内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

人間としての教養としてのレートリケー ― イソクラテスの修辞学校

2022-03-09 23:59:59 | 読游摘録

 イソクラテス(前436年‐前338年)の修辞学校については、まさにそれを主題とした廣川洋一氏の名著『イソクラテスの修辞学校』(講談社学術文庫 2005年 原本 岩波書店 1984年)があり、このブログでも先月末に紹介しました。同書には後日立ち戻るとして、『論証のレトリック』の中でのイソクラテスの弁論修辞の学についての解説を読んでいきましょう。
 イソクラテスは、プラトンの学園「アカデメイア」の創設(前387年頃)に数年先立つ前392年頃、弁論修辞の学を人間としての教養のための中心科目とする学校を開設しました。その後、死去するまでの約半世紀もの間、その学校での教育に携わり、政治家、弁論修辞家、歴史家、詩人など、種々の分野のわたる多くの弟子を世に送り出しました。
 イソクラテスは、当時の他の多くのソフィストや弁論修辞家たちからも、プラトンのような哲学者たちからも自分を区別します。
 人間としての何を為すべきかの知識を授けると称して、実は争論と詭弁の術を教えるにすぎない劣悪なソフィストたち、政治的な言論の技術が人の素質や実地の経験にかかわりなく、機械的に授けられるかのようなふりをする弁論の教師たち、いわゆる「技術」(言論の技術)の教科書を書き、低俗な法定弁論に携わっている初期の弁論家たち、そういった人たちをイソクラテスは非難の的とします。
 他方、プラトンの哲学に対してもイソクラテスは批判を加えます。イソクラテスは、「言論に関しても、行為に関しても、現実の場で何の役にも立たないものを哲学の名で呼ぶべきではない」と考えます。したがって、プラトンの学園アカデメイアで研究されているような争論的言論(ディアレクティケー)とか天文学や幾何学などの厳密な学問とかについては、「心の体育訓練」または「哲学のための準備」として、ある程度の有用性を認めるにすぎません。
 イソクラテスの教育者としての立ち位置がよくわかりますね。