内的自己対話-川の畔のささめごと

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「憧憬」(Sehnsucht)は「郷愁」(nostalgie)ではない ― 哲学的考察の試み(二)渇望の浄化作用

2019-11-25 18:05:56 | 哲学

 ドイツ語の Sehnsucht は、1750年以降の詩作品の中で多用されるようになり、一見すると、哲学とは無縁なように思われる。フランス語に訳す場合、nostalgie, aspiration, désir ardent など、文脈に応じてといろいろな語が用いられている。しかし、ドイツ観念論やロマン主義哲学においては、重要な位置を占める語の一つとなる、例えば、フィヒテの初期の知識学では、 Das Sehnen (あこがれ)は中心的な位置を占める一語となっており、フリードリヒ・フォン・シュレーゲルにおいては、Sehnsucht はその哲学的探究の核心をなし、晩年の1827年に出版された『生命の哲学』では、哲学は « Lehre von Sehnsucht oder Wissenschaft der Sehnsucht »(憧憬学あるいは憧憬科学)と定義されている。
 この Sehnsucht は、動詞 sich sehnen に由来するが、その語源は明らかでなく、十一世紀以降に中高ドイツ語として現れる。「恋い焦がれる、悩み苦しむ、欲望を有つ、事後的に嘆息する」 などの意味で使われた。宮廷詩人たちに愛用されたが、それは特に恋の苦しみを指す言葉としてであった。つまり、この動詞は、その感情的な起源に深く根ざしている。その実詞である Sehnsucht(接尾辞 sucht は、「病的状態」を指す)についても同様である。つまり、欲望で憔悴した人の苦しみを指しているのである。
 Sehnen も Sehnsucht も、その意味論的特徴は、苦しむ主体やその主体の痛みに重点が置かれ、その苦しみを引き起こす対象については相対的に非限定のままであるということである。両語ともに、状態の変化へ向けての主体の緊張や希求を意味している。その対象が明示されている場合であっても、その対象を指示する語は、一般的に、抽象的で非物質的なものを指す語であることが多い(例えば、休息、故郷、安寧など)。Sehnsucht という語が使われるとき、渇望は、その生々しい側面が廃棄され、昇華される。渇望がいわば高貴化・精神化されているのである。この渇望の浄化作用がこの語の1750年代から1850年代にかけてのドイツ語詩作品における頻用の主な理由であろう。












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