駒札(説明板)「甲賀市史 甲賀の城(概要図つき)より」初めて見た 山麓東側に滋賀県教育員会の「文化財を大切にしよう」の碑
お城のデータ
所在地:甲賀市甲賀町高野字茨谷 (甲賀郡甲賀町高野字茨谷) map:http://yahoo.jp/jP7o5M
築城期:室町時代
築城者:
初城主:大原源三
区 分 :丘陵城
遺 構 :曲輪・土塁
駐車場:路上駐車(駒札近くの農道)
訪城日:2014.7.16
曲郭Ⅰの虎口(武者隠しカ?)
お城の概要
甲賀町高野の宮西集落の北方丘陵先端部に位置し、集落より比高25mを図る。(城から北へ続く尾根との間には鞍部があり土橋状遺構、溜池跡、階段状の平削地があるが、後世の植林や水田の関係改変とみる)。
丘陵頂部には、北・西に土塁に囲まれた城の曲郭Ⅰ(主郭)あり、いちばん広い。北の土塁は内側4~5mで頂部削平され、拳大の河原石が多数散乱(投擲用)する。また、物見櫓台の予見出来る。曲郭Ⅰの内側が急斜で削平時に削り残したもの。曲郭Ⅰは城郭遺構。
東南に帯郭Ⅱ・Ⅲ・Ⅳが残存し、大きな池(溜)が確認できるが作事時、または植林・陵畑など後世の改変の可能性も残る。
なお、城から北側に続く丘陵上で第二名神の建設に伴う発掘調査(滋賀県教育委員会)を実施さてたが、城郭遺構や遺物は確認されていない。調査後、踏査でも標高230m付近で城郭らしき遺構は確認なし。(甲賀市史 甲賀の城)
歴 史
大原源三(文書によっては源三郎)は鈎の夜襲で功を上げ甲賀21家に数えられている。
勝井氏系図によれば、盛景の子家朝の筋で父は家村(垂井四郎)である。家村は大原中の甲斐屋敷(垂井城跡)の主であり油日神社の「油日神社再建奉加帳」に「垂井甲斐守」の名がみえる。
その家村の子に家貞、為家、惟家の兄弟があり、為家が大原源三のことである。源三は戦国期には大原中の他大原市場、高野等を領有した
登城口と駒札「甲賀市史 甲賀の城より」
農機具庫の東側を真直ぐ進む
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭
本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!
「近江の城郭」より
以下は、新聞報道された高野城の発掘調査に関わる記事です。
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戦国時代後期(16世紀後半)に甲賀武士が築いた城館とされる「高野城」(甲賀市甲賀町高野)が、これまで想定されていたより規模が大きく、複数の建物で構成されていたことを県教委が7日発表した。
高野城は、甲賀忍者の原型とされる甲賀武士の築いた城とされ、発掘調査などから、これまでは小規模な平らな面と土塁を持つだけの単純な構造の城館遺跡とみられていた。
しかし、第2名神の建設にともなう試掘調査で、幅5・5~20メートル、長さ9~21メートルの平坦(へいたん)面四つと、10カ所の堀状の凹地が確認された。この結果から、東西250メートル、南北230メートル以上にわたり関連の施設が広がっている可能性が出てきたという。
ただ、城館域全体では建物に統一した構造はみられず、必要に応じて個々の建物を建てていたとみられる。
高野城があった時期と重なる1570(元亀元)年前後には、織田信長が甲賀に侵攻しており、県教委は「甲賀武士団が知識や技術を精いっぱい利用して信長の攻めをしのごうとした、切迫した対応ぶりを示しているのでは」としている。
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高野城については、第2名神高速の工事に伴って発掘調査がなされ、滋賀県文化財保護協会主催で2005年9月10日に現地説明会が開かれました。滋賀県文化財保護協会が城郭遺構としているものは、自然地形を都合の良いように解釈したもので、滋賀県の城郭研究者。
開催日:2005年9月10日(土)
主催者:滋賀県文化財保護協会
【現地説明会に至るまでの経過】
第二名神高速道路の工事に伴い高野城の背後の山を調査した所、城郭遺構を発見し、昨年から発掘調査を実施してきた。発掘調査の結果、5つの平坦地と窪地、および竪堀状の遺構を検出した。
これらの城郭遺構は高野城に隣接していることから、高野城に関連して構築されたものであると考えられる。高野城は甲賀の高野地区を所領としてきた土豪である高野氏の城と考えられているが、高野城が改修・拡張された背景には、永禄11年(1568)に織田信長が近江に侵攻してきて以来、元亀争乱まで続く軍事的緊張の中で高野城が改修・拡張されたものであると考えられる。なお、全体的に城郭としての形をなしておらず、急造されたためであると考えられる。
西側斜面下からの全体地形、手前の人工的な箇所は溜池施設
今回新たに発見された高野城の遺構は第二名神高速道路の延長線上にあり、おおよそ半分ぐらいは消失するようです。 |
現地に向かって出発 50名ほど参加者は、いよいよ現地に。 登り詰めたところが、第2平坦地と第3平坦地の間になる。 |
第1平坦地 今回発見された遺構には、独立した5つの平坦地があり、これが曲輪として考えられている。 |
尾根上の堀状地形と第1,第2平坦部 この窪地(堀状地形)は、攻め手から身を隠すために掘られたのであろうか。 |
尾根上の堀状地形と第1,第2平坦部 第3平坦地から見た、第1平坦地と第2平坦地 |
第2平坦地方向から見た窪地(堀状地形) 第二平坦部と第三平坦部の間の尾根上にある窪地(堀状地形)。堀の延長線上に第三平坦部がある。 |
堀状地形 正面に旗の立っているところが第3平坦部、右手の小高いところが第4平坦部 |
第4平坦部と第5平坦部 |
第3平坦部から見た第4,第5平坦部 この辺りまで来ると、「ホンマに城郭遺構か?」という印象を受けた。 |
第5平坦部から見た第4平坦部 この第4平坦部が5つの平坦部の中で、最も曲輪らしい地形をしている。 |
第4平坦部から見た第5平坦部 各平坦地との間に堀切が欲しい場所である。第5平坦地下の道は後年付けられたもの。 |
第5平坦部の切岸 平坦部の切岸だけは他の斜面と勾配が違うところは手が入っていることを窺わせる。 |
第5平坦部の切岸 手前の段差になっている部分を、係の人は「犬走り」と称されていました。そういわれてみれば、見えなくもない。 |
滋賀県文化財保護課でも、いろいろと検討された末に出された結論が、城郭遺構で一般的に使われる「曲輪」を使わず、「平坦地」とい言葉を使われている。