内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

現代世界を読み直す方法を索めて ― アレゴリー的表現について

2014-11-16 19:19:08 | 随想

 数日前から、必要があって、アレゴリーという表現方法について調べ、考えている。
 手がかりとして、まず、Le Grand Robert の当該項目を引いてみる。「具体的な要素を一貫した仕方で(イゾトピー isotopieに従って)用い、その各要素が隠喩として、異なった性質をもった一般に抽象的な内容に対応する語り」とある。
 次に、Dictionnaire historique de la langue française, Le Robert, 2009を引く。それによると、語源的に、アレゴリーとは、「異なった言葉」という意味であり、フランス語では、そのギリシア語・ラテン語での意味に従い、「隠喩的な言説」という意味で使用され、特に古典的な用法としては、そのすべての具体的要素が、それとは異なっていてしばしば抽象的な内容を組織する語りのことである。
 そして、Dictionnaire du Moyen Âge, PUF, 2002 も引いてみた。具体的作品名がたくさん挙げてありかなり長い項目なので、最初の方の一般的な記述からのみ摘録すれば、以下のようになる。中世は、アレゴリー文学が最も活発に発展した時代であり、そのような発展のための好条件は、キリスト教文化の土台そのものに由来する。つまり、世界を一つの〈書物〉と見なすアウグスティヌスによって解釈されたプラトニズムと、教父たちによってその釈義の諸方法が定義された聖書(l’Ecriture)に基づいた宗教とがこの文学の背景をなしている。
 これらの記述からわかることは、アレゴリーとは、ある具体的なそれとして一貫性をもった物語を語りながら、その物語によって別のことを言おうとする文学形式であり、その別のことは一般に抽象的な内容であり、ヨーロッパ中世においては、その内容は主に宗教的教義・道徳的教説であったということである。おそらく聖書それ自体の解釈の仕方を教父たちが考究していく過程で、聖書の表現の意味の二重性、さらには多層性ということが自覚されていき、そこから聖書に倣って表現方法としても次第に用いられ、発展させられていったのであろう。
 アレゴリーが教義・教説の教化的表現方法として発展したとすれば、そのような教義・教説が疑われるようになり、さらには、より一般的に、一次的な物語表現の背後に不変の超越的な意味の存在を前提するという信念が崩壊した時、アレゴリーが文学形式として廃れていくのも当然の成り行きである。アレゴリーの衰退が中世の終焉と重なるとすれば、近代はアレゴリーの失墜とともに始まったと言うこともできるだろう。
 しかし、乱暴な言い方なのを承知で言えば、近代が、超越的・形而上学的な存在への不信と、リアリズムとシンボリズムの一般化とによって特徴づけられるとすれば、〈書物〉としての世界の読み方としてのアレゴリーは現代において可能かという問いは、中世への呑気な懐古趣味としてではなく、私たちは世界への信を回復することができるのかという問いとして、問われるに値する問いの一つではないだろうか。