比定地
お城のデータ
所在地:東近江市北須田町 (神崎郡能登川町北須田) map:http://yahoo.jp/uFwIIg
現 状:竹林・宅地
遺 構:不明
区 分:居館
築城期:室町期
築城者:須田九郎為真
城 主:須田氏
目標地:超光寺、地蔵堂(関西東洋能登川工場の西)
駐車場:須田川の東側の空地・・・(地蔵堂の前)
訪城日:2014.7.19
お城の概要
北須田は、繖山観音寺城の北、山麓を朝鮮人街道が集落の中央を通り、須田川が琵琶湖に流れる。
比定地は「能登川の歴史」によれば、琵琶湖への水路の突き辺りにある「小字里ノ内」を中心とする位置と考えられる。
街道より50cmの微高地に地蔵院、また竹柵で囲われた一角がある。
比定地周辺・・・(須田川の東側) 居館跡カ?
須田川
歴 史
須田氏は、信濃源氏の未流。須田九郎為真が元祖。須田を支配。
「近江温故禄」に須田氏は伊庭の庶流の地頭であり、信濃源氏の流を汲み、その後佐野に住んだと記す。
佐々木南北諸士帳に、林田 住 佐々木随兵 須田下総守 同 須田七朗左衛門 同 須田籐五朗とある、御薗村の林田か、佐野荘林寺村、須田七朗左衛門等が見える、須田の誤記とも思われる。(神崎郡誌上巻三六六頁)
神崎郡誌に 須田七朗左衛門 永禄六年後藤但馬守親子を大乱を釀し、日野城に難を避けた佐々木義弼は、城主蒲生定秀の仲裁で漸く擾乱を鎮められ、荒廃された観音寺に復帰すろことが出来た。この騒動につき、京都紫野なる大徳寺より見舞を賜ったから、義弼は須田七朗左衛門に添翰をさせた
文献での、初出は応永三十五年(1428)の保内商人と小幡商人の争論資料に「北須田殿」がみえる(資料中世21)。
文明元年(1469)には、愛知郡押立城を目加田籐左衛門と須田越後守が守り、七月に京極持清の家臣多賀豊後守高忠に攻められ討死したいう。また、延徳二年九月に出された延暦寺明静防に納付する年貢の差し止めの宛にも蒲生郡船木の名主とともに須田七朗の名がみえる(資料中世90)。享禄四年(1531)4月の箕浦合戦の直後の境界争いでは天文二十五年今井定清が浅井久政に属し、米原の太尾山城を守っていた須田氏を拘束した記事が認められる(島記録)。
「近江興地志略」にも、越前守定俊とその子貞隆入道宗慶がみえ、永禄六年の観音寺騒動後の資料には、須田七朗左衛門の名が見える(大徳寺文書)
神崎郡誌に 須田七朗左衛門 永禄六年後藤但馬守親子を大乱を釀し、日野城に難を避けた佐々木義弼は、城主蒲生定秀の仲裁で漸く擾乱を鎮められ、荒廃された観音寺に復帰すろことが出来た。この騒動につき、京都紫野なる大徳寺より見舞を賜ったから、義弼は須田七朗左衛門に添翰をさせた。
古文書に、志賀與惣右衛門は「近江與地誌」の人物傳に。
志賀與惣右衛門、神崎郡林田(御薗村)の産士なり。秀吉公に仕へ武功あり、その名を顕はす。伊豆国韮山の戦に渡辺勘兵衛と共に無類の功あり。此人は後に蒲生氏郷に属したやうで、會津支配帳に、「六千五百石 志賀與三惣右衛」 と見えてある。
天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、北条氏の城兵は戸倉城を捨て、韮山城や中山城に撤退した。北条氏は天正18年(1590年)の小田原征伐では、ほぼ天下を統一していた豊臣秀吉の大幅な攻勢を受ける。韮山城(にらやまじょう)は伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山)にあった室町時代後期から戦国時代にかけての城。平山城。15世紀末に北条早雲の関東経略の拠点として整備され、後北条氏の関東支配後も伊豆支配の拠点としてその持ち城であったが、天正18年(1590)には豊臣秀吉による小田原征伐において激しい攻防戦を経験している。龍城の異称を持つ。
韮山城にも豊臣秀次の軍勢が迫ったために氏規は籠城して戦い、北条方は総勢約3千6百、豊臣方は総勢約4万4千と伝えられる大きな戦力差のなかで約百日間も持ちこたえたが、ついに開城した。
なお、南須田の超光寺に
南須田の超光寺に
安土城内にあった総見寺の表門が永禄七年(1887)も火災を免れ、明治期に移築され現存している。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、能登川の歴史、現地説明板
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