城郭探訪

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北上野城A  近江国(甲賀)

2014年07月26日 | 丘陵城

北上野城A・・・土塁も無い小規模な城だが、南東部四条の竪堀があるお城。

 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町上野字西山前・犬コソ (甲賀郡甲賀町上野字西山前・犬コソ) map:http://yahoo.jp/p376qi

現 状::丘陵・林

遺 構:曲輪・堀切・竪堀

区 分:丘陵城

築城期:室町時代

築城者:中上氏

城 主:

目標地:上野ふれあい公園

駐車場:北上野城Aの登城口(麓の作業小屋横)

訪城日:2014.7.21

土塁も無い小規模な城だが、南東部四条の竪堀があるお城。

 

お城の概要

鹿深台の住宅地へ登る壇丘の市道を挟んで西側に北上野城A、

 東側にある地区の墓地の東側、二股に分かれた尾根先端部を利用して西側が富田山城、東側が観音堂城が築かれている。

北上野城Aへは、麓から比高差約20m程なので、麓の作業小屋横から直登した(竪堀を城道と思い)。 

山頂部に二つの曲輪が並んだ縄張りとなっている。 矢竹と雑木に阻まれ、遺構の曲郭は確認は難儀したが存在する。

南側斜面の東端に四条の竪堀を確認することができた。

歴 史

北上野城A(詰め城)、北上野城B(下屋敷)か・・・・詳細なことは定かでない。

冨田山城・観音堂城も尾根続きで、北上野城Bの南東300mに龍泉寺城、南東400mに木内城がある。

周辺には上野同名中を構成する土豪層の城館が点在する。

 

本来は上野同名中を構成する土豪層の城館として機能していたことが知られる。

 

駐車1台可(路上にも1台可)

目標地の上野ふれあい公園

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

          本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!


冨田山城 近江国(甲賀)

2014年07月26日 | 丘陵城

冨田山城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町上野字東谷(甲賀郡甲賀市甲賀町上野字東谷) map:http://yahoo.jp/Q29CSC

現 状::丘陵・森林

遺 構:曲輪、土塁、虎口

区 分:丘陵城

築城期:室町時代

築城者:上野氏

城 主:

目標地:上野ふれあい公園

駐車場:上野ふれあい公園、麓の農道空き地

訪城日:2014.7.21

登城

冨田山城跡へ

観音堂碑

お城の概要

大原地区の墓地の東側、二股に分かれた尾根先端部を利用して西側が富田山城・東側が観音堂城が築かれている。

 冨田山城、丘陵山頂部から西に流れる支尾根の頂部からL字形に切込土塁を設け、丘陵先端部の頂部から東に切込土塁を設けて囲んだ主郭、南に開かれた虎口南側に虎口受けの小曲輪が附属した縄張りとなっている。切込土塁に囲まれてはいるが、居館的な要素が強いお城。 

東の丘陵先端部の観音堂城に比べて、単純な縄張りの城であった。

 

出丸の下、池!

歴 史

冨田山城は、築城年代は定かでないが上野氏によって築かれた。 上野氏は、大原・篠山氏とも一族で大伴氏を祖とし、大原新庄上野郷一帯を支配していた。

北上野城A・冨田山城・観音堂城も尾根続きで、北上野城Bの南東300mに龍泉寺城、南東400mに木内城がある。

周辺には上野同名中を構成する土豪層の城館が点在する。

本来は上野同名中を構成する土豪層の城館として機能していたことが知られる。

冨田山城虎口

遠望

目標地の上野ふれあい公園

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

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大原氏について

 寛永諸家譜大伴姓山岡の欄には、「・・・其後胤大原八郎貞景、外戚にしたかひ江州甲賀郡大原の庄に移住す。・・・」と記され、また、寛政重修諸家譜によると次のように書かれている。

家伝に、先祖大原備後守盛景近江国甲賀郡に住す。その子孫竹林を称し、景時にいたりて大原に復すといふ。今旧家伴氏山岡の譜を按ずるに大伴連は道臣命4世の孫、狭手彦の後なり。大伴宿禰国道の時、淳和天皇の御諱をはばかり改めて伴の朝臣となる。三河大介資兼より4代安芸権守資乗が3男八郎貞景、近江国甲賀郡大原に住して大原を称すといひ、貞景が弟を大原三郎盛景とす。これ家伝にいふ備後守と同人たるべし。」

また、貞景の経歴について、鎌倉幕府中央との関係がよく分かる記述がある。(山岡系図)

 「貞景 或資景 初資業 或資奈 伴太郎 八郎 五郎大夫 左衛門尉三河国を退去し、近江国甲賀郡大原邑に住し伴太郎資業を改めて大原八郎貞景と称す。よりて俗其邑を呼で伴里といふ。建仁3年6月佐々木左衛門尉定綱等鎌倉よりの命を受け、阿野法橋全成が男播磨公頼全を穿ちもとむ。貞景是時定綱に属し、頼全東山の延年寺に住するのよしをきき、彼地にはせむかひこれを誅す。」

少し解説すると、定綱は、源平合戦の立役者秀義の長男。近江佐々木庄が本領であるが、平治の乱後、父秀義に連れられ相模渋谷庄に寄留し、治承4年の頼朝挙兵に兄弟そろって応じ、鎌倉幕府の重鎮となり、近江守護に任ぜられた人物である。また、阿野全成は、源義朝の子、義経の兄で、母は常盤御前。頼朝が石橋山で挙兵した時参戦している。にもかかわらず建仁3年(1203)5月に謀反の疑いをかけられて召し捕られ、6月23日に殺された。

 頼家が殺させたとなっているが、北条氏の謀略と考えられている。上の資料にみえる全成の子頼全が京都で殺されたのは、同年7月16日であり、上の資料の6月と異なるが、貞景が佐々木定綱の命に服して頼全を殺したのは真実であろう。北条氏→佐々木氏→大原氏の主従関係が読み取れる。

  その後の大原氏の活躍を系図から見ると、貞景の子実景、実頼は承久3年の乱に官軍に属して尾張墨俣で討ち死にしている。しかし、貞景の兄の資秀は幕府側で先陣を進み宇治川で右目を射たれて負傷し、勲功を賜っている。(この時佐々木氏も2派に分かれて戦っている。実景らは定綱の長子広綱の軍に加わって敗戦の憂き目を見たのであろう。4男の佐々木信綱側は幕府側で戦功をあげ、佐々木氏を継いでいる。

  また、貞景の弟盛景の子景高は、将軍義詮に仕え、延文5年(1360)仁木左京大夫義長が将軍に叛いたとき、一族160騎が葛城山に陣して奮戦。この時将軍義詮から「感武功」で、太刀一振を賜っている。この「葛城山」について、当初奈良の葛城だとばかり思っていたが、さにあらず、甲賀市甲南の葛木(かづらぎ)の丘であった。一族160騎は誇張があるにせよ勢力の規模はかなり大きかったと推測される。(太平記)

 貞景が大原に来たのは恐らく父資乗と一緒ではなかったかと思われる。どんな縁で来たのか、そしてどんな地位に着いたのか一切不明である。人を殺しすべての財産を失った漂泊の身であった資乗が大きな勢力を持ちえた理由は何か。「外戚にしたかひ」が気になるが、ここでも勝手な推測をすると、貞景や盛景は大原土着の土豪ではなかったのか。それが系図上資乗の子に擬せられて、大伴氏の血筋をひくものとしての権威を獲得したのではないか。だから、この二人が本当の大原氏の始祖である。

 

 

 


観音堂城(勘四郎山城) 近江国(甲賀)

2014年07月26日 | 戦国山城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町上野字東谷(甲賀郡甲賀市甲賀町上野字東谷) map:http://yahoo.jp/NzgUOU

別 名:勘四郎山城

現 状::丘陵・森林

遺 構:曲輪・堀切・竪堀

区 分:丘陵城

築城期:室町時代

築城者:上野氏

城 主:

目標地:上野ふれあい公園

駐車場:上野ふれあい公園、麓の農道空き地

訪城日:2014.7.21

「勘四郎山城跡」石碑・・・観音堂城の別名

お城の概要

北上野地区の墓地の東側、二股に分かれた尾根先端部を利用して西側が富田山城、東側が観音堂城が築かれている。

 観音堂城は、堀切で丘陵山頂部からの防御線を固め、丘陵先端部をコの字形に切り込んだ土塁で囲み、南は切岸で防禦している。 南側の虎口を経て東側から北東にかけて帯曲輪が設けられた実戦的な縄張りを持つ城と云える。

化石か?

歴 史

観音堂城は、別名「勘四郎山城」とも呼ばれ、築城年代は定かでないが上野氏によって築かれた。 上野氏は、大原・篠山氏とも一族で大伴氏を祖とし、大原新庄上野郷一帯を支配していた。

北上野城A・冨田山城・観音堂城も尾根続きで、北上野城Bの南東300mに龍泉寺城、南東400mに木内城がある。

周辺には上野同名中を構成する土豪層の城館が点在する。

本来は上野同名中を構成する土豪層の城館として機能していたことが知られる。

遠望

目標地の上野ふれあい公園

 

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

 

          本日も訪問、ありがとうございました。

 


北上野城 近江国(甲賀)

2014年07月26日 | 丘陵城

 「北上野城跡」石碑・・・冨田山城(観音堂城)への入城中に

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町上野 (旧・甲賀郡甲賀町上野) map:http://yahoo.jp/63__Px

現 状::丘陵・林

遺 構:曲輪・堀切・竪堀・石碑

区 分:丘陵城

築城期:室町時代

築城者:上野氏

目標地:上野ふれあい公園

駐車場:上野ふれあい公園

訪城日:2014.7.21

お城の概要

 

北上野城は、尾根続きの冨田山城は、築城年代は定かでないが上野氏によって築かれた。 

 

上野氏は、大原・篠山氏とも一族で大伴氏を祖とし、大原新庄上野郷一帯を支配していた。

 

歴 史

北上野城A・Bの南東300mに龍泉寺城、南東400mに木内城、がある。

周辺には上野同名中を構成する土豪層の城館が点在する。

本来は上野同名中を構成する土豪層の詰城として機能していたカ?。

遠望

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

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須田館 近江国(能登川)

2014年07月25日 | 居館

比定地

お城のデータ

所在地:東近江市北須田町 (神崎郡能登川町北須田)     map:http://yahoo.jp/uFwIIg

現 状:竹林・宅地

遺 構:不明

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:須田九郎為真

城 主:須田氏

目標地:超光寺、地蔵堂(関西東洋能登川工場の西)

駐車場:須田川の東側の空地・・・(地蔵堂の前)

訪城日:2014.7.19

お城の概要

北須田は、繖山観音寺城の北、山麓を朝鮮人街道が集落の中央を通り、須田川が琵琶湖に流れる。

比定地は「能登川の歴史」によれば、琵琶湖への水路の突き辺りにある「小字里ノ内」を中心とする位置と考えられる。

街道より50cmの微高地に地蔵院、また竹柵で囲われた一角がある。

比定地周辺・・・(須田川の東側)   居館跡カ?

 

須田川

歴 史

須田氏は、信濃源氏の未流。須田九郎為真が元祖。須田を支配。

「近江温故禄」に須田氏は伊庭の庶流の地頭であり、信濃源氏の流を汲み、その後佐野に住んだと記す。

佐々木南北諸士帳に、林田 住 佐々木随兵 須田下総守 同 須田七朗左衛門 同 須田籐五朗とある、御薗村の林田か、佐野荘林寺村、須田七朗左衛門等が見える、須田の誤記とも思われる。(神崎郡誌上巻三六六頁)

 神崎郡誌に  須田七朗左衛門 永禄六年後藤但馬守親子を大乱を釀し、日野城に難を避けた佐々木義弼は、城主蒲生定秀の仲裁で漸く擾乱を鎮められ、荒廃された観音寺に復帰すろことが出来た。この騒動につき、京都紫野なる大徳寺より見舞を賜ったから、義弼は須田七朗左衛門に添翰をさせた

 文献での、初出は応永三十五年(1428)の保内商人と小幡商人の争論資料に「北須田殿」がみえる(資料中世21)。

文明元年(1469)には、愛知郡押立城を目加田籐左衛門と須田越後守が守り、七月に京極持清の家臣多賀豊後守高忠に攻められ討死したいう。また、延徳二年九月に出された延暦寺明静防に納付する年貢の差し止めの宛にも蒲生郡船木の名主とともに須田七朗の名がみえる(資料中世90)。享禄四年(1531)4月の箕浦合戦の直後の境界争いでは天文二十五年今井定清が浅井久政に属し、米原の太尾山城を守っていた須田氏を拘束した記事が認められる(島記録)。

「近江興地志略」にも、越前守定俊とその子貞隆入道宗慶がみえ、永禄六年の観音寺騒動後の資料には、須田七朗左衛門の名が見える(大徳寺文書)

 神崎郡誌に  須田七朗左衛門 永禄六年後藤但馬守親子を大乱を釀し、日野城に難を避けた佐々木義弼は、城主蒲生定秀の仲裁で漸く擾乱を鎮められ、荒廃された観音寺に復帰すろことが出来た。この騒動につき、京都紫野なる大徳寺より見舞を賜ったから、義弼は須田七朗左衛門に添翰をさせた。

古文書に、志賀與惣右衛門は「近江與地誌」の人物傳に。

志賀與惣右衛門、神崎郡林田(御薗村)の産士なり。秀吉公に仕へ武功あり、その名を顕はす。伊豆国韮山の戦に渡辺勘兵衛と共に無類の功あり。此人は後に蒲生氏郷に属したやうで、會津支配帳に、「六千五百石 志賀與三惣右衛」 と見えてある。

天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、北条氏の城兵は戸倉城を捨て、韮山城や中山城に撤退した。北条氏は天正18年(1590年)の小田原征伐では、ほぼ天下を統一していた豊臣秀吉の大幅な攻勢を受ける。韮山城(にらやまじょう)は伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山)にあった室町時代後期から戦国時代にかけての城。平山城。15世紀末に北条早雲の関東経略の拠点として整備され、後北条氏の関東支配後も伊豆支配の拠点としてその持ち城であったが、天正18年(1590)には豊臣秀吉による小田原征伐において激しい攻防戦を経験している。龍城の異称を持つ。

韮山城にも豊臣秀次の軍勢が迫ったために氏規は籠城して戦い、北条方は総勢約3千6百、豊臣方は総勢約4万4千と伝えられる大きな戦力差のなかで約百日間も持ちこたえたが、ついに開城した。

 

なお、南須田の超光寺に

南須田の超光寺

安土城内にあった総見寺の表門が永禄七年(1887)も火災を免れ、明治期に移築され現存している。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、能登川の歴史、現地説明板

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平津城 近江国(大津)

2014年07月24日 | 平城

 

お城のデータ

所在地:大津市平津2丁目5-1(滋賀大学教育学部) map:http://yahoo.jp/K3MLGH http://yahoo.jp/sZJQBF

現 状::大学敷地周辺

遺 構:不明

区 分:平城

築城期:

築城者:

城 主:井上越前守(重尚)の屋敷

目標地:滋賀大学教育学部

駐車場:滋賀大学教育学部

訪城日:2014.7.24

 

 

地図大津のかんきょう宝箱より現在、屋敷跡の南方に古池と呼ばれる池があるが、これが蓮池にあたるのである。

お城の概要

『近江輿地志略』には地元の古老の話がのせられているが、それによると井上越前守(重尚)の屋敷跡は「燕子花の池」というところにあって、昔はその池を蓮池といったとある。 
  現在、屋敷跡の南方に古池と呼ばれる池があるが、これが蓮池にあたるのである。

滋賀大学教育学部(平津2丁目5-1)正門を入った右手の丘の付近、現在の平津ヶ丘寮の地に立つと、寮を含む滋賀大学全体が、いかにも城山と呼ばれるような台地の上に位置することがわかる。東方(瀬田川の方向)は、いまは雑木で見通しが悪いが、北側には石山城跡とされる関西日本電気の石山寮や、瀬田川の両岸が一望できる。瀬田川を上下する兵船の監視などには、格好の地であったにちがいない。

歴 史

明治十四年(1881)の『平津村誌』には、井上越前守重尚の砦跡として記されています。重尚は石山寺奉行を努めていましたが織田信長に追われ京都へ出奔しました。城は約300坪高さ1.8mの土塁に囲まれていました。

享保十九年(1734)成立の『近江輿地志略』には、井上越前守の屋敷跡とあり、明治十四年(1881)の『平津村誌』には、井上越前守重尚の砦跡として記されている。
井上氏の砦跡は、滋賀大学教育学部(平津二丁目)の正門を入り、坂道をのぼった右手あたりで、現在は同大学平津ヶ丘寮がたっているところという。その地形はおよそ三反(約三千平方メートル)の広さの長方形の平地が、高さ約1.8メートルの土塁でかこまれ、東と西の二ヶ所に、出入り口らしき切れ込みがあつた。 
土塁の外周には堀がめぐり、部分的には常時水のたまっているところもあって、堀の外側は坂となって下方に続いていたという。【平津城跡】HPより拝借(参考文献大津市史編纂室発行 『大津の城』取材 足立隆夫)

駐車場を拝借http://yahoo.jp/iwyxgQ

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、『大津の城』、」大津のかんきょう宝箱

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馬場(ばんば)城  近江国(大津)

2014年07月24日 | 平城

お城のデータ

所在地:大津市馬場一丁目(大津板紙敷地内) map:http://yahoo.jp/J-mHBc

現 状::工場・高校

遺 構:不明

区 分:平城

築城期:

築城者:

目標地:大津板紙・馬場中町自治館・

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.7.24

地図大津のかんきょう宝箱より

お城の概要

馬場・西庄の境で「鍵屋が薮」というところにあったと言われています。

今の製紙工場の場所(馬場1丁目15-15)は昔は竹薮で地元では「カギヤヤブ」と呼んでいました。

旧東海道の道筋には、江戸時代、膳所城下町の北の入り口であったことを示す「北総門跡碑」が建てられています。城主は不明です。

膳所の城下町の北の入口。(枡形街道で、防衛の役目膳所城の北の大津口は家老常駐していた(所藩家老村松家の屋敷門)

『志略』で馬場城址とされる工場付近は、現在では市街地化されていて城の名残をみつけるのは困難です。

ただし、工場前で東海道が「鍵屋」の名の通り鍵手に折れており、比定地はその内側にあたります。また、古絵図をみると、東海道が湖岸を。馬場城は湖とで街道を挟み込む場所にあったと推測。また、馬場城遺跡とされる丘上には、現在マンションが建っている。付近は湖岸に向かって突き出た舌状の丘で、こちらは物見櫓・城砦・詰城の地形。下屋敷は鍵屋が藪が居館であったカ。

馬場中町自治館

歴 史

『近江輿地志略』の馬場村の項に、「古城址 馬場西庄の界、今鍵屋が藪といふ処是也。何人の居住の跡という事をしらず」とある。大正のころまで、現在の大津板紙の工場となっているあたりを「カギヤヤブ」と呼び、周囲に対して微高地の竹藪だったといわれる。

他方、公に馬場城遺跡とされる地点は膳所駅前の丘の上にあるが、城館の遺構がみられるのかどうかは不明である。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、 日本城郭大系 11 、大津のかんきょう宝箱

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松本城(民部古城)  近江国(大津)

2014年07月24日 | 丘陵城

 

お城のデータ

別 名:民部古城

所在地:大津市松本一丁目・石場・本宮一丁目  maphttp://yahoo.jp/67RX-V

現 状:宅地

遺 構:なし

区 分:丘陵城

築城期:室町時代

築城者:松本民部少輔重範

目標地:滋賀県農業教育情報センター、大津土木事務所

駐車場:滋賀県農業教育情報センター

訪城日:2014.7.24

「大津のかんきょう宝箱」より

お城の概要 

松本民部少輔重範という武将の城(砦)と伝えられています。

位置は、本宮二丁目の浅井山(松本山)北方との伝えが地元に残されています。

字城ノ内と呼ばれた平野神社門前の谷戸。

平野神社の東麓門前に、古くは字城ノ内と呼ばれる畑地があったとされています。周辺は、南からのびる舌状の丘に挟まれた谷戸となっていて、領主の館に適した地形となっています。また、神社の南東、市民病院の北、現在国道やJRの線路となっているあたりの丘の上を字古城といったそうです。

おそらく、谷戸の居館と山上の砦から成る城館だったものと推測されます。『中世城館調査報告書集成』では、平野神社の鎮座する丘も城域と捉え、周辺に「腰郭の面影」がみられるとしています。丘の頂上はじめ全体が宅地化・社地化されていて、藪のなかに削平地様のものが見られはするのですが、遺構かどうかは判然としません。ただ、ここに防御施設が何もなかったとも考えにくいと思われます。

歴 史

松本民部少輔の城と伝わる。民部少輔について、『近江輿地志略』には「三井寺の僧と戦ひて死す」とする土地の伝承を載せている。

一方、『武芸少伝』『射家系譜』では、民部を佐々木氏の一族で吉田上野介道宝の季子としたうえで、越前にて戦死すとしている。

『志略』では前者の伝承を「誤り伝うべし」として疑問視しているが、民部少輔について詳細は今のところ不明である。

『多聞院日記』天正10年6月3日条には、「日向守(明智)ハ先ツ坂本ヘ入、大津・松本・セタニ陣取云々」・・・大津陣所・松本城・瀬田陣所

 

松本城跡

松本民部少輔重範の居城。別名を『民部古城』とも呼ぶ。

松本重範は六角氏家臣・吉田通宝の子と伝わり、三井寺との争いで戦死したとされる。

南から琵琶湖岸に向かって続く丘に挟まれた谷戸に建つ丘城で、中山道を見下ろす場所に位置する。

城域は平野神社の東麓(旧地名:字城ノ内)から滋賀県合同庁舎付近まで広がり、国道一号線沿いの浅井山の丘(旧地名:字古城)も城域の一部とされる。

 大津松本城にいた松本民部少輔は近江源氏吉田上野介通宝の子、松本城以前の吉田の祖先は竜王町川守に住み上野太郎左衛門重賢、その子出雲守重政は日置流の弓術に長じ佐々木の家来であったが、佐々木義賢はかえって重政を師として、伝授を受けた。

  その後吉田重称源八郎は吉田出雲守重綱の娘婿となり射術を吉田左近右衛門業成に学び一水軒印西と号し印西流を開いた。門人多く射術を以って関白秀次から家康、秀忠、家光に仕えその子久馬助重信、三右衛門重好と相次いで名をあげた。
 
『近江今昔』(昭和39331日発行 ¥280円) 著者 中神天弓
 

西光寺裏門

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、『近江今昔』

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頓宮舘跡   近江国(土山)

2014年07月24日 | 平城

頓宮舘跡

お城のデータ

所在地:甲賀市土山町頓宮字城ノ前 (甲賀郡土山町頓宮字城ノ前) 

 map:http://yahoo.jp/7ZA3c5

築城期:南北朝期

築城者:頓宮氏

初城主:頓宮正盛

区 分:平城  

標 高:231m 比高差0m

現 状:圃場

遺 構:圃場整備で喪失、道路沿いに「城ノ前」の表示版 

目標地:国道1号線・頓宮交差点、東光禅寺

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.7.16、2014.4.6

甲賀市誌7巻「甲賀の城」より 

お城の概要 

さらに南に200mほど行った田んぼの中に「頓宮舘」に比定される小高地が存在していた。
甲賀郡志よると頓宮池ノ谷城の南方二町の「城ノ前」に東西8間・南北十八間の「あげとの」と呼ばるれ60cmの微高地が存在し、周囲の水路を堀池と呼ばれていた。一部に石垣が露呈していたそうな。今は全面圃場整備で遺構喪失したが、地籍図から半町(50m)から1町(100m)四方の方形居館が復元できる。

 今は全面圃場整備後、遺構は喪失した。道路沿いに「城ノ前」

歴 史

頓宮は、鎌倉期には頓宮牧荘の中心部にあり、郷村制の成立と共に所を得て、土山地方における有力土豪として成長した頓宮氏の城(砦)である。

 現在、その遺構の多くは失われている。

頓宮城は、築城年代は定かでないが頓宮正盛によって築かれた。 頓宮氏は、頓宮牧荘を中心として勢力を誇った豪族である。

 頓宮氏は、甲賀武士甲賀五十三家の一つに属しており、同じく甲賀武士として中世長享の役等で活躍した土山氏、黒川氏、大河原氏は、頓宮氏の一族である。
 長享年間(1487年~1489年)頓宮治三郎正盛の子、頓宮四方之介利盛により音羽野城へ移住している。これにより廃城となった。

遠景

国道1号線・頓宮

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

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櫟野大原城  近江国(甲賀)

2014年07月23日 | 丘陵城


 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町櫟野上ノ平 (甲賀郡甲賀町櫟野上ノ平) map:http://yahoo.jp/E3ZF5b

現 状::山林

遺 構:曲輪・土塁・堀切

区 分:丘陵城(独立丘陵山上)

標 高:268m  比高差:24m

築城期:室町時代

築城者:大原伴三郎

目標地:大原公民館(駐車可)、 阿弥陀寺(滋賀県甲賀市甲賀町櫟野

駐車場:城山北側道路の余白

訪城日:2014.7.21

 

西から西側・・・登城したが曲郭4?へ

お城のデータ

櫟野大原城は、甲賀町櫟野のうち下田集落の西側で接し、現在の県道131号と櫟野川が交差する北側の独立丘陵上に位置する。

縄張は、東西に細長い丘陵の稜線上に、直線的に連立した4つの曲輪が配置されている。(図中の曲郭4は連続性がなく、形状も他に比べ特異なため城郭遺構ではないと見たい。)

連続した曲郭1~3を見てみると、曲郭1がこの独立丘の頂部で、4に向かって徐々に標高が低くなっている。

本来ピークに主郭を築くのが一般的であるが、土塁で囲われた曲郭2が主郭だと思われる。曲郭2は約20m四方の全体を土塁が廻り、土塁外の東西稜線部を堀切で断っている。土塁上部と曲輪1床部の高さはさほど変わらないので、2の内部は5mほど掘り窪めた格好となり、南辺の虎口から外へ出ると丘上に居るはずが、いつの間にか中腹部まで降りた錯覚に陥る。

曲輪3は北側に削り残し土塁を持つが、他の三方はあまりに防御が甘い。主郭2の虎口から城道が曲輪3を経ていることから、3全体が枡形虎口のような防御施設だとも考えられる。

また曲輪1も主郭を補うための曲輪と考えると、一見連立した縄張は実は甲賀に多い単郭方形プランを丘陵上に築くと、な縄張になったとも考えられ実に興味深い。

歴 史

詳細不明

南から主郭

歴史の町http://www.geocities.jp/kafukabj/rekisi.htm

壬申の乱、源平合戦、風呂屋谷、保元物語、戦国武将>滝川一益・中村一氏・和田惟政

 櫟野寺(らくやじ)は、滋賀県甲賀市甲賀町櫟野にある天台宗の寺院。山号は福生山。院号は自性院。本尊は十一面観音で、櫟野観音(いちいのかんのん)とも称される。甲賀六大寺のひとつで、近江西国三十三箇所観音霊場第29番札所。

この寺は、792年(延暦11年)この地を訪れた最澄が十一面観音を安置したのに始まると伝えられ、806年(大同元年)坂上田村麻呂が堂宇を建立したという。たびたび堂宇を焼失しているが、そのつど再建されている。旧本堂は1968年に焼失したが、仏像等は収蔵庫に保管されていたため無事であった。

道案内

R1「蟹が坂」南下~県道129号約5Km先左折南下~県道131号約1.5Km先斜め右折西進~約100m先左手南側の山中

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭

           本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!

 


 


頓宮池ノ谷城  近江国(土山)

2014年07月23日 | 丘陵城

頓宮池ノ谷城

  甲賀市誌7巻「甲賀の城」より 

お城のデータ

所在地:甲賀市土山町頓宮字池ノ谷 (甲賀郡土山町頓宮字池ノ谷)  map:http://yahoo.jp/LsijXR

築城期:南北朝期

築城者:頓宮氏

初城主:頓宮正盛

区 分:丘陵城  

標 高:231m  比高差30m

遺 構:曲輪・土塁

目標地:国道1号線・頓宮交差点、東光禅寺

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.7.16、2014.4.6

お城の概要 

 甲賀市史」によると、頓宮城から西へ200mほど行った舌状台地の先端に「頓宮池ノ谷城」が地籍図上から確認される。

頓宮池ノ谷城は、頓宮城から県道41号線を西に200m程行った北東西に伸びる殿立山と呼ばれる丘陵先端部に築かれている。 城の遺構は何も残っていない。

 頓宮城は、築城年代は定かでないが頓宮正盛によって築かれた。 頓宮氏は、頓宮牧荘を中心として勢力を誇った豪族で、甲賀五十三家の一つに数えられている。

地籍図から、「比定地は背後丘陵」を踏査した。

頂部の上も茶畑に開墾されいた。

山麓の農道の駐車可能空地

南に200mほど行った田んぼの中に「頓宮舘」に比定される小高地が存在していた。
甲賀郡志よると頓宮池ノ谷城の南方二町の「城ノ前」に東西8間・南北十八間の
「あげとの」と呼ばるれ60cmの微高地が存在し、周囲の水路を堀池と呼ばれていた。一部に石垣が露呈していたそうな。今は全面圃場整備で遺構喪失したが、地籍図から半町(50m)から1町(100m)四方の方形居館が復元できる。

道路沿いに「城ノ前」

歴 史

頓宮は、鎌倉期には頓宮牧荘の中心部にあり、郷村制の成立と共に所を得て、土山地方における有力土豪として成長した頓宮氏の城(砦)である。

 現在、その遺構の多くは失われている。

頓宮城は、築城年代は定かでないが頓宮正盛によって築かれた。 頓宮氏は、頓宮牧荘を中心として勢力を誇った豪族である。

 頓宮氏は、甲賀武士甲賀五十三家の一つに属しており、同じく甲賀武士として中世長享の役等で活躍した土山氏、黒川氏、大河原氏は、頓宮氏の一族である。
 長享年間(1487年~1489年)頓宮治三郎正盛の子、頓宮四方之介利盛により音羽野城へ移住している。これにより廃城となった。

 

遠景

国道1号線・頓宮

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、甲賀市誌7巻甲賀の城

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高野東城 近江国(甲賀)

2014年07月23日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町高野字山出 (甲賀郡甲賀町高野字山出)  map:http://yahoo.jp/Ftob7t

築城期:室町時代

築城者:

初城主:大原源三

区 分:丘陵城  

標 高:231m  比高差30m

遺 構:曲輪・土塁

目標地:県道4号線沿いの福生寺(背後の丘陵に高野東城)

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.7.16

 

お城の概要

甲賀町高野の寺井集落の北方丘陵先端部に位置し、集落より比高30mを測る。北東の尾根続きには堀切などの遺構は見られない。

中心の曲郭は、南側を除く土塁に囲まれた城の曲郭1あり、いちばん広く東の土塁の高さ4m、北側3m、西側2mである。北東隅に階段と四阿(あずまや)が壊れているが、設けられ開口している。その上に祠を祀る。歓談上から平坦地が東方へ120m続くが堀切はなく自然の地形と見る。

尾根の南側下に平坦地曲郭3は20mの方形、曲郭1と曲郭3の間に帯曲郭状4の平坦地で結ぶ。主郭の西側に曲郭2(20m×30m)、さらに下に平坦地を見る。

西山麓には下池(50m×80m)が水堀。城の四方に大小の溜池が残るが後世の灌漑用溜池か。

歴 史

大原源三(文書によっては源三郎)は鈎の夜襲で功を上げ甲賀21家に数えられている。

 勝井氏系図によれば、盛景の子家朝の筋で父は家村(垂井四郎)である。家村は大原中の甲斐屋敷(垂井城跡)の主であり油日神社の「油日神社再建奉加帳」に「垂井甲斐守」の名がみえる。

 その家村の子に家貞、為家、惟家の兄弟があり、為家が大原源三のことである。源三は戦国期には大原中の他大原市場、高野等を領有した

登城口 遠景

目標地:県道4号線沿いの福生寺(背後の丘陵に高野東城)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭

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滝川支城  近江国(甲賀)

2014年07月21日 | 丘陵城

 北の土塁背後の大堀切は圧巻

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町櫟野字下ノ組 (甲賀郡甲賀町櫟野字下ノ組) map:http://yahoo.jp/_pyG7q

現 状::山林

遺 構:畑地・山林

区 分:丘城城

築城期:室町時代

築城者:滝川氏

目標地:大甲賀カントリークラブコース倶楽部ハウス(前道を南に500m右脇)

駐車場:路上駐車(倶楽部ハウス前道を南に500m右脇)

訪城日:2014.7.21

お城の概要

滝川西城は、甲賀町櫟野のうち、下組集落を北西から見下ろす丘陵先端部に所在する。滝川城・滝川西城とは櫟野川を挟んで対峙している。
櫟野川沿いからゴルフ場へ向かう道を見ると、城の目前で遺構に沿って道路がカーブしているので、すぐに目に付く。
現在は南半分は畑地、北側は植林地になっている。

縄張は単郭で隅部がない卵形、基本的には全周を土塁が廻っていたと思われるが、特に南から東にかけては後世の林道によって破壊された。

北側背後の土塁は高く広い。この上部はさらに土塁を伴う小曲輪となっており、見張台形式である。

土塁の外側は、北方の丘陵続きを堀切が断ち切り、落差約10mの大規模なもので圧巻である。堀切は土塁に沿って北から西へ延び横堀状になるが、南西からは道路によって消滅していて、その先は不明である。

 

歴 史 

大原荘の東部、櫟野一帯に蟠踞(ばんきょ)した滝川一族の本拠に関わる遺跡で、『近江與地志略』に「瀧川氏居城の跡なりといふ」と見える。東側の滝川城が滝川氏の本城と伝わる。市指定史跡。

一族から出て織田氏の重臣として活躍した滝川一益(かずます)のゆかりの城としても知られる。

織田信長の四天王と称され、特に伊勢平定や関東進出に絶大な貢献をした滝川一益を輩出した滝川氏の本城と伝えられ、市史跡に指定されている。

滝川城は檪野川南岸の丘陵に所在し、滝川一益が一時居城したとも、生誕地であるとも伝えられる。

1570年織田氏の六角氏追討戦で一益の同胞の甲賀武士は滝川城に籠城し、六角氏に味方した為、滝川一益が甲賀武士を攻める大将として選ばれ、親族同胞と戦い滝川城を落城させ甲賀武士団を壊滅させた。

滝川城は、戦国の世の習いを語り継ぐ悲話の城である。

滝川城主滝川氏の支城として築かれたと思われるが詳細は不明。

路上駐車位置滝川支城遠景

 道案内

R1「蟹が坂」南下~県道129号約5Km先左折南下~県道131号約2.3Km先分岐右折すぐ櫟野川を渡る~約350m先右折「大甲賀CC」方面~約120m先目前の丘陵上。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭

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滝川西城 近江国(甲賀)

2014年07月21日 | 丘陵城

 滝川城と滝川西城は甲賀市櫟野(いちの)の下集落の南西、櫟野川を隔てて南の丘陵に東西に並ぶ。

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町櫟野字五反田 (甲賀郡甲賀町櫟野字五反田) map:http://yahoo.jp/iDkGNK

現 状::山林

遺 構:曲輪・土塁・堀切・溜池・案内板

区 分:丘城城

築城期:室町時代

築城者:滝川氏

目標地:

駐車場:城の北西、山王神社遺跡が空地

訪城日:2014.7.21

城の北西、山王神社遺跡が空地

城の北西、山王神社遺跡から直登し、土塁上を東進した。

お城の概要

滝川城主滝川氏が築いた支城だと考えられる。滝川城ととなり合って建つ城。

滝川城よりやや広く縄張も多少複雑になっているが基本はかわらない。

滝川西城は、甲賀町櫟野のうち、下組集落の南西丘陵先端に所在する。櫟野川寸前まで張り出した丘陵先端部は2つに派生していて、東側が滝川城、西側に滝川西城が並んで櫟野川沿岸平野部を見下ろしている。

内部は耕地化により大きく改変を受けていると思われ、本来の姿が判断しづらい。大きく分けると、4つの曲輪からなるが、基本を土塁囲みの単郭方形と考えた場合、主郭1の南東隅、南西隅の土塁は本来繋がっていたが消失したと考えられる。4はとなり合う滝川城との一体運用に備えた腰曲輪と考えられるものの、2・3は後世開墾された削平地とみるべきか。曲輪ⅤⅣの北端からは簡単に侵入できることから城道が改変を受けて広がってしまったもの、もしくはもう少しコンパクトな腰曲輪だったと考えられる。

主郭1には滝川城同様に大きな溜池があるが、耕作用に後世作られたもののようである。土塁西辺の開口部も破壊道とみられる。

歴 史 

大原荘の東部、櫟野一帯に蟠踞(ばんきょ)した滝川一族の本拠に関わる遺跡で、『近江與地志略』に「瀧川氏居城の跡なりといふ」と見える。東側の滝川城が滝川氏の本城と伝わる。市指定史跡。

一族から出て織田氏の重臣として活躍した滝川一益(かずます)のゆかりの城としても知られる。

織田信長の四天王と称され、特に伊勢平定や関東進出に絶大な貢献をした滝川一益を輩出した滝川氏の本城と伝えられている。

滝川城は檪野川南岸の丘陵に所在し、滝川一益が一時居城したとも、生誕地であるとも伝えられる。

1570年織田氏の六角氏追討戦で一益の同胞の甲賀武士は滝川城に籠城し、六角氏に味方した為、滝川一益が甲賀武士を攻める大将として選ばれ、親族同胞と戦い滝川城を落城させ甲賀武士団を壊滅させた。

滝川城は、戦国の世の習いを語り継ぐ悲話の城である。

車位置ここに下城した。

道案内

R1「蟹が坂」南下~県道129号約5Km先左折南下~県道131号約2.3Km先分岐右折すぐ櫟野川を渡る~約440m先左折し橋を渡る~約100m先左手南側の山中。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭

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西ノ口城 近江国(甲賀)

2014年07月21日 | 平城

 

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町神字西  (甲賀郡甲賀町神字西)  map:http://yahoo.jp/MErQjJ

現 状:佛性寺・公園

築城期:

築城者:

初城主: -

区 分 :平城

遺 構 :土塁

目標地:佛性寺・大原薬品工業工場

駐車場:佛性寺・地区公民館公園

訪城日:2014.7.21

  

お城の概要

西ノ口城は、奥殿城から南方に約200m、大原川の形成する段丘が落ち込む寸前の位置、現在は小さなお堂だけの佛性寺と、遊具が設けられた広場になっている区画に比定される。

お堂背後の南東路地沿いには土塁1mの微高地が見られるが、近年道路拡幅で削平されている。

奥殿城とは非常に近い位置にあり、両者に何らかの関連があると考えられる。

寺の本堂裏手に僅かに土塁が残るお城。

歴 史

西ノ口城は、築城年代や築城者等詳細不明であるが

同集落に、殿屋敷城とも東西に貫通する主要道に隣接する。同様の複数城郭遺構の存在した可能性を残す。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭

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