白川静の『孔子伝』の「文庫版あとがき」は平成三(一九九一)年一月に記された。その前々年一九八九年十一月九日にベルリンの壁が崩壊した。ソ連崩壊は「文庫版あとがき」が書かれた年の一二月二五日のことである。白川静は前者の事実を前提とし、後者が間近なことを感じながら、こう記している。
一九九〇年は、歴史の上では極めて記念すべき年となるのではないかと思う。歴史の上で、かつてみたことのない巨大なノモス的世界が、壁がたおれるように音をたてて崩壊するという、信じがたいような歴史の現実を、我々はたしかにこの眼でみた。
スターリンの内部粛清二千万人という説は、必ずしも虚誕ではあるいまいとして、こう続ける。
今、その世界が崩壊しつつある。「プラハの春」以来、二十年以上もくすぶりつづけてきたものが、いま一瞬にしてもえ上ったのであろう。大きな一つの幻影が、歴史の上から消えようとしている。
だが、その「大きな一つの幻影」が最後の幻影ではなかったことを今私たちは知っている。いや、それどころではない。歴史とは、幻影に踊らされる時期、その消滅後の束の間の覚醒・希望あるいは幻滅・彷徨期、そしてまた新たな幻影の登場とそれへの熱狂の時代、この繰り返しではないのかとさえ疑いたくなる。
学術の問題を論じているときにも、その意識の底に連なる何らかの現実がある。そのような現実がなくては、なかなか研究に情熱を傾けうるものではない。
白川自身は、まさにこの現実との連なりを底に秘めつつ、巨大な学問的業績を遺した。『孔子伝』初版の中公叢書版の帯には、吉本隆明が推薦の言葉を寄せていたように記憶している。おぼろげな記憶に過ぎないが、大学闘争の真っ最中にも白川静の研究室にはいつも深夜まで煌々と灯が灯っていたと言われ、その後姿を想像すると、べそをかきそうになる、およそそのようなことが書かれてあったように覚えている。
「文庫版あとがき」はこう結ばれている。
孔子の時代と、今の時代とを考えくらべてみると、人は果たしてどれだけ進歩したのであろうかと思う。たしかに悪智慧は進歩し、殺戮と破壊は、巧妙に、かつ大規模になった。しかしロゴスの世界は、失われてゆくばかりではないか。『孔子伝』は、そのような現代への危惧を、私なりの方法で書いてみたいと思ったものであるが、もとよりそれは、おそらく私の意識のなかの、希望にすぎなかったかも知れない。
その希望を共有するために、今なお、いや今こそ、『孔子伝』は読まれるべきなのではないかと私は思う。