お城のデータ
所在地:甲賀市甲賀町大原上田字小山田・北垣内(甲賀郡甲賀町大原上田字小山田) map:http://yahoo.jp/e7xp2v
築城者:大原三之助
築城期:室町時代
遺 構:曲輪・土塁・堀切
目標地:大原幼稚園・保育園(大原にこにこ園)、近くに大原小学校
駐車場:大原にこにこ園
訪城日:2014.7.19
お城の概要
大原川の谷部と大橋川の谷部を分割する東西に延びた丘陵上に位置する。大宝寺遺跡と大原上田城は80mの鞍部を挟んで向かい合う。
大原上田城は、丘陵上に粗雑に削平した単郭の山城で自然の地形を基にしている。
西側切岸したに堀切が残る。東側の内部は1mの土塁、浅い堀切。外側はほぼ自然の鞍部で峠道(堀切の可能性も残る)
虎口は南側に想定でき、東側が大手城道。そこに土塁状の高まりを認め、城の規模に比して、虎口が明確。
北斜面の下には複数の貯水池がり、その週周辺の平坦地は存在するが、近年の造作と判断される。南側にも切岸を切り込んだ城道が有り、下は平坦地で今は竹林でその西虎口も土塁状の高まりを認め、下屋敷カ。
大原上田城は、土塁の配置や虎口等、東側を意識した城構えで、大宝寺遺跡の散在を前提に機能したと考えられる。
歴 史
詳細不明
大原氏の活躍
近江伴氏からは甲賀郡大原から発祥した大原氏をはじめ、上野氏、多喜氏らが分かれ、「伴・大原・上野・多喜」の四氏はとくに伴四党と称された。
そして、大原氏からは篠山・勝井氏が分かれ、多喜氏からは山岡・馬杉氏が分かれ出た。豊臣秀吉に仕えて水口城主、さらに駿河府中十四万石の大名に出世した中村一氏は馬杉氏の一族という。他方、織田信長の四天王の一人に数えられた滝川一益も大原一族の一人であったと伝えられる。
大原氏は伴四党の一家として甲賀郡油日村田堵野を本拠とし、南北朝時代には武家方として行動した。観応の擾乱が起こると、南朝に転じた足利直義に属し、正平五年(1350)、小佐治氏らとともに油日山麓の善応寺で挙兵した。南北朝の動乱を経て室町時代になると、甲賀衆は近江南半国守護佐々木六角氏の被官に組み込まれていった。
応仁の乱以後の戦国時代になると大原氏は、大原中・大原市場・櫟野などを領有し、佐々木六角氏の重要な戦力として時代の荒波を生きたのである。六角高頼が将軍足利義尚の討伐を受けた長享の乱において、大原源三は高頼を支援して義尚が本陣を置く鈎を夜襲するなど大活躍をした。戦後、鈎において戦功が著しかった大原氏は甲賀二十一家の一に数えられ、和田・上野・高峰・多喜・池田氏と並ぶ南山六家の一として重きをなした。
大原氏が最初に城を築いたのは、大字鳥居野の地であったという。しかし、のちに大原氏の氏神を城内に勧進し、新たに城を築いたのが篠山城だという。氏神はいまも鳥居野に鎮座する大鳥神社であり、その境内は大原城址ということになる。実際、大鳥神社の正面には壕跡を思わせる水路が流れ、境内の一角には土塁跡と見られる遺構が残されている。甲賀衆は「郡中惣」を組織し、それを同名中と呼ばれる同族組織が支えた。そして、大原同名中は、現代も年に一回、八月三日に大鳥神社に会されるという。そのときの参会者の装束は、昔ながらの羽織袴に帯刀という物々しさである。
大原三之助 伊賀同心
組頭を失って動揺する同心たち。誤って彦六を殺してしまった三之助は、そのことを利用され仲間を一時、裏切って
しまう。上野の夜叉丸、 お桂に忍術を指導する。 三之助と相討ち、湖中に沈む。
伊賀同心のひとり、大原三之助は、遁兵衛の棟梁面が気に入らず不満をつのらせていた。そんな中、源九郎の誘いに乗った三之助は、誤って仲間の彦六を殺してしまった。次に源九郎は三之助の心の隙を利用し寝返らせ、伊賀の忍び籠に新太郎を閉じこめてしまう。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭
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