昨日の記事の続きです。
しかし、まさにこの平凡きわまることにほかならない「最高の非凡さ」ゆえに、「『論語』の言葉を正しく理解することは、じつは逆説的に至難なこと」でした。古代から有名無名な膨大な量にのぼる注釈書が書かれたのもそれゆえのことで、今日も、この逆説的な至難に直面することなしに『論語』を読むことはできません。それは貝塚先生ご自身もそうでした。「無数の注釈のなかから穏当な説をえらびだすのに苦しんで、どうしても筆を下すことができなかった」と訳注執筆前の自分の状態について述べられています。
実際に注釈に取り組まれて、先生ご自身の新解釈を打ちされた箇所も少なくありませんが、その点について以下のように述べて「解説」を締めくくられています。
この新解釈があたっているか否か、さらに検討を要することは私もよく意識していたが、この新解釈によって、従来の注釈をのりこえて、本文にそのまま飛び込む態度がきまったことが重要であった。注釈をこえて本文に直面することによって、私はいくつかの発見をした。そのあるものは、『論語』のもっとも難解とされた本文をはじめて明らかにし、また先人の気のつかなかった歴史的な解釈をおこなうことに成功した。はじめから私は別に新説を出すことを意図したわけではなかったが、本文に直面するうちに、自然に新解釈がでてきたのである。平凡にして非凡な孔子の真面目が、この新説によって、従来の注釈より、ずっと発揮されていると私は今でも自信をもっている。