『創世記』第三章のいわゆるアダムとイヴの失楽園の話は、私にとって汲めども尽きぬ思索の源泉の一つである。以下に記すのは、しかし、そこを読んでのささやかな私的感想であって、聖書解釈としてどうなのかという問題は一切視野の外にある。
野の生き物のうち最も狡猾な蛇に唆されたイヴに勧められるがままにアダムが智恵の木の実を食べてしまい、その結果として、二人とも目が開け、自分たちが裸であることに気づき、体の一部を無花果の葉で隠し、ヤハウェの足音を聞くと、木の陰に身を隠す。そこでヤハウェはアダムに問いかける、「汝は何處にをるや」と。しかし、これは奇妙な問いかけではないか。なぜなら、全知全能の神がアダムの居場所を知らぬはずはないからだ。とすると、これはアダムを探しだそうとしての問いではないだろう。では、なぜヤハウェはアダムに己の居場所を問うたのだろうか。それは、まさにこの問いにアダム自身に答えさせるためだったのだろう。
そのアダムの答えは、「我園の中に汝の聲を聞き裸體なるにより懼れて身を匿せり」である。「どこにいるのか」と聞かれただけなのに、「ここにいます」と単純に答えるかわりに、隠れた理由まで説明している。これもまた奇妙な話だ。禁断の実を食べてしまったのだから、罪の意識から神を恐れ、身を隠そうと思った気持ちは、まさに人間としてよくわかる。しかし、身を隠そうと思った理由は、自分が裸だからであるとアダムは言うのである。これも答えとしては何かおかしい。
いったい何がアダムにこのように答えさせたのだろうか。この疑問に答える手がかりは、直前の箇所に与えられている。神の足を聞く前、知恵の木の実を食べた途端に、目が開け、自分たちが裸であると知った。この出来事は何を意味しているのだろう。禁断の木の実を食べる以前にも、エデンの東の園を自由に歩き回り、その他の木の実は自由に取って食べていたのであるから、目が見えなかったわけではない。だとすれば、知恵の木の実を食べた瞬間に起こったのは、世界の見え方が根本的に変わってしまったということだろう。つまり、自分とは、今こうして見えている自分の体のことであり、自分の伴侶とは、やはり同じく裸体で自分の前に立っている相手のことであり、そのような身体的自己の相互認証がそこで初めて成立したのだ。
しかし、その時生じたのはそれだけのことではない。なぜなら、アダムは、イヴとともに、神から「身を隠す」ことができると考えているからである。つまり、自分たちが自分たちの体を見るように、神もまた自分たちを見ているはずだ、だから木陰に隠れれば見えないはずだと愚かにも思ったわけだ。ここでアダムが犯している誤りは、有限な人間の視点を神の視点と同一視するという誤りである。
アダムが知恵の木の実を食することで「獲得」したのは、自己の視点を普遍的な視点と同一視するという態度であり、だからこそ蛇は、その実を食べれば「汝等神の如くなりて、善悪を知るに至る」と唆したのである。しかし、それと同時に、人間が死すべき存在となったのはなぜか。それは、見えている有限存在である自己身体を自己そのものと同一視するようになったからである。
だから、アダムのヤハウェに対する答えは、自分が罪を犯したことを告白しているだけであって、まだ本当にヤハウェの問いかけ、「汝は何処にをるや」に答えてはいないのである。そして、答えないままに、エデンの楽園から追放されてしまう。
被造物たる人間のそれ以後の歴史は、この問いに対する答えの探求の歴史だと言ってもいいのではないであろうか。