内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

会読 ― 江戸時代の共同読書方法の思想的可能性

2019-01-30 21:12:11 | 読游摘録

 前田勉の『江戸の読書会 会読の思想史』(平凡社ライブラリー版2018年。初版平凡社選書2012年)は、江戸時代に藩校や私塾で広く行われていた「会読」という共同読書法に焦点を合わせ、そのはじまりから展開を詳細に辿り、藩や身分の枠を飛び越えた横議が活発に行われた幕末を経て、いかに明治の自由民権運動の中で生れた学習結社にその読書方法が受け継がれていったかを明らかにすることによって、日本の近代化過程の政治史・教育史における積極的な一面を鮮やかに描き出し、さらには、会読という共同読書方法の現代における思想的可能性を示唆するところまで説き及んだ快著である。ライブラリー版の「あとがき」によると、初版刊行直後からさまざまなメディアで反響があったとのことだが、私はまるで知らなかった。不明を恥じるばかりである。

本書のもくろみは、江戸時代の会読する読書集団のなかから、いかに明治時代の民権結社のような政治的問題を討論する自発的なアソシエーションが生れていったのか、その過程をたどることによって、ヨーロッパのみならず、東アジアの片隅に位置する島国日本でも、読書会が大きな思想的な役割を果たしたことを示すことにある。(「はじめに」より)

 同時代ライブラリー版に新た付論として巻末に置かれた「江戸期の漢文教育法の思想的可能性―会読と訓読をめぐって」は、全国漢文教育学会での講演がもとになっているが、著者が言う通り、本書のエッセンスを簡潔にまとめていると同時に、「幕末維新において漢文訓読体は、当時の「新しい」文体であって、政治的・思想的に革新的な意味をもっていることを論じたものである」。特に、「敬語を排した漢文訓読体は、参加者の対等性を原理とする会読と密接に関係している問題」であるということが付論として収録した理由である。
 本書の主たる内容が抜群に面白いことについては今更喋々するまでもないが、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』とロジェ・シャルティエの『読書の文化史』を援用しているところに私は特に関心をもった。なぜなら、前者に依拠しつつ、身分差を超えた会読の「遊び」としての性格が広く文化史的な文脈から評価され、後者を参照することによって、会読という共同読書方法が知の共有の一つの生きた実践形式として捉えられているからである。
 江戸期について論じつつ近代的な知の方法を具体的に示すことによって、単なる歴史的な関心を超え、未来への思想的可能性を示すことに本書は成功している。