内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

個体から個体へと受け渡される生命の炎 ― ジルベール・シモンドンを読む(113)

2016-07-10 06:49:23 | 哲学

 個体化された存在によって練り上げられた構造と機能とを伝達可能なものとして受け入れるのは、単なる動物分類学上の「種」ではなく、存在の集団的統一性である。一つの有機的単位として形成された集団に属さないかぎり、個体において実現された構造も機能も他の個体や次世代に継承されることはない。言い換えれば、ばらばらな個体間に継承はありえない。
 この意味で、個体が与る第二の生誕は、集団の生誕であると言うことができるだろう。この集団に個体が組み入れられるかぎりにおいて、個体が担っている構造と機能とは、他の個体への伝播によって増大してゆく。
 個体は、実行された意味作用、解決された問題、転送可能な情報としての役割を集団内において果たす。かくして、個体は、己の個体的閉鎖性の中に閉じこもることなく、ある面において、より高次元において、己を表現し、拡張する。
 集団内で顕にされ、現在を超えて伝達されていく意味に対して、それぞれの個体自身は、「今」「ここ」に留まるゆえに、次第に減衰し、滓が沈殿し、徐々に生命の運動から離脱していく。
 各個体は、完成品でも実体でもない。個体に意味があるのは、個体化過程において個体化によってのみである。個体化が各個体を生命過程に参加させもし、その過程から降ろし、脇に除けもする。個体化は、個体において個体のためにのみ実行されるのではなく、個体の周囲で個体を超えて実行される。
 個体は、その実在の中央において、自己表現し、自己を意味に変換し、情報として恒常化する。その情報は、暗示的であったり明示的であったり、生命に関わることであったり文化に関わることであったりする。個体は、後からやってくる別の個体が成熟し、形成途上にある情報を引き継いでくれることを待っている。
 個体が生命に出会うのは、己が成熟したときである。完現態(エンテレケイア)は、単に個体内においてのことではなく、個体に固有なことでもない。それは、集団による個体化の実現である。
 ルクレティウスは、松明を次々に手渡していくリレーの走者たちに生者を喩えている。その松明の炎は、ルクレティウスの意図としては、おそらく、各個体の生誕時に与えられた生命の炎を表象しているのであろう。しかし、その松明は、集団内で継承され、次から次へと生まれる個体が時間の中で作り直し、引き受け直していくものを表しているとも取れるであろう。