての考察が示されている。

L’obstacle n’est que bien rarement un objet parmi des objets ; il n’est généralement tel que de manière symbolique et pour les besoins d’une représentation claire et objectivante ; l’obstacle, dans le réel vécu, est la pluralité des manières d’être présent au monde. L’espace hodologique est déjà l’espace de la solution, l’espace significatif qui intègre les divers points de vue possibles en unité systématique, résultat d’une amplification. Avant l’espace hodologique, il y a ce chevauchement des perspectives qui ne permet pas de saisir l’obstacle déterminé, parce qu’il n’y a pas de dimensions par rapports auxquelles l’ensemble unique s’ordonnerait (211).

 障壁や障害とは何かを考えるとき、その他の諸対象とはっきり区別されかつそれらの間に置かれた何らかの特定の対象が私たちの行動を妨げる場合を思い浮かべることが多いのではないだろうか。
 ところが、シモンドンはそれとはまったく違った定義をそれに与える。以下、引用箇所の意訳である。
 障壁・障害といったもは、実はめったにはっきりとした対象としては現れない。そうであるかのように表象されるときがあるのは、通常象徴的な仕方でしかなく、そのようにはっきりと対象化した仕方で示す必要がある場合に限られる。実際に生きられている現実の中では、障壁・障害とは、世界に現前する仕方が複数あることそのことなのだ。情報伝達経路がすでにはっきりと形成されている空間は、すでに問題解決をもたらす空間である。つまり、システムとして統一された多様な可能的視点が統合された有意的空間である。このような空間は、増幅の結果として得られたものである。ところが、このような情報伝達経路が確立された空間が形成される以前には、いくつもの視角が重なり合い、その重なり合いがはっきりと限定された障壁・障害の把握を困難にしている。なぜなら、そのような状態には、唯一の全体がそれらとの関係で秩序づけられるような諸次元がないからである。
 一言で言えば、私たちの行動を妨げているのは、実のところは、いわゆる障壁でも障害でもなく、複数の視点が統合化されずに重なり合ったままで、解決すべき問題がそれとして定式化され得る空間組織ができていないことである。






















































行動が協働差異をもたらす ― ジルベール・シモンドンを読む(99)

2016-06-17 07:00:00 | 哲学

 個体が生きる空間が新しく形成し直され、そこに既存の諸要素が組み込まれるとき、それら諸要素は、互いに他を排除しようとする相互排他的関係にはなく、互いに他に対してある点では還元しがたい差異を有し、ある場面では対立しつつ、ある関係性にうちに統合されて一つの全体を形成する。その典型例を「網膜歪覚」(« disparation »)に見るシモンドンは、この例に見られる関係性に類比的なすべての関係性を « disparation » と呼ぶ。このように一般化された意味でのこの語をどう訳すか、良い案がまだ見つからないが、仮に「協働差異」という造語をその訳語として充てておく。
 昨日の記事は、段落の最初の一頁ほどをまとめたことになるのだが、今日はその続きで、そこでは、同段落の第二論点として、個体によって生きられている空間に行動がもたらす変化とその意味が論じられている。
 以下は、シモンドンのテキストの該当箇所のかなり自由な翻案である。
 行動は、すでに出来上がった個体による個体のための個体の行動ではない。行動そのものが個体化過程である。行動なしに個体は個体に成っていくことができない。その行動とは、協働差異的関係にある諸要素の統合化、というよりもむしろ、諸要素を協働差異的関係において統合化することである。
 行動は、個体の環境を形成する既存の諸要素の単なる配置変更ではない。行動は、個体がそこに生きる空間における主体と客体との分節のされ方そのものに変化をもたらす。行動は、新しい次元を発見し、それまで共存不可能であった諸要素にその次元においてその不可能性を乗り越えさせ、協働差異としてそれらを統合する。
 行動による協働差異化以前と以後との違いを、行動がそこにおいて働く世界の側から見れば、その異なった世界の「景色」を次のように記述し分けることができる。
 行動以前の世界は、単に相対立する要素が単に互いを排除しようする状態を呈しているのではない。行動以前の世界は、まだ己に自身に一致していないという意味で、まだ自己同一性を確立できていない。その状態は、両眼の二つの網膜上の異なった視像が共同して一つの奥行きのある視覚像を形成できていない状態に擬えることができる。見ることの成立がこのような奥行ある視覚像の成立と同時的であると言っていいのであれば、世界は、行動とともに己自身に対してその姿を現すと言うことができるだろう。



























































適応理論批判 ― ジルベール・シモンドンを読む(98)

2016-06-16 11:35:31 | 哲学

 今日からILFI第二部第二章第二節 « Information et ontogénèse » 第二項 « Individuation et adaptation » を読んでいく。
 その最初の段落は、二頁を超える長い段落である。そこでの第一の論点は、十九世紀哲学の重要な一側面がそれに依拠していた当時の生物学における適応概念についての批判的検討である。シモンドンは、生物界に見られる環境への適応は、個体化の一つの相関項に過ぎず、適応が可能なのは個体化によってなのであり、適応によって個体が形成されるのではないと考える。
 以下、シモンドンによる適応概念批判の概略である。
 生物学における適応理論は、一種の質料形相論である。形相因を個体の側に置くか、環境の側に置くかで、積極的適応と受動的適応との違いが出てくるが、いずれの場合も、形相・質料からなる二元論的世界像を前提として個体と環境との間の相互関係を構想している。形相と質料との間の領域、つまり、なぜどのようにして存在は形相と質料という二元へと分節化されるのかという問いが問われるべき場所はグレーゾーンとして不問に付されたままなのである。
 適応概念を根本概念として、それを生物学よりも構造的に脆弱な分野に適応するとき、例えば、それは次のような社会ダイナミズム論をもたらす。
 環境は、個体がそれに向かって進む目的とその個体の目的志向に対立する諸力の集合とからなる。これらの諸力は、個体に対して障壁として現れ、個体のそれに対する行動がより強度を増せば、それだけ強い反応を返してくる。こう考えるとき、個体の様々に可能な行動は、己の目的に対して障壁として現れるものに対する行動として規定される。
 このようなダイナミズム論は、「力の場」(« champ de forces » )という概念を導入する。それに拠ると、個体の行動及び態度は、この力の場の裡における可能な行動及び態度として理解されうる。個体が置かれたその都度の状況は、それを形成する力の場の構造として表象されうる。
 ところが、このような学説は、生体の本質的な活動は適応であると予め想定している。なぜなら、そこでの問題は諸力間の対立として規定されるからである。つまり、主体の目的へと向かおうとする諸力と対象から発するそれを阻もうとする諸力とのせめぎあいとして規定される。こう考えるとき、問題の解決の発見とは、力の場の構造的変化であるということになる。
 このような理論には、しかし、個体とは己の裡で継起的に個体化を実行できる存在であるという観点が欠落している。ところが、力の場の構造が可変的であるためには、そのための行動原理が発見されなければならず、その原理にしたがって形成されたシステムの中にそれ以前の形態配置が統合されなければならない。それらについての新しい意味が発見されなければ、与えられたものを変えることはできない。つまり、個体が生きる空間は、単なる力の場ではないのである。





















































個体化は緊張を弛緩させず、共存可能にする ― ジルベール・シモンドンを読む(97)

2016-06-15 09:07:21 | 哲学

 今日は12日に読み始めた段落の最後まで読む。

L’individuation résolutrice est celle qui conserve les tensions dans l’équilibre de métastabilité au lieu de les anéantir dans l’équilibre de stabilité. L’individuation rend les tensions compatibles mais ne les relâche pas ; elle découvre un système de structures et de fonctions à l’intérieur duquel les tensions sont compatibles. L’équilibre du vivant est un équilibre de métastabilité, non un équilibre de stabilité. Les tensions internes restent constantes sous la forme de la cohésion de l’être par rapport à lui-même. La résonance interne de l’être est tension de la métastabilité ; elle est ce qui confronte les couples de déterminations entre lesquels existe une disparation qui ne peut devenir significative que par la découverte d’un ensemble structural et fonctionnel plus élevé (206).

 問題に一定の解決をもたらす個体化は、安定的均衡の中にあれこれの緊張を無化することなく、準安定的均衡の中にそれら緊張を保つ。個体化は、緊張を共存可能にすることであって、それを弛緩させることではない。個体化は、緊張がそこで共存可能になる構造と機能とをもったシステムを見出すことである。生体の均衡は、準安定的均衡であり、安定的均衡ではない。内的緊張は、存在のそれ自身に対する凝集性という形を取り、その絶え間ができることはない。存在の内的共鳴とは、準安定性が保持している緊張のことである。この内的共鳴は、その間に差異・対立・乖離がある対限定を成す諸項を相互に対質させるが、この差異・対立・乖離が意味を持つのは、より高次の構造的・機能的全体を見出すことによってのみである。
 一応このように上掲の引用を訳したが、この箇所について二点指摘しておきたいことがある。
 一点は、「緊張」と訳した原語は、最後の使用箇所を除き、すべて « les tensions » と定冠詞+複数になっていることである。それゆえ、一種の曖昧さが伴う。文脈からして、緊張関係にある対立する二項あるいはそれ以上の項をその緊張関係のままに共存可能にすることがここでのテーマであるはずだが、この引用箇所だけを読めば、複数あるすべての緊張関係間の共存可能性という意味にも取れる。緊張関係にある関係項の共存可能性という前者の意味は、緊張関係間の共存可能性という後者の意味を必ずしも排除しないが、両者は次元を異にする二つの別の問題のはずである。最後だけ « tension » と無冠詞・単数であるのは、形容詞的に使われているからである。つまり、存在の内的共鳴は準安定性という緊張状態にある、ということを意味している。
 もう一点は、「対限定」と訳した « couples de déterminations » に関わる。医学・生理学で二つの網膜上の視像の差異を意味する 「網膜歪覚」(« disparation »)という術語が、ここではその意味が拡張・一般化されて、二つの異なった要素が対を成し、一つの全体を形成している場合すべてを指している。ここにも、上記の「緊張」概念の使用と同様な曖昧さがある。内的共鳴とは、ILFIの個体化論全体の所説からして、少なくとも第一義的には、一つの対限定を形成する何らかの対立関係にある二つの限定項間のその対立関係をより高次な統一性において保持することである。ところが、この箇所だけを文法的に忠実に読めば、複数の対限定の間に « disparation » があるということになる。一つの対限定を構成する二項間の統一性は、複数の対限定間の統一性を必ずしも排除しないが、前者から後者を必然的帰結として導くことはできない。両者は次元を異にする問題のはずである。
 この二つの異なった次元の関係という問題について、シモンドンのテキストに沿ってその解答を示す準備は今はまだできていないが、シモンドンの個体化理論から離れて自由に考えるとき、解決の一つの手掛かりになると思われるのは、フラクタル構造である。


















































良い形は建設的に差異・緊張・対立を包み込む ― ジルベール・シモンドンを読む(96)

2016-06-14 09:13:15 | 哲学

 今日読むのは、一昨日から読み始めた段落の昨日引用した部分の直後の数行である。

La Théorie de la Forme, utilisant la notion d’équilibre, suppose que l’être vise à découvrir dans la bonne forme son état d’équilibre le plus stable ; Freud pense aussi que l’être tend vers un apaisement de ses tentions internes. En fait, une forme n’est pour l’être une bonne forme que si elle est constructive, c’est-à-dire si elle incorpore véritablement les fondements de la disparation antérieure dans une unité systématique de structure et de fonctions ; un accomplissement qui ne serait qu’une détente non constructive ne serait pas la découverte d’une bonne forme, mais seulement un appauvrissement ou une régression de l’individu. Ce qui devient bonne forme est ce qui, de l’individu, n’est pas encore individué. Seule la mort serait la résolution de toutes les tensions ; et la mort n’est la solution d’aucun problème (205-206).

 ゲシュタルト理論は、均衡という概念を使うことで、存在するものは、良い形の中にその最も安定した均衡状態を探すと想定する。フロイトもまた、存在するものは、己の内的緊張を沈静化させる方向に向かうと考える。実のところは、存在するものにとって一つの形が良い形であるのは、その形が建設的なときだけである。つまり、先在していた差異・対立・乖離の基礎を構造と機能の体系的な統一の中にその形がまさに組み入れるときだけである。建設的ではない緊張緩和に過ぎないような達成は、良い形の発見ではなく、ただ個体が貧困化あるいは後退することでしかないであろう。良い形になるものは、個体の中でまだ個体化されていないものである。ただ死のみがすべての緊張を解消するのかもしれない。つまり、死はいかなる問題の解決でもない、ということである。





























































個体内問題群解決のための機能と構造の継起的創発 ― ジルベール・シモンドンを読む(95)

2016-06-13 08:05:19 | 哲学

 昨日途中まで引用したILFI第二部第二章第二節 « Information et ontogénèse » 第一項 « Notion d’une problématique ontognénétique » 冒頭の段落の続きの数行を読む。

Le développement pourrait alors apparaître comme les inventions successives de fonctions et de structures qui résolvent, étapes par étapes, la problématique interne portée comme un message par l’individu. Ces inventions successives, ou individuations partielles que l’on pourrait nommer étapes d’amplification, contiennent des significations qui font que chaque étape de l’être se présente comme la solution des états antérieurs. Mais ces résolutions successives et fractionnées de la problématique interne ne peuvent être présentées comme un anéantissement des tensions de l’être (205).

 生体の個体化は、その個体内に抱えられた問題群の解決過程であるという個体化理論の前提に立つと、その個体化の発展は、個体内の問題群に対して段階を追ってそれを解決していく機能と構造との継起的創発として現れてくることになる。この問題群は、個体によっていわばメッセージとして保持されているのであり、そのメッセージが情報として有意なものとして読み取られたときにはじめて、問題解決への動きが或る環境内に置かれた個体において発生する。この解決のための継起的創発は、増幅の諸段階と名づけうるであろう一連の部分的個体化のことであるが、それらが意味していることは、存在の各段階は先行する状態の解決として現れるということである。しかし、内的問題群に対するこれらの一連の段階的に分割された解決策は、存在に本来的に内在する緊張の最終的な無化としては現れ得ない。


































































網膜歪覚における「ずれ」と統合 ― ジルベール・シモンドンを読む(94)

2016-06-12 08:20:07 | 哲学

 ILFI第二部第二章第二節 « Information et ontogénèse » は、第二部の最終節である。この節は、さらに五項に分かれている。その各項から何箇所か摘録しておこうと思う。まず第一項 « Notion d’une problématique ontognénétique » の冒頭。

L’ontogénèse de l’être vivant ne peut être pensée à partir de la seule notion d’homéostasie, ou maintien du moyen d’autorégulations d’un équilibre métastable perpétué. Cette représentation de la métastabilité pourrait convenir pour décrire un être entièrement adulte qui se maintient seulement dans l’existence, mais elle ne saurait suffire pour expliquer l’ontogénèse. Il faut adjoindre à cette première notion celle d’une problématique interne de l’être. L’état d’un vivant est comme un problème à résoudre dont l’individu devient la solution à travers des montages successifs de structures et d’information, sous forme de couples d’éléments antithétiques, liés par l’unité précaire de l’être individué dont la résonance interne crée une cohésion. L’homéostatie de l’équilibre métastable est le principe de cohésion qui lie par une activité de communication ces domaines entre lesquels existe une disparation (205).

 恒常化された準安定的な均衡を自動制御することであるホメオスタシスによってのみ生体の個体発生を十全に考えることはできない。ホメオスタシスが与える準安定性の表象は、その生存において完全に成熟した個体の記述には適しているかもしれないが、個体発生過程を説明するには不十分だからである。そのためには、ホメオスタシスによる恒常性に対して、存在の内的問題性を考慮に入れる必要がある。一個の生体の状態とは、いわば解決すべき問題のようなものであり、個体は、構造と形態形成に必要な情報を順次組み合わせ編集していくことで、己自身がその問題に対する解決となる。しかし、これらの統合化されていく構造と情報は、相反する要素間の組み合わせという形を取る。それらの要素は、個体化された存在の不安定な統一性によって結合されている。その結合に一定の凝集性をもたらしているのは、その個体化された存在内の内的共鳴である。つまり、準安定的な均衡をもたらしているホメオスタシスは、凝集性の原理ではあるが、それは、互いに対立・乖離している諸領野をコミュニケーションによって結び付けるかぎりにおいてのことである。
 上掲引用文末尾に見える « disparation » という言葉は、医学・生理学における「網膜歪覚」のことであり、二つの網膜上の視像のずれのことを意味している。ここでもその意味が前提にされていることは、この語が同じ頁に二度目に出てくる箇所に付けられた脚注から明らかである。しかし、シモンドンは、そのように限定された分野に適用される意味だけでこの語を使っているわけではない。生体に内包されている相反・対立・乖離する諸要素間により高次な次元での統一性を形成していく過程一般を生命の個体化過程に共通する特性と考えようとしていると見るべきであろう。






















































存在は個体でありつつ他のものになる ― ジルベール・シモンドンを読む(93)

2016-06-11 15:56:23 | 哲学

 今日からは、今月25・26日に名古屋の南山大学宗教文化研究所で開催される和辻哲郎ワークショップでの発表の原稿(こちらを参照されたし)の仕上げに集中する時間を確保するために、この連載の方は、シモンドンの原文から気になる箇所を摘録し、それをざっと訳すか、あるいはその箇所についてのコメントを一言二言加えるだけにとどめる。

Une très importante question qui se pose encore est celle qui consiste à savoir quelle est la structure de l’individualité : où réside le dynamisme organisateur de l’individu ? Est-il consubstantiel à tout l’individu ? Ou bien est-il localisé en quelques éléments fondamentaux qui gouvernent l’ensemble de l’organisme individuel ? C’est cette question qui se pose pour tous les individus et aussi particulièrement pour ceux qui subissent des métamorphoses, sorte de reproduction de l’être à partir de lui-même, reproduction sans multiplication, reproduction de l’unité et de l’identité mais sans similitude, au cours de laquelle l’être devient autre tout en restant un individu, ce qui semble montrer que l’individualité ne réside pas dans la ressemblance à soi-même et dans le fait de ne pas se modifier, et conduit à exclure l’idée d’une individualité entièrement consubstantielle à tout l’être (202).

 個体性の構造とはどのようなものかというのがここでの問題である。言い換えれば、個体内のどこに自己組織化の力動性があるのか、という問いである。この問いは、さらに、その力動性は、個体全体と同一の広がりを有するものなのか、あるいは、個体組織の全体を司る根本的な諸要素の裡に局在するものなのかという問いへと具体化される。この問いは、すべての個体について立てられるが、特に変態する生物について提起される。生物に見られる変態とは、いわば自己自身を出発点とした存在の再生産である。それは、増殖することなき再生産であり、統一性と同一性の再生産であるが、(変態の前と後との間に)類似性はない。この再生産の過程で、存在は個体でありつつ他のものになる。このことが示していると思わるのは、個体性は、自己自身への類似性と不変にとどまるという事実のうちに存するのではない、ということである。このことは、存在全体と完全に一致した個体性という観念の排除へと導く。