内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

言論の基盤としての「常識」はどのように形成されるのか

2022-03-02 22:37:03 | 読游摘録

 2月27日の記事で話題にし、その一節を引用もした浅野楢英氏の『論証のレトリック ――古代ギリシアの言論の技術』(ちくま学芸文庫)は、私ごときが言ってもあまり説得力がないかも知れませんし、何か偉そうな物言いに聞こえてしまうかも知れませんが、今あらためて多くの人に読んでもらいたい、いや、一緒に読んで話し合いたいと切に願う名著です。
 しかし、それは、皆さん、この本を読んで論証のレトリックを積極的に活用しましょう、ということではありません。そんな呑気な話ではないのです。他人事ではなく、私自身、本書を読んで、自分が知っていると漠然と思っていることがらのうち、いったいどれほどが実は言論の技術によってそう思わされているだけなのかと気づかされ、言論の技術に対して自覚的になることがなぜ必要なのかを理解することができたのです。
 世の中には、きわめて優秀かつ博識で、諸般の事柄について優れた見識をお持ちの方々も少なからずいらっしゃいます。その上、優れた言論の技術を身につけてもいらっしゃる方々もいらっしゃる。しかし、私のような愚かな人間は、さて、これは真実だと証拠を挙げて言えること、これは真理だと自力で論証できることがどれほどあるかと自問すると、愕然とするほど少ない。というか、ほぼ何もない。
 それでも生きている、いや、生きてしまえているのはなぜか。この問いに一言で答えるとすれば、それは、ほとんど「エンドクサ」(通念)頼みで日々を過ごしているからだと答えざるを得ません。
 アリストテレスは、『トピカ』(101a30 -)の中で、大衆(多くの人々)を相手に話し合うには「エンドクサ」に基づいて言論を展開することが有効だと言っています。確かに、ほとんどすべての事柄に関して「非専門家」である大衆に、ある分野の専門家が専門的な話を厳密にしても、それこそ、猫に小判、豚に真珠でしかありません。
 今日、私たちは、人類史上、最も高度に発達した科学技術文明を享受しながら生きています。そのことは、同時に、それだけ専門的知識から疎外され、エンドクサに依存して生きているということにほかなりません。
 「エンドクサ」「人々に共通な見解」が、浅野氏の言うように、「人が自分の専門外の事柄について考え、論じるときに拠りどころとなる」「常識」であるかぎり、それは無闇に否定すべきものではありません。

 常識は専門的知識ほど精確ではありません。また常識がすべて専門的知識に由来するわけでもありません。単に皆がそう思っているというだけの常識もあります。しかし専門的な事柄に関する常識というのは、専門家の得た知識が専門家でない大衆にもわかりやすく通俗化されることによって形成されるのです。そのような常識は知識に次ぐ確かさをもつということができるでしょう。常識は非専門家(大衆)からの、また非専門家向けの、あるいは非専門家どうしの、言論の基盤なのです。

 この言論の基盤としての常識は、しかし、無償で私たちに提供されているわけではありません。専門家たちに任せておけば、彼らが非専門家たちのために形成してくれるものでもありません。