内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

寛容と自己批判 ― 渡辺一夫「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」より

2019-01-12 23:50:22 | 読游摘録

 2017年に中公文庫オリジナル版として刊行されたトーマス・マン『五つの証言』(渡辺一夫訳)には、渡辺一夫自身の寛容論ほかの代表的エッセイが併録されている。朝鮮戦争が勃発した1950年の翌年に書かれたエッセイ「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」には、今日改めて「普通人」が自らのこととして考えるべき問題が提示されている。以下、同エッセイから摘録しておく。

僕の結論は、極めて簡単である。寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容たるべきではない、と。(186頁)

普通人と狂人との差は、甚だ微妙であるが、普通人というのは、自らがいつ何時狂人になるかも判らないと反省できる人々のことにする。寛容と不寛容との問題も、こうした意味における普通人間の場において、先ず考えられねばならない。(189頁)

寛容と不寛容とが相対峙した時、涙をふるって最低の暴力を用いることがあるかもしれぬのに対して、不寛容は、初めから終りまで、何の躊躇もなしに、暴力を用いるように思われる。今最悪の場合にと記したが、それ以外の時は、寛容の武器としては、ただ説得と自己反省しかないのである。従って、寛容は不寛容に対する時、常に無力であり、敗れ去るものであるが、それは恰もジャングルのなかで人間が猛獣に喰われるのと同じことかもしれない。ただ違うところは、猛獣に対して人間は説得の道が皆無であるのに反し、不寛容な人々に対しては、説得のチャンスが皆無ではないということである。(191頁)

 以上はエッセイ本文からの摘録である。以下はこのエッセイについての1970年の附記である。

「自己批判」を自らせぬ人は「寛容」にはなり切れないし、「寛容」の何たるかを知らぬ人は「自己批判」を他人に強要する。「自己批判」とは、自分でするものであり、他人から強制されるものでもないし、強制するものでもない。(207頁)