個体的存在は、新たに提起された問題の解決を図るとき、己の内と外に、未だ個体化されていない現実、つまり、すでに他の問題解決のために一定の形式にフォーマット化されていない情報源としての前個体的現実を必要とする。この前個体的現実は、個体がもっている前個体的現実に関する情報、言い換えれば、世界に新しい形を与えることができる潜在性をもった現実である。
個体が負っているこの前個体的なものが「通・超個体的なもの」(« transindividuel »)の原理になる。ある一つの個体に担われたこの前個体的なものが他の諸個体に含まれた前個体的現実と直接に交流する。それは、あたかも一つの網のある網の目が隣の網の目と網目の一部を共有することで互いに己を超えて隣と繋がっているような状態に喩えることができる。
ここで一つ私注を挿入する。
個体の集団に対する関係を表象するこの喩えには、しかしながら、致命的な欠陥がある。なぜなら、一つ一つの網目は網の別の場所には移動できず、いつも同じ網目とだけ直接するという固定的な関係しか表象できないからである。これでは集団における個体の遊動性と可塑性をうまく表象の中に導入することができない。以下の祖述にもこの批判は妥当するが、ここではこれ以上この問題には立ち入らず、単なる指摘に留める。
己がその内で一つの網目でしかない動的な現実に参加することによって、個体化された存在は集団の中で働く。集団の中での行動とは、その集団の成員である諸個体間のネットワークにおけるやりとりである。このやりとりがかくして形成されたシステムの内的共鳴を生み出す。
この集団はそこに属する諸個体からなる実体として考えられるように思われるかも知れないが、このような考え方は正確ではない。なぜなら、集団形成は、そこに属する諸個体のそれぞれが抱えている前個体的現実に拠っているからである。集団が直接的に組み入れるのは、諸個体自体ではなく、諸個体が抱えている前個体的現実なのである。
諸存在が通・超通個体的関係の中に内包されるのは、各個体が抱えているこの前個体的現実によってであって、一定の問題解決に適した形で個体化されたかぎりでの個体そのものではない。植物にあって種子から成体にまでの成長にとって群生が果たしていた役割を、個別化された個体群にあっては、通・超個体的なものが果たしているのである。
注記:上掲の記事の投稿は、成田から渋谷に向かう成田エクスプレスの中から行った。