内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

不請阿弥陀仏 ― 『方丈記』最大の難語

2014-11-10 18:55:50 | 読游摘録

 『方丈記』の伝本には、広本系と略本系の二つの系統がある。前者は、古本系と流布本系とに大別され、古本系では、鎌倉時代中期を下らないとされている大福光寺本が現存最古の写本であり、佐竹昭広校注の新日本古典文学大系本も市古貞次校注の岩波文庫版もこれに拠っている。後者には、同写本の影印・翻字が本文の後に付されており、大変興味深い。奥書には「鴨長明自筆也」とあるが、これについては賛否両論あり、専門家にとっても俄には決しがたい難問。長明の真蹟が他に伝存しない以上、筆跡鑑定という手段は使えない。
 略本と広本との関係については、これもまた専門家の間で意見が別れている。現在では、略本偽作説を支持する人の方が多いようであるが、略本を初稿本と考える人も必ずしも少なくない。
 これらの問題は、単に書誌学的な問題ではなく、それらに対してどういう答えを出すかによって、長明思想の理解が違ってくるという意味で大きな問題である。
 しかし、『方丈記』には、さらに厄介な解釈問題がある。長さにしてみれば、岩波文庫でわずか三十二頁の小篇であり、構想ならびに措辞において慶滋保胤の『池亭記』に負う所多いが、和漢混淆、対句、漸層法を駆使したその朗々誦すべき美文については、一気呵成になったと見る説もあるし、相当の時間をかけて彫琢した文章と見る説もある。これは、自ら謳歌している山中閑居への賛辞である第四段と、まさにその草庵の閑寂に執着するがゆえに仏道修行に専心できない自己への懐疑を吐露す最終段との関係をどう見るのかという問題とも切り離せない。長明自身、隠棲しながら何故仏道修行に専心できないのかという自分自身の問題に対して、「心、更ニ答フル事ナシ」と告白する。
 そして、長明思想の理解を更に難しくしているのが広本末尾の「不請阿弥陀仏」の解釈である。佐竹昭広は同語に付した注の中で「方丈記最大の難語」と記す。心の深からぬのを卑下して、「ただ二三遍念仏を口ずさむばかりである」という意味なのか、「こちらから請わなくても救ってくださる阿弥陀仏」という意味なのか、種々の解釈がある。
 今日の記事は、その問題の一文を最後に引いて、私自身もう一度この問題を考えるきっかけとしたい。

只、カタハラニ舌根ヲヤトヒテ、不請阿弥陀仏両三遍申テ已ミヌ。