各生命個体は、有限な広がりしか持たず、他の時でも他所でもなく「今」「ここ」に置かれ、その孤立的存在条件の不安定さから逃れられない。このような個体が表現していることは、生命に関する問題群のうちに解決不能な何ものかがまだ残っているという事実である。生命とは様々な問題の解決に他ならない以上、有限で安定性を欠いた個体の存在は、何かまだ残滓、意味が与えらないままの「くず」や「かす」、その個体における個体化作用のすべてが実行された後になお残余があるということを表している。老いた存在の内にこのように残されたものとは、統合化過程に組み込まれ得なかったもの、同化されなかったものに他ならない。
個体化以前の無限定から生命以後の無限定へ、事前の非限定から事後の非限定へ、最初の「塵」から最後の「塵」へと至る過程にあって、「塵」となって雲散霧消することのない一つの作用が実現される。生命は、現在にあり、その現在における問題の解決にあるのであって、残余のうちにはない。
そのような問題解決を生命とする個体にとって、死には二つの異なった意味がある。
その第一の意味は、対立的な死ということである。この死は、生体において維持されていた準安定的均衡が破れることである。この均衡は、それ自身の機能によってしか、その恒常的な解決能力によってしか保持されない。この死が表しているのは、個体化の不安定性そのものである。死は、個体化がそこにおいて実行される世界の諸条件と個体化との間に対立関係があること、個体化は危険を冒しながら実行されるのであり、必ずしもうまくいくとはかぎらないという事実を表している。
生命があるということは、解決されないことや下手に解かれることもありうる問題がそこに提起されているということである。それまで生命に準安定性を保持させていた公準系が問題解決過程において崩壊することもある。いかなる生命にもその外からやってくる偶発性がつきまとう。生命ある個体は己自身の内に閉じ込められてはいない。己の内に込められた運命などない。なぜなら、生ける個体が解決をもたらさんとするのは、己自身のためであると同時に世界においてだからである。個体とは、己自身が一つのシステムであると同時に、世界のシステムでもある。