昨日は、集中講義のメインテキストの一つである三木清『構想力の論理』第三章「技術」を読んだ。当時の最新文献も含めて多数の文献を参照し、それらを援用したり批判したりしながら徐々に展開されていくその叙述に付き合うように、考え考えゆっくり読んだ。
技術をその発生の起源から考えようとする三木の姿勢がよく表れている一節をまず引用しよう。
自然も形を作るものとして技術的である。自然の歴史は形の變化 transformation の歴史であると云ふことができる。生命的自然の有する形は主體と環境との適應の關係から作られるものである。人間の技術も根本においては主體と環境との適應を意味している。技術によつて人間は自己自身の、社會の、文化の形を作り、またその形を變じて新しい形を作つてゆく。文化はもとより人間的行爲の諸形式も、社會の種々の制度も、すべて形である。人間の歴史も transformation(形の變化)の歴史である。自然史と人間史とは transformation の概念において統一される。その根底に考へられるのは技術である。(『三木清全集』第八巻二三七頁)
ここを読んだだけでも、技術という言葉が、今日一般的に流通している意味とは大きく違い、新しい形を作ることそのことを広く指していることがわかる。「作る」であって、「生む」ではないのは、つねに「道具」の媒介があるからだ。自然が自然自身を形作るということは、自然の中のある要素が他の要素に対して媒介として働くときであり、その関係を技術的と規定しているのである。
このように極限まで拡張された技術概念は、未開社会に見られる呪術もまた、次のような仕方でその内に包摂する。
すべての技術が主體と環境との間の作業的関係であるやうに、呪術も生存のための鬪ひから生れるものとして環境を自己の意志に從へようとする人間の行爲の一つの、原始的な形式である。卽ち呪術は技術的目的を含んでをり、ただ固有な意味における技術が環境についての客觀的な科學的な知識を基礎とするに反し、呪術は或る神秘的な力を信じている。簡単に言へば、呪術は技術の神話的形態である。(同巻一八九頁)
未開社会の神話的世界における構想力の実現形態は呪術という形を取り、世界にある形を与える具体的過程としての呪術もまた広義の技術の一形態であると三木は考えている。呪術をこの観点から考察することで、呪術と科学とが世界に対する態度としていかなる点において決定的に異なるかを技術との関係で規定することができるようになる。
呪術は、その都度の実行の結果得られた個別的事例を検証なしに普遍的価値と同定し、個別的なものの間の差異を認めない。この意味で、現実に対して抽象的な態度にとどまり、その態度に抵抗しないイマージュだけを相手とし、そのかぎりで普遍をその原理とする。科学は、個別的事例の現実性を認め、それらによって検証されない仮説の妥当性は認めない。この意味で、現実に対して具体的な態度を堅持し、特殊を重んじ、そこから引き出されうる整合的なイデーにのみ価値を与える。
呪術的技術は、普遍的なものとして信仰されている呪力に一方的に奉仕させられ、そこで働いているのは創造性を欠いた貧困な構想力でしかない。それに対して、科学的技術は、認識と制作との相互媒介性を現実化し、発見、発明、創造を可能にする。「精神において自然を繼續すると考へられるこのやうな創造的力」が優れた意味での構想力である(同巻二三五頁)。