もし死が不可避である一つ一つの個体に意味があるとすれば、それは、各個体が是が非でも己の存在にしがみつこうとする傾向によってばかりではおそらくないであろう。個体的存在は、どこまでも転導的であって、常に自己同一的である実体的なものではない。つまり、己がそれによって形成されたところの原理とそれにしたがって己に関わる問題群の解決を図った公準系を、他の個体あるいは他の世代あるいは他の集合へと伝播することがその本性なのである。それにもかかわらず、己の存在にしがみつこうとする傾向は、実体化の等価物を個体に探させる。しかし、個体であるということは、どこまでも存在の一様態に過ぎない。
他方、個体としての存在の意味をその個体が属するとされる種への無条件的・全面的統合化のうちに見出すこともできない。種が現実から抽出された概念の一つに過ぎないことは、実体としての個体がやはり現実からの抽象に過ぎないのと同じである。
個体的存在の実体化傾向と種という上位の連続性への没入化(それは木の葉の木に対する関係に譬えることができる)との間に、個体としての存在を別の仕方で捉える可能性がある。それは、個体を生命にとって本質的な個体化の一側面として限定されたものとして捉えることである。
個体が在るということは、転導的現実である。つまり、有限な時間の中で己の活動的な存在様態を展開することによって、個体は生命が有している問題解決能力を増大させる。個体は、それにしたがって問題解決が図られるところの公準系の適用範囲の拡張を可能にする生命的な存在様態なのである。
個体化の進化とは、それまでは現実において互いに共立不可能だった複数の潜在性を、己の一連の創発的行動を通じて、準安定的均衡のうちの共立させうる存在に個体がなることを意味している。