なにがしとかやいひし世捨て人の、「この世のほだし持たらぬ身に、ただ空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、まことにさも覚えぬべけれ。
これは『徒然草』第二十段全文である。ごく短い断章だが印象深く、いろいろなことを考えさせてくれる。
兼好がなぜこの世捨て人の言に共感を覚えたのかはよくわからないが、現世につなぎとめる絆となるものを持っていない世捨て人が、「空の名残」だけは惜しまれるという抑えがたい感情を吐露しているところに共感していることはわかる。
では、この惜しまれる「空の名残」とは何なのだろう。久保田淳校注の岩波の新日本古典文学大系版の脚注には、「空の様子だけがなごり惜しい」とあるが、これだけでは何が名残り惜しいのかよくわからない。西尾実・安良岡康作校注の岩波文庫版の注釈には、「空から受けて、心に残る感銘・印象」とあり、参考歌として、西行の『山家集』中の一首「嵐のみ時々窓におとづれて明けぬる空の名残をぞ思ふ」を挙げている。しかし、権威ある専門家に楯突くつもりはないのだが(と言いながら実際突くわけであるが)、「空の名残」を心に残った印象とするのは、いかにも近代主義的二元論に毒された解釈とは言えないであろうか(大森荘蔵なら必ずそう言ったであろう)。それに、参考歌として挙げられた西行の歌では、嵐の後の空を眺めて、その空へと思いを馳せていると読めるから、やはり心の内の印象とは考えにくい。
『徒然草』には、Les heures oisives, traduction et commentaires de Charles Grosbois & Tomiko Yoshida, Gallimard, Collection « Connaissance de l'Orient », Série japonaise, Gallimard, 1968 という見事な仏訳がある。その前書きによると、まず、大使館参事であった日本通の Jacques Chazelleが日本の偉大なるパスカル研究者である前田陽一の協力を得て三分の一ほどを訳し、その後、パリ大学で文学博士号を得た Tomiko Yoshida が書誌的準備作業に従事し、それに基づいて Charles Grosboisが全部訳し、最終的に前田陽一が校閲したという。これだけ手を掛けて一つの訳業がなされることは例外的だが、『徒然草』はそれに値するだけの古典の一つであるとは言えるだろう。
その仏訳では当該箇所は次のように訳されている。
« Rien ne m’attache plus à ce monde ; seule m’affecte pourtant la beauté fugitive des saisons dans le ciel. »
前半は原文にごく忠実な訳だが、後半は「ただ、空の季節ごとの移ろいやすい美しさだけは、私の心に触れてくる」と訳せる内容で、「空の名残」についてはっきりと訳者の解釈が訳そのもの中に表現されている。この解釈の当否をここで論うだけの準備はないが、一言個人的印象を述べさせていただくと、こう訳せば確かに意味は明確になるけれど、「空の名残」という余韻のある表現の味わいは失われてしまうと思う。
自分をこの世にひきとめる地上的なものからは離脱できても、空にある〈何か〉にだけはどうしても惹かれてしまうという心の動きは、自然の移ろいやすい美しさに魅惑されるということよりも、何か人間にとってもっと普遍的で本質的な魂の志向性を表現しているのではないであろうか。これが私の問いである。
この〈空〉への根源的な志向性という問題を考えようとするとき、手がかりになるだろうと私が念頭に置いているのは、大江健三郎がある対談で自分の文学に決定的ともいえる大きな影響を与えた二冊として挙げている、ガストン・バシュラールの『空と夢—運動の想像力にかんする試論』(Gaston Bachelard, L’Air et les Songes. Essai sur l’imagination du mouvement, Le Livre de Poche, 1992)とミルチャ・エリアーデの『聖と俗—宗教的なるものの本質について』(Mircea Eliade, Le sacré et le profane, Gallimard, « Folio essais », 1987)である(邦訳はいずれも法政大学出版局「叢書・ウニベルシタス」として出版されている)。
明日と明後日の記事では、上記ニ著それぞれからの引用を手掛かりに「空の名残」についてさらに考えていく。