城郭探訪

yamaziro

野田館 近江国(浅井)

2014年07月05日 | 居館

野田館
 現在個人宅
お城のデータ

所在地:長浜市野田町      (旧東浅井郡浅井町野田)   map:http://yahoo.jp/C-JrNP

現 状:集落・田畑

区 分:居館

遺 構::土塁・堀跡

築城期:

築城者:野村肥後守カ

目標地:野田会館、西照寺

駐車場:西照寺の駐車場

訪城日:2014.7.4

 

   

 田根小学校の東に

「野田隕石落下」大正十年一月二十五日  

  http://yahoo.jp/6UMJoZ

野村肥後守李光  國友城主 同兵庫頭定光冨藤新太郎

佐々木の麁流佐々木満経の後胤なり 永禄七年長政美濃乱入引取の時御影寺川合戦に李光自身鑓をもつてはたらき、稲葉助十郎と名のり討てかゝるを十文字の鑓ニてかけ倒し助十郎を討取、姉川合せんより以来織田と戦ひ宮部の城をせめて功あり、長政生がいのゝち織田につかへ本領安堵す

五先賢の館HPより城・館の位置・配置

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

  本日も訪問、ありがとうございました。感謝


小室城 近江国(浅井)

2014年07月05日 | 居館

 

お城のデータ

所在地:長浜市小室町     (旧東浅井郡浅井町小室)  map:http://yahoo.jp/dQIoJK

別 名:小室陣屋

区 分:陣屋(居館)

現 状:集落・山林

遺 構:井戸・石碑

築城期:江戸期慶安元年(1648)

築城者:小堀政之

目標地:日吉神社

駐車は路上駐車(日吉神社前周辺)

訪城日:2014.7.4

重臣和田宇仲邸跡の井戸 弥勒堂

お城の概要

小室城は、茶人・作庭の名手として有名な小堀遠州の子孫がいた陣屋跡である。現在遺構らしきものは井戸程度で皆無に等しい。それでも数年前までは東方の堀跡付近に土塀が現存していたようであるが、それも老朽化により消滅してしまった。

  城跡は、荒れ果てた杉林となり、城(陣屋)の面影は全くなく、城址碑2基と案内板が建つのみだ。
背後に山を控えたこの奥地に小堀遠州の嫡男が藩を開いたのかと思うと感慨深いが、小堀家の末路と...何とも物悲しい。

今の小室集落はほぼ家臣団の屋敷があった場所に形成されているが、集落北東の領主の居た御屋敷跡は山林となり城址碑が建っている。

それもなぜか石碑は2つも建っている。

近年南東の草野口門跡付近に大きな案内板が建てられた。 また移築された現存門が2基残っている 

IMG_0135小室城説明板  
 http://yahoo.jp/Cf4RCF

  小室城は、正保4年(1647)に、千利休・古田織部とともに三大茶人として、また、江戸幕府の作事奉行をつとめた小堀政一(遠州)の遺領を継いだ政之によって慶安元年(1648)に築かれた居館である。
以後、政垣・政房・政方と継いだが、政方の代に伏見奉行在職中の苛政を理由として、天明8年(1788)に改易された。
小堀家の居館や家臣の住居などは、寛政元年(1789)に大津代官所によって競売され、城は廃された。
そして、同年には跡地の荒地を開墾して畑とするように命ぜられている。
『現地説明板より』

 城址碑の側、林の中へ入って行くと、かなり立派なもう一つの石碑と周辺の案内図が紹介された案内板がある。  

  背後の土段

小室城は、慶安元年(1648)、茶人として名を馳せた小堀遠州(政一)の遺領を継いだ嫡子正之により築かれた小室1万1000余石の陣屋である。

小室城は正之以後5代続くが、天明8年(1788)政方(まさみち)のときに、伏見奉行就任中の専横を理由に改易となり、陣屋も廃止された。

日吉神社

登城路・・・まっすぐ進むと左側に石碑が!駐車可能スペース

五先賢の館HPより城・館の位置・配置

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

 本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 
 
 
 
 

瓜生館(海北氏館) 近江国(浅井)

2014年07月05日 | 居館

 

お城のデータ

所在地:滋賀県長浜市瓜生町241  (旧東浅井郡浅井町)  map:http://yahoo.jp/yVeY4H

別 名:海北氏館

現 状:集落

区 分:居館

遺 構:堀痕、土塁痕

築城期:織豊期

築城者:海北善右衛門

目 標:珀清寺・瓜生会議所

訪城日:2014.7.4

お城の概要

瓜生集落のは、小谷城に近く海北氏の采配地に居館を、西池からの川(灌漑水路)を前堀に。

集落内の土塁痕が散見できるが詳細不明。

 

瓜生公会堂 

 お城の歴史

安土桃山時代を代表する画家・海北友松の家に伝来した「海北家由緒記」によれば、友松の父・善右衛門綱親は、近江坂田郡の出身で天正元年(1573)の小谷落城の折、戦死したと記されている。

海北家は浅井氏の家臣であった。「浅井三代記」にも「海北善右衛門尉」の名が、亮政時代から見えている。他にも幾つかの古文書に海北家は北近江の出身である、と記載されたものがある。

一方・海北家に伝来した「海北友松夫妻像」(重文)は、その子友雪が描いたものだが、その賛文に海北家が坂田郡大原庄の地頭大原重綱の末裔と記している。しかし、大原には海北家の館跡と伝える場所は無い。小生が瓜生町の珀清寺から頂いた「海北友松とその族」(先の住職・海北顕英 著)には、「江源の嫡」として大原氏を尋ね、その枝・白井氏を訪ねるも実を結ばず、様々な角度から祖先「友松」の足跡を探した。

「淡海木間攫」や「江州佐々木南北諸士帳」などによると、浅井郡瓜生に海北善右衛門という浅井氏家臣が居住していたと記している。その館跡は集落中心部にあったと推定するが、明確には判らない。ただ同地の珀清寺は友松の末裔であると伝えており、今は海北家館の所在地は浅井郡瓜生町(現・長浜市瓜生町)が有力である。

海北 綱親(かいほう つなちか)、永正7年(1510年) - 天文4年(1535年)、天正元年?(1573年?))は、戦国時代の武将。浅井氏の家臣。善右衛門。子に友松。

赤尾清綱や雨森清貞と海北 綱親ともに「浅井三将」と称され、浅井家3代にわたって仕えた重臣で軍奉行を務めた。

 天正元年(1573年)小谷城が織田信長に攻められて落城した時に討ち死にしたとされる。綱親は智勇兼備の武将で、羽柴秀吉にもその実力を恐れられ「綱親こそが我が兵法の師である」と言わしめたとされる。

近年、その死亡時期をめぐり異説が出ている。天正元年の織田氏による戦死の根拠として、友松の子友雪が描き、更にその子の友竹が賛を付け紙した「友松夫妻像」(個人蔵)での記述によるもので、この記述が『本朝画史』にも採用され以後長く定説とされた。しかし、友松の血を引く郷土史家の研究によると、通説より40年以上前に出された敵側の感状に、浅井亮政が京極氏家臣・多賀貞隆を攻略した際に綱親は討ち死にを遂げたと書かれており、この食い違いは友竹が綱親と同じく善右衛門を名乗った綱親の嫡男とを混同したためと考えられる。

綱親の四男が瓜生に帰農したことから、この地が綱親の本拠地だったと推定される。

五先賢の館HPより城・館の位置・配置

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、ウィキペディア

 

 

 

 本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 


田根城 近江国(浅井)

2014年07月05日 | 居城

主郭付近

お城のデータ

所在地:長浜市高畑町       (旧東浅井郡浅井町)   map:http://yahoo.jp/1MQoGM

現 状:集落

区 分:平城

遺 構:曲輪・土塁・空堀・堀跡

築城期

築城者

目標地:高畑会館・飯田寺

訪城日:2014.7.4

  土塁痕土塁痕

お城の概要

田川を西側の堀(堀川)に、土手を土塁に防衛体制?

飯田寺の前の道沿いに土塁の痕跡のような土の盛り上がり箇所が二箇所ほどありました。

集落全体が城域か、近年宅地化で遺構破壊か?

飯田寺 

お城の歴史

詳細不詳

 田川の堤防内・・駐車可 高畑会館・・・駐車可五先賢の館HPより城・館の位置・配置

 

物部守屋大連公について
浅井町畑に鎮座される、式内社波久奴〈はくぬ〉神社の御祭神は物部守屋大連公で、田根の庄15ヶ村の総社で地元では、守屋公が此拠に祀られていることを確信し、1,400年来崇められている。

ところが約80年程前、当時の東浅井郡役所が中心になって編纂された、東浅井郡史の記事には、守屋大連は用明天皇2年7月3日に河内の国渋川郡衣摺〈きずり〉(現東大阪市衣摺)にて迹見赤檮〈とみのいちい〉のために射殺されたとなっている事疑うべからず。

守屋公の墓は河内の国龍華寺にあり、田根に逃れて来たとは、妄誕〈もうたん〉信ずるに足らず、と記されているが、引用せられた古事記・日本書記は天武天皇が太安麿に命じて作られたもので一方的で近江勢には、悪く記載されている事は近年識者の認めるところである。
またその外波久奴神社について、四ッ程の説を述べて置かれるが、いづれも著者の主観によるものと思われる。

当地に伝わる波久奴神社の由緒は、正徳7年(997)の萩野詞記と言う1,800字に及ぶ難解の漢文を、後世訳文されたものをごく簡単に要旨だけを記すと。

神仏論争中の蘇我氏と物部氏の対立は、皇位継承の争いで端を発し蘇我氏達に攻められて、退いて防戦したが、利あらず味方は殆ど創き最早是迄と言う時に、従者の漆部巨坂〈こさか〉が公の身代わりとなり此の地に防ぎ留り故に衣服を賜りたいと乞う、弟の小坂も強く勧めて、主従二人で落延びる事になり、伊勢路を経て采地〈さいち〉の北近江に入り村の長、馬父地〈まぶち〉を尋ね、事の次第を告げし處、追手の目を逃れるため、小谷山東側の巌窟に御案内し食事を運びお隠し申した。

日が経って小坂をして大和の情勢を調べたところ、聖徳太子の善政により、平穏になっていると聞き、最早都には用がなく、萩の繁る野に庵を建て土地の人に読み書きや水利、治水の事等いろいろ教えたので村人から、亡き後祠を建てお祀りして敬ったと伝えられる。

この萩野詞記を裏付けることを三件ばかり挙げると。
時の従者小坂と村の長、馬父地の後裔が今以って由緒により奉仕を続けて居られる。
丁度この事とよく似た事は、郷土の先哲、相応和尚のゆかりで大津葛川明王院を尋ねたとき、昔和尚を山中の三の滝へ案内した、常満・常喜の二家がずっと千余年も明王院を守り行事に携わって居られる事。

又途中村の宮腰家は夏安居の息障回峰の折立ち寄られる、多くの修行者に家を開放し、食事を饗応される事がずっと58代も続いているそうである。

次に守屋公が隠れ住まわれた巌窟は本宮と称し、故事に因んで昔から10月には神送りの儀、又2月初亥の日には御迎えの儀が続けられている。
昔から旱魃が続くと、雨乞祈願するも雨がない時は、氏子15ヶ村協議して、一斉に宮鉦を叩きながら長い道中を本宮まで参り祈願する、俗に本宮参りと言う雨乞行事が戦前までは度々行なわれた。

最後に西池のことであるが田根の庄は谷が浅く谷水だけでは田が養い難く、20数個の溜池があるが、西池は特に大きく面積も10ヘクタールに及び高畑、瓜生郷60ヘクタールを潤す大きい池である。
天然の地形を利用して堤を築き、千余年の間災害もなく、誠に秀れた工法の池であると言われている。

先年水鳥保護のため、池の北部に休息地の中島を作るのに、大阪の超大型のショベルカーによる土盛した業者が「こんな古い泥は今迄全国中仕事しているが3例目だ」と千年以上前に造られた事が証明された。

以上で我々氏子の崇拝する萩野大明神は物部守屋公であると言い伝えを信ずる所以である。昔から「言い伝えは作れないが、書いた物は後でも出来る」と、言われた事を成る程と思う。

(浅井町高畑  矢守)http://ohmikairou.org/col28.html

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

 本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!