城郭探訪

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滝川支城  近江国(甲賀)

2014年07月21日 | 丘陵城

 北の土塁背後の大堀切は圧巻

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町櫟野字下ノ組 (甲賀郡甲賀町櫟野字下ノ組) map:http://yahoo.jp/_pyG7q

現 状::山林

遺 構:畑地・山林

区 分:丘城城

築城期:室町時代

築城者:滝川氏

目標地:大甲賀カントリークラブコース倶楽部ハウス(前道を南に500m右脇)

駐車場:路上駐車(倶楽部ハウス前道を南に500m右脇)

訪城日:2014.7.21

お城の概要

滝川西城は、甲賀町櫟野のうち、下組集落を北西から見下ろす丘陵先端部に所在する。滝川城・滝川西城とは櫟野川を挟んで対峙している。
櫟野川沿いからゴルフ場へ向かう道を見ると、城の目前で遺構に沿って道路がカーブしているので、すぐに目に付く。
現在は南半分は畑地、北側は植林地になっている。

縄張は単郭で隅部がない卵形、基本的には全周を土塁が廻っていたと思われるが、特に南から東にかけては後世の林道によって破壊された。

北側背後の土塁は高く広い。この上部はさらに土塁を伴う小曲輪となっており、見張台形式である。

土塁の外側は、北方の丘陵続きを堀切が断ち切り、落差約10mの大規模なもので圧巻である。堀切は土塁に沿って北から西へ延び横堀状になるが、南西からは道路によって消滅していて、その先は不明である。

 

歴 史 

大原荘の東部、櫟野一帯に蟠踞(ばんきょ)した滝川一族の本拠に関わる遺跡で、『近江與地志略』に「瀧川氏居城の跡なりといふ」と見える。東側の滝川城が滝川氏の本城と伝わる。市指定史跡。

一族から出て織田氏の重臣として活躍した滝川一益(かずます)のゆかりの城としても知られる。

織田信長の四天王と称され、特に伊勢平定や関東進出に絶大な貢献をした滝川一益を輩出した滝川氏の本城と伝えられ、市史跡に指定されている。

滝川城は檪野川南岸の丘陵に所在し、滝川一益が一時居城したとも、生誕地であるとも伝えられる。

1570年織田氏の六角氏追討戦で一益の同胞の甲賀武士は滝川城に籠城し、六角氏に味方した為、滝川一益が甲賀武士を攻める大将として選ばれ、親族同胞と戦い滝川城を落城させ甲賀武士団を壊滅させた。

滝川城は、戦国の世の習いを語り継ぐ悲話の城である。

滝川城主滝川氏の支城として築かれたと思われるが詳細は不明。

路上駐車位置滝川支城遠景

 道案内

R1「蟹が坂」南下~県道129号約5Km先左折南下~県道131号約2.3Km先分岐右折すぐ櫟野川を渡る~約350m先右折「大甲賀CC」方面~約120m先目前の丘陵上。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!

 


滝川西城 近江国(甲賀)

2014年07月21日 | 丘陵城

 滝川城と滝川西城は甲賀市櫟野(いちの)の下集落の南西、櫟野川を隔てて南の丘陵に東西に並ぶ。

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町櫟野字五反田 (甲賀郡甲賀町櫟野字五反田) map:http://yahoo.jp/iDkGNK

現 状::山林

遺 構:曲輪・土塁・堀切・溜池・案内板

区 分:丘城城

築城期:室町時代

築城者:滝川氏

目標地:

駐車場:城の北西、山王神社遺跡が空地

訪城日:2014.7.21

城の北西、山王神社遺跡が空地

城の北西、山王神社遺跡から直登し、土塁上を東進した。

お城の概要

滝川城主滝川氏が築いた支城だと考えられる。滝川城ととなり合って建つ城。

滝川城よりやや広く縄張も多少複雑になっているが基本はかわらない。

滝川西城は、甲賀町櫟野のうち、下組集落の南西丘陵先端に所在する。櫟野川寸前まで張り出した丘陵先端部は2つに派生していて、東側が滝川城、西側に滝川西城が並んで櫟野川沿岸平野部を見下ろしている。

内部は耕地化により大きく改変を受けていると思われ、本来の姿が判断しづらい。大きく分けると、4つの曲輪からなるが、基本を土塁囲みの単郭方形と考えた場合、主郭1の南東隅、南西隅の土塁は本来繋がっていたが消失したと考えられる。4はとなり合う滝川城との一体運用に備えた腰曲輪と考えられるものの、2・3は後世開墾された削平地とみるべきか。曲輪ⅤⅣの北端からは簡単に侵入できることから城道が改変を受けて広がってしまったもの、もしくはもう少しコンパクトな腰曲輪だったと考えられる。

主郭1には滝川城同様に大きな溜池があるが、耕作用に後世作られたもののようである。土塁西辺の開口部も破壊道とみられる。

歴 史 

大原荘の東部、櫟野一帯に蟠踞(ばんきょ)した滝川一族の本拠に関わる遺跡で、『近江與地志略』に「瀧川氏居城の跡なりといふ」と見える。東側の滝川城が滝川氏の本城と伝わる。市指定史跡。

一族から出て織田氏の重臣として活躍した滝川一益(かずます)のゆかりの城としても知られる。

織田信長の四天王と称され、特に伊勢平定や関東進出に絶大な貢献をした滝川一益を輩出した滝川氏の本城と伝えられている。

滝川城は檪野川南岸の丘陵に所在し、滝川一益が一時居城したとも、生誕地であるとも伝えられる。

1570年織田氏の六角氏追討戦で一益の同胞の甲賀武士は滝川城に籠城し、六角氏に味方した為、滝川一益が甲賀武士を攻める大将として選ばれ、親族同胞と戦い滝川城を落城させ甲賀武士団を壊滅させた。

滝川城は、戦国の世の習いを語り継ぐ悲話の城である。

車位置ここに下城した。

道案内

R1「蟹が坂」南下~県道129号約5Km先左折南下~県道131号約2.3Km先分岐右折すぐ櫟野川を渡る~約440m先左折し橋を渡る~約100m先左手南側の山中。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭

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西ノ口城 近江国(甲賀)

2014年07月21日 | 平城

 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町神字西  (甲賀郡甲賀町神字西)  map:http://yahoo.jp/MErQjJ

現 状:佛性寺・公園

築城期:

築城者:

初城主: -

区 分 :平城

遺 構 :土塁

目標地:佛性寺・大原薬品工業工場

駐車場:佛性寺・地区公民館公園

訪城日:2014.7.21

  

お城の概要

西ノ口城は、奥殿城から南方に約200m、大原川の形成する段丘が落ち込む寸前の位置、現在は小さなお堂だけの佛性寺と、遊具が設けられた広場になっている区画に比定される。

お堂背後の南東路地沿いには土塁1mの微高地が見られるが、近年道路拡幅で削平されている。

奥殿城とは非常に近い位置にあり、両者に何らかの関連があると考えられる。

寺の本堂裏手に僅かに土塁が残るお城。

歴 史

西ノ口城は、築城年代や築城者等詳細不明であるが

同集落に、殿屋敷城とも東西に貫通する主要道に隣接する。同様の複数城郭遺構の存在した可能性を残す。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭

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大原上田城  近江国(甲賀)

2014年07月21日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町大原上田字小山田・北垣内(甲賀郡甲賀町大原上田字小山田) map:http://yahoo.jp/e7xp2v

築城者:大原三之助

築城期:室町時代

遺 構:曲輪・土塁・堀切

目標地:大原幼稚園・保育園(大原にこにこ園)、近くに大原小学校

駐車場:大原にこにこ園

訪城日:2014.7.19

お城の概要

大原川の谷部と大橋川の谷部を分割する東西に延びた丘陵上に位置する。大宝寺遺跡と大原上田城は80mの鞍部を挟んで向かい合う。

大原上田城は、丘陵上に粗雑に削平した単郭の山城で自然の地形を基にしている。

西側切岸したに堀切が残る。東側の内部は1mの土塁、浅い堀切。外側はほぼ自然の鞍部で峠道(堀切の可能性も残る)

虎口は南側に想定でき、東側が大手城道。そこに土塁状の高まりを認め、城の規模に比して、虎口が明確。

北斜面の下には複数の貯水池がり、その週周辺の平坦地は存在するが、近年の造作と判断される。南側にも切岸を切り込んだ城道が有り、下は平坦地で今は竹林でその西虎口も土塁状の高まりを認め、下屋敷カ。

大原上田城は、土塁の配置や虎口等、東側を意識した城構えで、大宝寺遺跡の散在を前提に機能したと考えられる。

歴 史

詳細不明

大原氏の活躍

 近江伴氏からは甲賀郡大原から発祥した大原氏をはじめ、上野氏、多喜氏らが分かれ、「伴・大原・上野・多喜」の四氏はとくに伴四党と称された

  そして、大原氏からは篠山・勝井氏が分かれ、多喜氏からは山岡・馬杉氏が分かれ出た。豊臣秀吉に仕えて水口城主、さらに駿河府中十四万石の大名に出世した中村一氏は馬杉氏の一族という。他方、織田信長の四天王の一人に数えられた滝川一益も大原一族の一人であったと伝えられる。

 大原氏は伴四党の一家として甲賀郡油日村田堵野を本拠とし、南北朝時代には武家方として行動した。観応の擾乱が起こると、南朝に転じた足利直義に属し、正平五年(1350)、小佐治氏らとともに油日山麓の善応寺で挙兵した。南北朝の動乱を経て室町時代になると、甲賀衆は近江南半国守護佐々木六角氏の被官に組み込まれていった。

 応仁の乱以後の戦国時代になると大原氏は、大原中・大原市場・櫟野などを領有し、佐々木六角氏の重要な戦力として時代の荒波を生きたのである。六角高頼が将軍足利義尚の討伐を受けた長享の乱において、大原源三は高頼を支援して義尚が本陣を置く鈎を夜襲するなど大活躍をした。戦後、鈎において戦功が著しかった大原氏は甲賀二十一家の一に数えられ、和田・上野・高峰・多喜・池田氏と並ぶ南山六家の一として重きをなした。

 大原氏が最初に城を築いたのは、大字鳥居野の地であったという。しかし、のちに大原氏の氏神を城内に勧進し、新たに城を築いたのが篠山城だという。氏神はいまも鳥居野に鎮座する大鳥神社であり、その境内は大原城址ということになる。実際、大鳥神社の正面には壕跡を思わせる水路が流れ、境内の一角には土塁跡と見られる遺構が残されている。甲賀衆は「郡中惣」を組織し、それを同名中と呼ばれる同族組織が支えた。そして、大原同名中は、現代も年に一回、八月三日に大鳥神社に会されるという。そのときの参会者の装束は、昔ながらの羽織袴に帯刀という物々しさである。

大原三之助  伊賀同心

 組頭を失って動揺する同心たち。誤って彦六を殺してしまった三之助は、そのことを利用され仲間を一時、裏切って
しまう。上野の夜叉丸、 お桂に忍術を指導する。 三之助と相討ち、湖中に沈む。

伊賀同心のひとり、大原三之助は、遁兵衛の棟梁面が気に入らず不満をつのらせていた。そんな中、源九郎の誘いに乗った三之助は、誤って仲間の彦六を殺してしまった。次に源九郎は三之助の心の隙を利用し寝返らせ、伊賀の忍び籠に新太郎を閉じこめてしまう。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭

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大宝寺遺跡 近江国(甲賀)

2014年07月21日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町大原中字寺田(甲賀郡甲賀町大原中字寺田) map:http://yahoo.jp/IgZslZ

築城者:垂井甲斐守

築城期:室町時代

遺 構:曲輪・土塁・堀切

目標地:大原幼稚園・保育園(大原にこにこ園)、近くに大原小学校

駐車場:大原にこにこ園

訪城日:2014.7.19

遠景・・・左が大宝寺遺跡。右が大原上田城

ここまで城域か(消火栓を北にまっ直ぐ)

個人宅の東側から登城・・・まっすぐ進むと左に土塁!

お城の概要

大原川の谷部と大橋川の谷部を分割する東西に延びた丘陵上に位置する。

大宝寺遺跡と大原上田城は80mの鞍部を挟んで向かい合う。

大宝寺遺跡は東西40m、南北50mの長方形で土塁で囲み、北と東の尾根に対して堀切を設ける。

虎口は土塁が途切れる虎口は大原川の谷筋に方面に。西虎口は小規模な削平地。南虎口は食い違いに土塁を設け今も斜面を切込んだ城路残る。

土塁は整備され、周回できるが、曲郭内は未整備(竹林)で確認は難しい。東側土塁は最も高く、大原上田城への峠道で高低差を伴う。

歴 史

大宝寺遺跡は、『甲賀郡志』によると、明応年間(1492-1501)に垂井甲斐守が築いたとされる。

垂井氏は、甲賀五十三家に数えられた大原氏の庶流である。

甲斐守であるが、大原家村が垂井を称しているので、その一族であろうと思われる。

家村は盛景の孫にあたり、子に為家(源三)がいる。為家が長享年間にこの地を支配し、戦功著しく甲賀21家の一つに数えられている。
 為家の子は家親、その代に加津井を名乗り、勝井氏の祖である。

目標地・駐車場

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭

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