城郭探訪

yamaziro

大原上田城  近江国(甲賀)

2014年07月21日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町大原上田字小山田・北垣内(甲賀郡甲賀町大原上田字小山田) map:http://yahoo.jp/e7xp2v

築城者:大原三之助

築城期:室町時代

遺 構:曲輪・土塁・堀切

目標地:大原幼稚園・保育園(大原にこにこ園)、近くに大原小学校

駐車場:大原にこにこ園

訪城日:2014.7.19

お城の概要

大原川の谷部と大橋川の谷部を分割する東西に延びた丘陵上に位置する。大宝寺遺跡と大原上田城は80mの鞍部を挟んで向かい合う。

大原上田城は、丘陵上に粗雑に削平した単郭の山城で自然の地形を基にしている。

西側切岸したに堀切が残る。東側の内部は1mの土塁、浅い堀切。外側はほぼ自然の鞍部で峠道(堀切の可能性も残る)

虎口は南側に想定でき、東側が大手城道。そこに土塁状の高まりを認め、城の規模に比して、虎口が明確。

北斜面の下には複数の貯水池がり、その週周辺の平坦地は存在するが、近年の造作と判断される。南側にも切岸を切り込んだ城道が有り、下は平坦地で今は竹林でその西虎口も土塁状の高まりを認め、下屋敷カ。

大原上田城は、土塁の配置や虎口等、東側を意識した城構えで、大宝寺遺跡の散在を前提に機能したと考えられる。

歴 史

詳細不明

大原氏の活躍

 近江伴氏からは甲賀郡大原から発祥した大原氏をはじめ、上野氏、多喜氏らが分かれ、「伴・大原・上野・多喜」の四氏はとくに伴四党と称された

  そして、大原氏からは篠山・勝井氏が分かれ、多喜氏からは山岡・馬杉氏が分かれ出た。豊臣秀吉に仕えて水口城主、さらに駿河府中十四万石の大名に出世した中村一氏は馬杉氏の一族という。他方、織田信長の四天王の一人に数えられた滝川一益も大原一族の一人であったと伝えられる。

 大原氏は伴四党の一家として甲賀郡油日村田堵野を本拠とし、南北朝時代には武家方として行動した。観応の擾乱が起こると、南朝に転じた足利直義に属し、正平五年(1350)、小佐治氏らとともに油日山麓の善応寺で挙兵した。南北朝の動乱を経て室町時代になると、甲賀衆は近江南半国守護佐々木六角氏の被官に組み込まれていった。

 応仁の乱以後の戦国時代になると大原氏は、大原中・大原市場・櫟野などを領有し、佐々木六角氏の重要な戦力として時代の荒波を生きたのである。六角高頼が将軍足利義尚の討伐を受けた長享の乱において、大原源三は高頼を支援して義尚が本陣を置く鈎を夜襲するなど大活躍をした。戦後、鈎において戦功が著しかった大原氏は甲賀二十一家の一に数えられ、和田・上野・高峰・多喜・池田氏と並ぶ南山六家の一として重きをなした。

 大原氏が最初に城を築いたのは、大字鳥居野の地であったという。しかし、のちに大原氏の氏神を城内に勧進し、新たに城を築いたのが篠山城だという。氏神はいまも鳥居野に鎮座する大鳥神社であり、その境内は大原城址ということになる。実際、大鳥神社の正面には壕跡を思わせる水路が流れ、境内の一角には土塁跡と見られる遺構が残されている。甲賀衆は「郡中惣」を組織し、それを同名中と呼ばれる同族組織が支えた。そして、大原同名中は、現代も年に一回、八月三日に大鳥神社に会されるという。そのときの参会者の装束は、昔ながらの羽織袴に帯刀という物々しさである。

大原三之助  伊賀同心

 組頭を失って動揺する同心たち。誤って彦六を殺してしまった三之助は、そのことを利用され仲間を一時、裏切って
しまう。上野の夜叉丸、 お桂に忍術を指導する。 三之助と相討ち、湖中に沈む。

伊賀同心のひとり、大原三之助は、遁兵衛の棟梁面が気に入らず不満をつのらせていた。そんな中、源九郎の誘いに乗った三之助は、誤って仲間の彦六を殺してしまった。次に源九郎は三之助の心の隙を利用し寝返らせ、伊賀の忍び籠に新太郎を閉じこめてしまう。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭

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大宝寺遺跡 近江国(甲賀)

2014年07月21日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町大原中字寺田(甲賀郡甲賀町大原中字寺田) map:http://yahoo.jp/IgZslZ

築城者:垂井甲斐守

築城期:室町時代

遺 構:曲輪・土塁・堀切

目標地:大原幼稚園・保育園(大原にこにこ園)、近くに大原小学校

駐車場:大原にこにこ園

訪城日:2014.7.19

遠景・・・左が大宝寺遺跡。右が大原上田城

ここまで城域か(消火栓を北にまっ直ぐ)

個人宅の東側から登城・・・まっすぐ進むと左に土塁!

お城の概要

大原川の谷部と大橋川の谷部を分割する東西に延びた丘陵上に位置する。

大宝寺遺跡と大原上田城は80mの鞍部を挟んで向かい合う。

大宝寺遺跡は東西40m、南北50mの長方形で土塁で囲み、北と東の尾根に対して堀切を設ける。

虎口は土塁が途切れる虎口は大原川の谷筋に方面に。西虎口は小規模な削平地。南虎口は食い違いに土塁を設け今も斜面を切込んだ城路残る。

土塁は整備され、周回できるが、曲郭内は未整備(竹林)で確認は難しい。東側土塁は最も高く、大原上田城への峠道で高低差を伴う。

歴 史

大宝寺遺跡は、『甲賀郡志』によると、明応年間(1492-1501)に垂井甲斐守が築いたとされる。

垂井氏は、甲賀五十三家に数えられた大原氏の庶流である。

甲斐守であるが、大原家村が垂井を称しているので、その一族であろうと思われる。

家村は盛景の孫にあたり、子に為家(源三)がいる。為家が長享年間にこの地を支配し、戦功著しく甲賀21家の一つに数えられている。
 為家の子は家親、その代に加津井を名乗り、勝井氏の祖である。

目標地・駐車場

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭

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高野城 近江国(甲賀)

2014年07月19日 | 丘陵城

 駒札(説明板)「甲賀市史 甲賀の城(概要図つき)より」初めて見た 山麓東側に滋賀県教育員会の「文化財を大切にしよう」の碑

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町高野字茨谷  (甲賀郡甲賀町高野字茨谷)  map:http://yahoo.jp/jP7o5M

築城期:室町時代

築城者:

初城主:大原源三

区 分 :丘陵

遺 構 :曲輪・土塁

駐車場:路上駐車(駒札近くの農道)

訪城日:2014.7.16


曲郭Ⅰの虎口(武者隠しカ?)

お城の概要

甲賀町高野の宮西集落の北方丘陵先端部に位置し、集落より比高25mを図る。(城から北へ続く尾根との間には鞍部があり土橋状遺構、溜池跡、階段状の平削地があるが、後世の植林や水田の関係改変とみる)。

丘陵頂部には、北・西に土塁に囲まれた城の曲郭Ⅰ(主郭)あり、いちばん広い。北の土塁は内側4~5mで頂部削平され、拳大の河原石が多数散乱(投擲用)する。また、物見櫓台の予見出来る。曲郭Ⅰの内側が急斜で削平時に削り残したもの。曲郭Ⅰは城郭遺構。

東南に帯郭Ⅱ・Ⅲ・Ⅳが残存し、大きな池(溜)が確認できるが作事時、または植林・陵畑など後世の改変の可能性も残る。

なお、城から北側に続く丘陵上で第二名神の建設に伴う発掘調査(滋賀県教育委員会)を実施さてたが、城郭遺構や遺物は確認されていない。調査後、踏査でも標高230m付近で城郭らしき遺構は確認なし。(甲賀市史 甲賀の城)

歴 史

大原源三(文書によっては源三郎)は鈎の夜襲で功を上げ甲賀21家に数えられている。

 勝井氏系図によれば、盛景の子家朝の筋で父は家村(垂井四郎)である。家村は大原中の甲斐屋敷(垂井城跡)の主であり油日神社の「油日神社再建奉加帳」に「垂井甲斐守」の名がみえる。

 その家村の子に家貞、為家、惟家の兄弟があり、為家が大原源三のことである。源三は戦国期には大原中の他大原市場、高野等を領有した

登城口と駒札「甲賀市史 甲賀の城より」

農機具庫の東側を真直ぐ進む

 

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭

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「近江の城郭」より

 

以下は、新聞報道された高野城の発掘調査に関わる記事です。
----------------------------ここから

 戦国時代後期(16世紀後半)に甲賀武士が築いた城館とされる「高野城」(甲賀市甲賀町高野)が、これまで想定されていたより規模が大きく、複数の建物で構成されていたことを県教委が7日発表した。  

 高野城は、甲賀忍者の原型とされる甲賀武士の築いた城とされ、発掘調査などから、これまでは小規模な平らな面と土塁を持つだけの単純な構造の城館遺跡とみられていた。
しかし、第2名神の建設にともなう試掘調査で、幅5・5~20メートル、長さ9~21メートルの平坦(へいたん)面四つと、10カ所の堀状の凹地が確認された。この結果から、東西250メートル、南北230メートル以上にわたり関連の施設が広がっている可能性が出てきたという。
ただ、城館域全体では建物に統一した構造はみられず、必要に応じて個々の建物を建てていたとみられる。

 高野城があった時期と重なる1570(元亀元)年前後には、織田信長が甲賀に侵攻しており、県教委は「甲賀武士団が知識や技術を精いっぱい利用して信長の攻めをしのごうとした、切迫した対応ぶりを示しているのでは」としている。
----------------------------ここまで

高野城については、第2名神高速の工事に伴って発掘調査がなされ、滋賀県文化財保護協会主催で2005年9月10日に現地説明会が開かれました。滋賀県文化財保護協会が城郭遺構としているものは、自然地形を都合の良いように解釈したもので、滋賀県の城郭研究者。

開催日:2005年9月10日(土
主催者:滋賀県文化財保護協会


【現地説明会に至るまでの経過】
 第二名神高速道路の工事に伴い高野城の背後の山を調査した所、城郭遺構を発見し、昨年から発掘調査を実施してきた。発掘調査の結果、5つの平坦地と窪地、および竪堀状の遺構を検出した。
 これらの城郭遺構は高野城に隣接していることから、高野城に関連して構築されたものであると考えられる。高野城は甲賀の高野地区を所領としてきた土豪である高野氏の城と考えられているが、高野城が改修・拡張された背景には、永禄11年(1568)に織田信長が近江に侵攻してきて以来、元亀争乱まで続く軍事的緊張の中で高野城が改修・拡張されたものであると考えられる。なお、全体的に城郭としての形をなしておらず、急造されたためであると考えられる。

 

 


                 西側斜面下からの全体地形、手前の人工的な箇所は溜池施設


 今回新たに発見された高野城の遺構は第二名神高速道路の延長線上にあり、おおよそ半分ぐらいは消失するようです。

 

現地に向かって出発

 50名ほど参加者は、いよいよ現地に。
登り詰めたところが、第2平坦地と第3平坦地の間になる。




第1平坦地
 
今回発見された遺構には、独立した5つの平坦地があり、これが曲輪として考えられている。

 

尾根上の堀状地形と第1,第2平坦部

 この窪地(堀状地形)は、攻め手から身を隠すために掘られたのであろうか。


尾根上の堀状地形と第1,第2平坦部

 第3平坦地から見た、第1平坦地と第2平坦地



第2平坦地方向から見た窪地(堀状地形)

 第二平坦部と第三平坦部の間の尾根上にある窪地(堀状地形)。堀の延長線上に第三平坦部がある。

 

堀状地形

 正面に旗の立っているところが第3平坦部、右手の小高いところが第4平坦部


第4平坦部と第5平坦部

 

第3平坦部から見た第4,第5平坦部

 この辺りまで来ると、「ホンマに城郭遺構か?」という印象を受けた。





第5平坦部から見た第4平坦部

 この第4平坦部が5つの平坦部の中で、最も曲輪らしい地形をしている。


第4平坦部から見た第5平坦部

 各平坦地との間に堀切が欲しい場所である。第5平坦地下の道は後年付けられたもの。

 

第5平坦部の切岸

 平坦部の切岸だけは他の斜面と勾配が違うところは手が入っていることを窺わせる。


第5平坦部の切岸

 手前の段差になっている部分を、係の人は「犬走り」と称されていました。そういわれてみれば、見えなくもない。

 滋賀県文化財保護課でも、いろいろと検討された末に出された結論が、城郭遺構で一般的に使われる「曲輪」を使わず、「平坦地」とい言葉を使われている。


補陀楽寺(ほだらくじ)城 近江国(甲賀) 

2014年07月18日 | 平城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町大原市場 (甲賀郡甲賀町大原市場) map:http://yahoo.jp/czSDyw

現状:補陀楽寺・公民館

区分:平城

遺構:土塁・堀跡

築城期:室町時代

築城者:

目標地:補陀楽寺・公民館

駐車場:補陀楽寺・大原市場公民館駐車場

訪城日:2014.7.16

お城の概要

補陀楽寺城は、甲賀町大原市場(JR甲賀駅)の西方にあり、北東と東南に土塁が残る。北西にも土塁が残っていた(平成7(1995)年まで)が、区画整備の公民館の新設・発掘調査後で消滅した。残念!

地籍図から、城域は半町(約50m)四方の館跡で、北東の土塁は高さ2.5m、50mと図る。南東の土塁は高さ2.0m、20mと図る。土塁の外側には堀はない。

東端の開口部は近年以降の改変・開削されたもの。本来は杣街道に直交する道が残る南西面は正面であった。現在はJR草津線で分断され、城門(寺門)が建つ。立地は、杣川へ北から南へ除々に傾斜する。JR草津線が城域を分断する。

歴 史

発掘調査で中世以降の17世紀の信楽焼の壺や擂鉢片が出土し、土塁下層部の溝から16世紀後半の遺物が出土している、土塁構築はこの頃。

築城は室町期、築城者等詳細不明。

城門(寺門)が建つ。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11

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竹林(たけばやし)城 近江国(甲賀)

2014年07月18日 | 平城

石積みで固められた土塁が、お寺の前に残るお城。

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町相模字竹ノ花 (甲賀郡甲賀町相模字竹ノ花) map:http://yahoo.jp/lLoMZZ

現 状:慶徳寺

遺 構::慶徳寺前土塁、本堂裏の土塁、石仏

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:竹林新七郎

目標地:慶徳寺、交番http://yahoo.jp/wTePqx

訪城日:2014.7.16

 

 

お城の概要

竹林城は、甲賀町相模のうち里集落の北端で、大原川の河岸左段丘際に位置している。

現在は慶徳寺が建ち、改変がみられるものの、境内南(門前30m・高さ1.2m)北(本堂裏高さ3m・5m)に土塁が残存する。

北側川沿いは基底部程度しか残らないが、南側は境内から路地を挟んだところに東西約30mにもおよぶ土塁が残る。
また昭和中期頃までは南北辺に加え、東辺にも土塁が残存していたといい、それを踏まえると少なくとも約60m四方の単郭城館であったと考えられる。

歴 史

竹林城は、室町時代に竹林新七郎によって築かれたが、詳細なことはことは定かでない。

土塁林と大原川を挟んで鳥居城(遠望)

土塁の樹下の石仏直下を流れる大原川の南土塁(本堂裏)

鳥居城からの遠景

竹林城前の林田籐九郎翁の顕著碑土塁の上に立つ。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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鳥居城 近江国(甲賀)

2014年07月18日 | 平城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町鳥居野字樋越 (甲賀市甲賀町鳥居野字樋越) map:http://yahoo.jp/kvP7li

現 状:雑木竹林

遺 構:曲輪・土塁・空堀

区 分:平城

築城者:鳥居兵内

築城期:文明年間(1469-87)

城 主:大原伊予守春綱・丹後守貞綱、篠山備後守景春

目標地:交番http://yahoo.jp/wTePqx

駐車場:城域南西部平坦地http://yahoo.jp/j0zksC

訪城日:2014.7.14

お城の概要

 鳥居城は、甲賀町鳥居野のうち樋越の北西、大橋川が大原川と合流する地点のすぐ北側に位置する。
大橋川北岸に広がる丘陵地の西端で、南側へ舌状に突き出した台地を利用し、丘陵続きの北と北東は堀り切って背後の横堀としている。

 縄張は、南北約60m×東西約40mの単郭方形で、民家側の南辺のほぼ中央に虎口が開口している。現在の虎口付近は、後世の改変が考えられるが、他に開口部はなく虎口はここにあったのでは。

 土塁は、南辺虎口の西半分から西・北辺と、コの字形に残っている。さらに北辺の東端の土塁切れ目は不自然に途切れているので、本来は東辺にも土塁があったことが考えられる。

城内の東側には、近年建物が建っていた基礎(コンクリートに鉄柱)のような跡が残っている。邪魔だった東側の土塁は削除されたカ。

 北側は、急斜なV字に切込んでいる。基本空堀だが、湧水か灌漑水か、水堀か。

東側では縄張の東辺に沿って排水路のように大橋川へ向かっている。これは本来東辺にも堀があった名残り。土塁も、城外の切岸は垂直に鋭く、北東からV字に入城したが危険。

城の南側の民家は台地状の地形になっており、城の一部または付属する屋敷地であったのでは。

V字の堀底から、左が土塁。Vに下り、土塁を登る

歴 史

鳥居城は、文明年間(1469-87)に鳥居兵内が築いたとされる。

天文年間(1532-55)大原伊予守春綱・丹後守貞綱が領有したのち、いったん廃城となる。

天正年間(1573-92)篠山城主、篠山備後守景春によって修築されたが、完成しないまま廃城となった。

 

城内・土塁も竹林・・・北側は杉林

近年の基礎(コンクリートに鉄柱)が、東側に残っている。

無理やり城外へ(東側)南側(民家の向かい)の電柱の横に虎口があった。

西側の民家から鳥居城の北西部遠景

駐車位置(郭外の平坦地)http://yahoo.jp/j0zksC

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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大鳥神社遺構 近江国(甲賀)

2014年07月17日 | 平城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町字河合寺・松迫 (甲賀郡甲賀町鳥居野字河合寺・松迫) map:http://yahoo.jp/bS_9tw

現 状:大鳥神社・山林(鎮守の森)

遺 構:曲輪・土塁・空堀

築城期:室町期

築城者:大原氏

区 分:平城

目標地:大鳥神社

駐車状:大鳥神社参拝者用駐車場

訪城日:2014.7.12

 

お城の概要

大鳥神社は、鳥居野集落の北方、大橋川と天王山に囲まれた山際に鎮座する、大原谷地区において古くから崇敬されている総社である。この本殿の北西山裾の山林内に遺構が現存している。

ただこの遺構は、同社と隣接し神宮寺として栄えた河合寺の廃寺跡とする説もある。が

しかし付近で勢力を誇った大原氏が最初に築城した城館がここにあったという文献が残っている。

城は本殿の後に土塁と空堀が残る

 縄張は、東西約50m×南北約30mの四方を高さ2m前後の土塁と空堀で囲む曲輪1と、南方に隣接して小曲輪2・3が確認できる。曲輪1の東辺と西辺の開口部は削られ方が新しく、後世の破壊道と思われ、本来南辺のみが虎口と考えられる。

曲郭2・3の周囲が中途半端な土塁なのは後世の破壊によるものではないかと思われる。

平坦地4の北側にも土塁があるが、これは用水路に伴う後世のものである。

また本殿東側には庭園跡と思われる遺構が残っている。

本殿東側には庭園跡と思われる遺構

 

 

歴 史

 大鳥神社は、明治をむかえるまでは河合祇園社・河合牛頭天王社などと称し、大原谷の総社として崇敬されてきた。本殿の西側には天台宗河合寺が同社の神宮寺として存在し、複数の子院を抱え栄えていたというが、神仏分離によって廃寺となった。

甲賀五十三家に数えられ、大原谷を中心に勢力を誇った大原氏が初めて築城した城が、現在の大鳥神社付近にあったと伝えられている。

大原氏一族、笹山氏の居館で、笹山城を築いて移転しています。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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南殿屋敷(南城) 近江国(甲賀)

2014年07月17日 | 居館

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町大久保字正中垣外 (甲賀郡甲賀町大久保字正中垣外) map:http://yahoo.jp/xZRg89

遺 構:土塁

築城期:室町期

築城者:大原南監物

区 分:居館

駐車場:林照寺参拝者用の無料駐車場

訪城日:2014.7.14

お城の概要

 南殿屋敷は、中垣外(なかがいと)地区にある林照寺西側の住宅地内にある。 寺から見ると西側に2ヶ所竹藪が見るが、手前が城跡(推定地)で奥が南殿屋敷(推定地)だ。 城跡推定地には土塁と思われる土塁が一部竹藪の中に残っていた。

地元では、「ミナンドヤシキ」と呼ばれ、油日神社の祭礼:油日祭に先だって、ここに獅子が舞う伝承がある。

  

歴 史 

南殿屋敷は、築城年代や築城者については定かでない。

近世油日神社の祭祀を記した「川枯神社社法録」(伴家文書)には、祭礼に先立ち同社の祭祀圏の村々を祓って回る獅子巡祓が四月一日に大久保村を訪れ「鎌倉時代並びに南殿屋敷跡にて初舞」とある。

「ナンドヤシキ」は南殿屋敷、「奥殿屋敷」は奥殿城・・・土豪屋敷に対する特別な儀礼であったことが知れる。

林照寺参拝者用の無料駐車場を利用。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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奥殿城(奥殿屋敷) 近江国(甲賀)

2014年07月17日 | 平城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町神小字堀口(旧:甲賀郡甲賀町神小字堀口) map:http://yahoo.jp/XL7Kro

目標地: 県道129号 安井歯科医院東200m

区 分:平城

現 状:宅地・田地

遺 構:土塁

築城期:室町時代

築城者:奥氏(中世土豪)

訪城日:2014.7.14

お城の概要

現状は宅地と土塁が残る。近江奥殿城は、県道129号線沿いの民家の敷地となっていて、東側に土塁(25m)が残っている。 北側の土塁は近年民家の改築で削除された。

近年民家の改築までは、市道へ入ると民家の門脇から垣間見ることができたようである。(民家敷地内なので立入不可)

遺構は大きく改変されたが、東側に土塁(25m)、高さ3mが残る。遺構は50m方形の単郭が復元できる。地形は北から南へ緩やかに傾斜している。

尚、奥殿城の西に200mに「西ノ口城」と呼ばれる遺構が存在する。位置は集落の南側、大原川の谷へと落ち込む地点。現状は佛性寺と地区集会所となり、本堂の背後に1mの土塁が残る。http://yahoo.jp/HhDs9B

歴 史

近江甲賀郡誌によれば「大原村大字神の内西方に其の地名を在すれども残礎等なし。相伝ふ中世奥氏と称す豪族ありて此地方を領せり」とある往。

また、明応四年(1495)「油日御造宮御奉加之人数」(油日神社蔵)の木札にも寄進者として「奥殿」の名がみえる。

近世油日神社の祭祀を記した「川枯神社社法録」(伴家文書)には、祭礼に先立ち同社の祭祀圏の村々を祓って回る獅子巡祓が四月一日に大久保村を訪れ「鎌倉時代並びに南殿屋敷跡にて初舞」とある。

「ナンドヤシキ」は南殿屋敷、「奥殿屋敷」は奥殿城・・・土豪屋敷に対する特別な儀礼であったことが知れる。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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高嶺南城 近江国(甲賀)

2014年07月14日 | 戦国山城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町高嶺(旧:甲賀郡甲賀町) map:http://yahoo.jp/1Rmv4G
    ~伊賀市東湯舟(旧:阿山郡阿山町)

目標地:東海自然歩道 

区 分:丘城

標 高:248m  比高差:20m

現 状:山林

遺 構:郭・土塁・堀切

築城期:戦国期

築城者:高峯氏

訪城日:2014.7.12

 

目標地・・・(県境県道61号線の県境)

お城の概要

滋賀三重県境にまたがる城です。城郭体系には三重県の城として紹介されています。

東海自然歩道の看板のところから道を進みます。東海自然歩道は300mほど進むと【案内標識】南へ下りる道と尾根を進む道に分かれます。があり、自然歩道はそのまま直進です。100mほど進んだところで左手斜面に入ります。

東海自然歩道を伊賀見城からさらに100m進んだ左手に高嶺南城があります。

御断り:伊賀見城と高嶺南城の写真が混在しているやも?

歴 史

甲賀市史(甲賀の城)によると、伊賀国の「小杉村地誌取調申請書」によれば、「元亀天正の頃、本村の豪氏高嶺某この所に依る云」とあり、在地の豪氏高嶺氏をあてている。高嶺氏は甲賀・伊賀をまたいて活躍した可能性は残る。が実態は不詳である。

高峯蔵人、あるいは高峯(鷹峯)伊太朗の城と資料にはあります。明治まで続いた、伊賀越え道の監視、伊賀を警戒のための城であるようです。勢力関係で伊賀方の城になった頃もあったようです。

高嶺南城は堀井氏の城という史料もあるようです。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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垂井城(甲斐屋敷) 近江国(甲賀)

2014年07月14日 | 丘陵城

駒札は倒され説明もない。 

城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町大原中字甲斐屋敷  (旧甲賀郡甲賀町大原中字甲斐屋敷)  map:http://yahoo.jp/7K2LcT

別 名:甲斐屋敷

目標地:JAこうか甲賀

区 分:平城  

現 状:宅地・市道ほか

遺 構:曲輪・土塁・空堀

築城期:室町期明応年間(1492~1501)

築城者:垂井甲斐守

駐車場:JAこうか甲賀

訪城日:2014.7.14

 

 郭の内側通路(見学者?当主)

お城の概要 甲賀市史(甲賀の城)より

垂井城は、甲賀町大原中のうち、大原川とその支流上田川に囲まれた南集落内に所在する。
縄張内には市道が貫通し、民家が立ち並ぶ中で、完存ではないが、遺構が残る。

縄張は、個人宅となっている曲輪Ⅰと、市道が貫通しているので曲輪とは思えないⅡが、等質で横並びに配置されている。
曲輪Ⅰは東西約40m×南北約60m、曲輪Ⅱは東西約50m×南北約70mで空堀dを共有し、空堀dの両サイドに残る土塁は、ほぼ往時のままの姿をとどめ、aは約6m、eは約4mの高さを誇る。

空堀dは、幅が平均約10mのかなりの規模で、南方は宅地化しているが、北側は東西両側へ廻っていたが途中まで確認できる。

曲輪Ⅰの虎口は南辺のcであり、北辺も現在は枡形状の民家の勝手口になっているが、本来の虎口であったかは不明である。

北東から東辺の塁線には土塁の基底部跡と思われる段差が残る。曲輪Ⅰの東隣りの宅地も城の一部であったのかも知れない。

曲輪Ⅱは東辺に土塁e、西辺の上田川沿いに土塁g、南辺の現在祠の建つ土塁fがそれぞれ途切れながら残っている。

曲輪ⅠとⅡは空堀dを共有しているものの、それぞれが独立したような縄張であり、別個の城郭であった可能性が考えられる。

歴 史

垂井城は、『甲賀郡志』によると、明応年間(1492-1501)に垂井甲斐守が築いたとされる。

垂井氏は、甲賀五十三家に数えられた大原氏の庶流である。

甲斐守であるが、大原家村が垂井を称しているので、その一族であろうと思われる。

家村は盛景の孫にあたり、子に為家(源三)がいる。為家が長享年間にこの地を支配し、戦功著しく甲賀21家の一つに数えられている。
 為家の子は家親、その代に加津井を名乗り、勝井氏の祖である。

大原源三

 

 

 

大原源三(文書によっては源三郎)は鈎の夜襲で功を上げ甲賀21家に数えられている。勝井氏系図によれば、盛景の子家朝の筋で父は家村(垂井四郎)である。家村は大原中の甲斐屋敷(垂井城跡)の主であり油日神社の「油日神社再建奉加帳」に「垂井甲斐守」の名がみえる。その家村の子に家貞、為家、惟家の兄弟があり、為家が大原源三のことである。源三は戦国期には大原中の他大原市場、高野等を領有した。系図は

 

盛景――家朝――家村――為家――家親――景重――景信――景吉――景福――景就――景之――景當――景元

 

と続く。この中の家親は加津井五郎と称し、また、その子景則、その弟景重の時勝井と改姓する。勝井家の祖である。なお、大原数馬家系図では、数馬家は源三の弟惟家の系統であり、甲賀組の篠山氏は、同家の系図によれば、家村の兄良信の系統である。同族でありながら系図に違いが見られる。

 


竹林が生い茂っているが土塁は四方に残存しており、しかも3mを超える高さである。

 

 

郭内から水濠見える   

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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高嶺東谷城  近江国(甲賀)

2014年07月14日 | 丘陵城

所在地:甲賀市甲賀町高嶺小林・美濃谷(旧:甲賀郡甲賀町高嶺) map:http://yahoo.jp/CM4Fgz   

目標地:

区 分:丘城

  比高差:40m

現 状:山林

遺 構:郭・土塁・堀切

築城期:戦国期

築城者:高峯氏

訪城日:2014.7.12

お城の概要

高嶺東谷城は、下から見上げれば綺麗に草刈りをされて、地主さん許可得て登城したのですが、主郭は、ブッシュで確認出来ず。

主郭の東南隅を覗いて、土塁の下部に・・・堀切を確認出来たが・・・冬に再度確認をしよう。

甲賀市史(甲賀の城)によれば40m×45mの主郭であったが、開墾で西側改変されている。南と東に土塁は残る

平場(副郭)Ⅱは、土塁痕が西る側に残削平地で、今は果樹(梅・栗)園に。

甲賀町高嶺地区の東谷集落の東背後に東から西に張り出した丘陵の先端部に築かれている。

縄張りは、丘陵の頂部に東西約40m、南北約45mの主郭を置き、北西側と南西側下方に副郭を構えている。

東側は丘陵続きで堀切を設け遮断している。

主郭は四囲を土塁で囲繞していたが、東面を除き殆ど削り取られ、南面は微高地が、北面と西面は断片の土塁が残る程度となっている。

北面中央に開口しているが、北から一直線に山道が開口部に繋がっており、虎口の可能性が低いように思われる。

城跡全体が笹や立木に覆われ、堀切へは近ずくことも出来ず、また、副郭の平坦地は、後世の開墾カ。

歴 史

この高嶺の地区六城(高嶺北城・高嶺中城・高嶺東谷城・伊賀見城・高嶺山城・高嶺南城)の本城と考えられる城で、高嶺氏の城砦郡であり、高峯蔵人の城と言われます。高峯氏は伊賀との国境を守るため、六城を構築したようですが、それ以上の詳細な史料はないようで、天正年間に滅びたとされるようです

高嶺東谷城 南より遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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篠山城(殿藪) 近江国(甲賀)

2014年07月14日 | 居城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町鳥居野字小杉・鳥岡(旧甲賀郡甲賀町鳥居野字小杉・鳥岡) map:http://yahoo.jp/Hvo-66

別 名:殿藪

目標地:甲賀コミュニティーセンター、鳥居野の信号・バス停

区 分:平城

現 状:雑木林

遺 構:曲輪・土塁・水堀・空堀・土橋・庭園跡

築城期:慶長年間(1596-1615)

築城者:篠山理兵衛景春

市指定史跡

駐車場:東虎口の近くに路上駐車

訪城日:2014.7.14

 東の虎口西虎口

西虎口の外に水堀と土橋

姥百合の蕾

お城の概要

 篠山城は、甲賀町鳥居野のうち、東出集落の北端で、大橋川南河岸の台地上に築かれている。
市指定史跡になっていて、東辺土塁の開口部に案内板が建っているが、まるで整備されておらず、城内北半分は高いブッシュに覆われている。

 縄張は、東西約50m×南北約60mの主郭Ⅰと腰曲輪状のⅡからなる。基本的には四方を土塁と、北側自然崖以外の三方を堀で囲む一般的なプランである。

 土塁は削り残しではなく、平城ならでは、盛土だと判る綺麗な断面台形で、よじ登ることが困難な急斜面になっている。

 東辺と西辺の開口部は切り通し状で後世の破壊に見える。南辺は土塁が破壊され、あまりに開口が広いが、本来の虎口はここにあったと考えられる。

 西辺土塁の外側には水濠が残り、近年までは南辺にも濠が残っていたが埋め立てられた。東辺の道路も本来は堀であったのではないかと指摘されている。西辺開口部に架かる土橋は後世のものかも知れない。
aとbには浅い空堀が確認できる。

Ⅰの主郭の北辺は庭園跡だと指摘されているが、ブッシュで確認ず、土塁の形状、水濠、庭園など、近世の城郭遺構だ。

 歴 史

 城主篠山氏は、甲賀五十三家に数えられた大原氏の庶流で、戦国末期の蔵人頭景元(景助)の時に笹山姓に改姓し、その子景春(資家)はさらに篠山姓に改姓した。

豊臣政権化での甲賀武士はことごとく所領を失い、多くが流浪を余儀なくされていた。やがて秀吉が没すると、元々徳川家康との関係を築いていた景春は、近隣十郷の代官に取り立てられた。この時期に豊臣勢力に備えて篠山城の築城を開始したと考えられる。

篠山城は代々この地に勢力を持っていた篠山氏が築いた城であり、大原から篠山に改姓した景春を初代としている。

 景春は慶長5年伏見城篭城戦で長男と共に戦死し、その墓が多聞寺にある。
 家康はその功に報いるため、子孫を江戸城警護役や鳥居野の領主(旗本)として遇した。子孫の中には大阪代官や佐渡奉行、大目付などの要職に就いた人もいる。大原城の主である大原数馬氏はその一統である。

 


慶長6年(1600)6月、上杉景勝を討つため途中近江国石部に宿をとった徳川軍に、水口城主で五奉行の一人長束正家が、家康の謀殺を企てていたことを察知した篠山景春が通報した。
 同年7月、石田三成が家康打倒の兵を挙げ、家康の老臣鳥居元忠が守る伏見城を攻撃した。この伏見城の戦いに、篠山景春・景尚父子をはじめ多くの甲賀武士が籠城、激戦のすえにことごとく戦死した。
これにより、築城中であった当城は完成を見ないまま廃城になったと思われる。

関ヶ原に勝利し、江戸幕府を開いた徳川家康は、伏見城で戦死した景春と嫡男景尚の功として、子孫を江戸城警護役や鳥居野の領主(旗本)とし、篠山家の存続を許し、二男資盛に旗本として鳥居野を安堵した。資盛は当城近くに新たに笹山陣屋を築いた。篠山氏は、その後江戸時代を通して旗本の地位を守りぬいた。子孫の中には大阪代官や佐渡奉行、大目付などの要職に就いた人もいる。大原城の主である大原数馬氏はその一統である。

 

「・・大原庄住居於鳥居野村構小城・・」」(篠山氏系図)とあるので、既に篠山城は造られていたであろう。姓を大原から笹山に代えたのは、父の景元(大原蔵人)のときで、大原氏系図には元亀2年(1571)とある。年代からみて無理はない。

篠山氏にとって災難だったのは秀吉の天下取りへの動員である。篠山景春は甲賀士36人と一緒に織田信長に仕えていたが、信長死後羽柴筑前守に属し、尾州長久手で信雄と秀吉の合戦(天正12年4月)のおり、信雄と「通心」した疑いをかけられ失脚した。信雄は信長の子供であるから、そんな疑いをかけられたのであろう。それで関地蔵辺りに隠れ住むことになった。

篠山氏だけではない。他の甲賀武士もひどい目に合っている。天正13年(1585)、秀吉は前年の小牧長久手の戦いで家康と組んだ紀州の根来・雑賀の一揆を鎮圧するのに、甲賀武士も動員して水攻めの堤を築かせた。それが不備であったと難癖をつけて領地没収を命じたのである。大方の甲賀武士は仕方なく命に服したが、小佐治の佐治氏は勇敢にもこれに抗して戦った。だが、結果は水口古城(岡山城)の堀 秀政・中村一氏に攻められ滅亡している。篠山氏では、景元の弟資忠(篠山監物)は領地を没収され「住所離散」の憂き目に遭い、後、相模に移ったと記されている。資忠の子景近は田堵野に住し、これが大原数馬氏のご先祖である。このようにして甲賀武士から領地を奪い、それを水口古城の領主に集中させ、集権的支配を拡大していった。こうして天正13年(1585)には岡山城の中村一氏は6万石の大名になり、天正18年(1590)に一氏移封のあとは増田長盛、更に文禄4年(1595)からは長束正家が城主を引き継いだ。

  これらの不運を取り払ってくれたのが家康である。慶長年中に家康が上洛の道すがら景春を召し出して先祖のことや「年来の在様」を聞き、近隣十郷の代官をするよう命じている。篠山氏がどれだけ恩義を感じたか想像に余りある。

そして、この恩義は、数年後家康の危機を救うことになる。慶長5年、家康が上杉中納言景勝を討つために甲賀郡を通過しようと石部に宿をとっていた時に、景春は、秀吉政権の五奉行の一人長束大蔵大輔が水口駅で陰謀を企てている事を知らせた。家康は長束からの朝餉の招待をすっぽかして夜中に宿を発ち、無事水口を通過し関に着いている。景春はその時褒美として「腰物」をもらった。いかにも忍者らしい働きである。事の真否は知る由もないが、家康は無事水口を通過し上杉攻めに向かうことができ、直後の関ヶ原の戦いで勝利して天下を取り、江戸時代の350年が続くのである。正に「情けは人のためならず」である。余談であるが、事後長束はこの企みを否定したが、家康は信じなかったという。

北東からの遠景

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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伊賀見城 近江国(甲賀)

2014年07月13日 | 戦国山城

所在地:甲賀市甲賀町高嶺(旧:甲賀郡甲賀町) map:http://yahoo.jp/1Rmv4G
    ~伊賀市東湯舟(旧:阿山郡阿山町)

目標地:東海自然歩道(

区 分:丘城

  比高差:40m

現 状:山林

遺 構:郭・土塁・堀切

築城期:戦国期

築城者:高峯氏

訪城日:2014.7.12

目標地・(県境県道61号線の県境)

滋賀三重県境にまたがる城です。城郭体系には三重県の城として紹介されています。

自然歩道の看板のところから道を進みます。300mほど進むと案内標識があり、自然歩道はそのまま直進です。100mほど進んだところで左手斜面に入ります。

城跡下に居ると実感します。なんとなく登っていくと西の堀切・北の堀、ここに登るとコの字状に土塁が巡る主郭。

西の堀切から進むと西の虎口で、伊賀見城。 東側虎口の先には小型ですが明瞭な堀切。

主郭の南東側下にも平坦地があり、郭跡。

 東海自然歩道を伊賀見城からさらに200m進んだ左手に高嶺南城があります。よくわからない状態です。

伊賀見城下付近から東海自然歩道は草木が多く、伊賀見城下から300mほど進んだところに標識があり、東海自然歩道は南へ下りる道と尾根を進む道に分かれます。この手前が高嶺南城など思うのですが、藪状態でよくわかりません。

高峯蔵人、あるいは高峯(鷹峯)伊太朗の城と資料にはあります。名前の通り高峯氏が伊賀を警戒のための城であるようです。勢力関係で伊賀方の城になった頃もあったようです。

高峯南城も同様ですが、南城は堀井氏の城という史料もあるようです。

伊賀見城 遠景・・・北から

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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高嶺中城繋ぎ城  近江国(甲賀)

2014年07月12日 | 丘陵城

 

城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町高嶺  (旧甲賀郡甲賀町高嶺)  map:http://yahoo.jp/nVt0Cq

目標地:福明寺

区 分:丘城  

標 高:255m  比高差:30m 

現 状:山林

遺 構:土塁・堀切・郭・竪堀

築城期:室町期

築城者:高峯蔵人

駐車場:福明寺

訪城日:2014.7.12

お城の概要

基本構造は、中心に曲輪Ⅰと周辺に曲輪Ⅱ・Ⅲからなる。

曲輪Ⅰは、東西40m×南北50mの長方形に近く土塁が四方に構築され丘陵続きとなと南側は高さ3mを超える。主郭に接する北西・南西に派生尾根上に削平された曲輪Ⅱ・Ⅲを認める。曲輪Ⅲは規模も南北20m×東西40mを図る。曲輪Ⅰは、南側の堀切は大規模で、土橋状遺構も確認できる。両端には竪堀になって斜面をくだる。

虎口cの外に曲輪Ⅱあり現状急勾配で主郭の付属遺構と考える。

歴史

この高嶺の地区六城(高嶺北城・高嶺中城・高嶺東谷城・伊賀見城・高嶺山城・高嶺南城)の本城と考えられる城で、高嶺氏の城砦郡であり、高峯蔵人の城と言われます。

高峯氏は伊賀との国境を守るため、六城を構築したようですが、天正年間に滅びたとされるようです。

高嶺中城 遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

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