「自照文学」という言葉が、日本で日本語として今どれほど一般的に通用しているのかよくわからないが、例えばネット上の国語辞典で調べてみると、「日記・随筆などのように,自己省察の精神から生み出された文学」(『大辞林』第三版、三省堂)、あるいは「日記・随筆などのように、自己反省・自己観察の精神から生活体験を主観的に叙述した文学」(『デジタル大辞泉』、小学館)などとある。他の辞書もこれらのいずれかとまったく同じかほとんど同じである。
そこからわかることは、まず形式としては、日記あるいは随筆という形をとるということ、内容については、自己観察あるいは自己反省からなるということである。さらに上掲の後者の定義によれば、観点として、主観的な叙述であるという第三の要素が加わる。
一方、上掲の定義に従うかぎり、自照文学という範疇からいわゆる自伝は排除される。つまり、自己のそれまでの生涯について「語る」ことを目的とした文章は、自照文学には入らない。もちろん、自伝の定義自体も問題になりうるわけで、その定義の仕方によっては、自伝文学と自照文学との境界も曖昧になってくるだろう。
それに、今、自伝文学と書いたが、自伝と自伝文学も必ずしも同義ではないという問題もある。例えば、ある会社の創業者や偉大な記録を残したスポーツ選手も自伝を書くことがあるだろうが、それらの自伝と文学作品として認められた作家の自伝とは同日には論じられないだろう。
しかし、今、それらのすべての問題は脇に置いて、自照文学に立ち戻ろう。
フランス語ではこれを littérature d’introspection と訳す。このフランス語を逆に日本語に戻すと、「内省文学」となる。つまり自分自身を外からの視点を介さずに見つめる文学ということになる。言い換えれば、他者からどう見えるかとか、他者の自分に対する考えはどうかということではなくて、自分に関わるすべてのことがらを内側から観察する態度が自照文学の基本だということである。
ここで、自照文学と自伝とのもう一つの相違点がはっきりする。自伝では、基本的に、語られるのは過去の自分であって、それをあたかもその時を生き直すように綴る場合もあれば、自伝を書いている現在の視点から回顧的に整理して叙述する場合もあるだろうが、いずれにせよ、語られるべき自己は、今それを語っている自己とは時間的には区別することができる。ところが、自照文学の場合は、逆に、基本的に、観察する自分と観察される自分とは時間的にはどちらも今の自分であり、その〈今〉において、自分が観察者と被観察者とに分節化されている。
以上のように考えてよいのならば、この同時的自己分節化を可能にしている言語使用が自照文学の固有性をなしていると言ってよいことになる。
しかし、このような言語使用は、文学に固有であろうか。むしろ哲学においてこそ、このような言語使用は実践されてきたのではないであろうか。だとすれば、文学に固有な〈自照〉とはどのような表現の形をとるのか。
今日の記事を書き始めたとき念頭にあったのは、自照文学の嚆矢でありかつ代表的作品とされる『蜻蛉日記』のことであった。その後に続く『和泉式部日記』『紫式部日記』『更級日記』という順番に従って、来週から修士一年の演習で、各回にそれぞれ一作品ずつ解説していくのであるが、そのための統一的な観点を最初に提示するために、自照文学という概念をその手がかりにしようと思っているのである。この演習のテーマとして予め掲げたのは「女流日記文学における〈自己〉の形成」であったが、もう少し観点を限定するために、自照文学という概念を導入するつもりなのである。
今日の記事の締め括りとして、その演習での作業仮説を簡略に述べておく。ある言語仕様の仕方によって開かれる観察可能な〈内的〉生の空間があるとすれば、その空間はその一定の言語使用の仕方と不可分であり、さらに言えば、そのような内的空間はその一定の言語使用の仕方そのものであり、それがその書き手の感情生活全体を規定しており、そこにおいて諸情念は言葉の光の中にもたらされ、それとして生きられている。そのようにして生きられる空間が生成する場所の一つが〈日記〉なのである。