城郭探訪

yamaziro

高嶺中城繋ぎ城  近江国(甲賀)

2014年07月12日 | 丘陵城

 

城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町高嶺  (旧甲賀郡甲賀町高嶺)  map:http://yahoo.jp/nVt0Cq

目標地:福明寺

区 分:丘城  

標 高:255m  比高差:30m 

現 状:山林

遺 構:土塁・堀切・郭・竪堀

築城期:室町期

築城者:高峯蔵人

駐車場:福明寺

訪城日:2014.7.12

お城の概要

基本構造は、中心に曲輪Ⅰと周辺に曲輪Ⅱ・Ⅲからなる。

曲輪Ⅰは、東西40m×南北50mの長方形に近く土塁が四方に構築され丘陵続きとなと南側は高さ3mを超える。主郭に接する北西・南西に派生尾根上に削平された曲輪Ⅱ・Ⅲを認める。曲輪Ⅲは規模も南北20m×東西40mを図る。曲輪Ⅰは、南側の堀切は大規模で、土橋状遺構も確認できる。両端には竪堀になって斜面をくだる。

虎口cの外に曲輪Ⅱあり現状急勾配で主郭の付属遺構と考える。

歴史

この高嶺の地区六城(高嶺北城・高嶺中城・高嶺東谷城・伊賀見城・高嶺山城・高嶺南城)の本城と考えられる城で、高嶺氏の城砦郡であり、高峯蔵人の城と言われます。

高峯氏は伊賀との国境を守るため、六城を構築したようですが、天正年間に滅びたとされるようです。

高嶺中城 遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

                          本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 

 


高嶺北城(高峯氏本城) 近江国(甲賀)

2014年07月12日 | 戦国山城

  

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町高嶺小字山ノ7上  (旧甲賀郡甲賀町高嶺)  map:http://yahoo.jp/brxJt8

目標地:天理教高嶺分教会・高嶺西バス停

区 分:丘城  

標 高:265m  比高差:40m 

現 状:山林

遺 構:郭・土塁・堀・堀切

築城期:室町期

築城者:高峯蔵人

天理教会近く道沿いから10分

訪城日:2014.7.12

お城の概要

 民家の横から入らせてもらえました。城は主郭を中心に北・西・南東に副郭を持っていて、

南東の郭との間に長い堀、北の郭との間、西の郭との間に短い堀が確認できます。

北の郭の先には明瞭な二重堀切もあり、これは見応えあります。 主郭は土塁が巡り、西と南に虎口がありますが、南の虎口付近からスロープ状に道があります。

  

 史

この高嶺の地区六城(高嶺北城・高嶺中城・高嶺東谷城・伊賀見城・高嶺山城・高嶺南城)の本城と考えられる城で、高嶺氏の城砦郡であり、高嶺蔵人の城と言われます。

高峯氏は伊賀との国境を守るため、六城を構築したようですが、天正年間に滅びたとされるようです。

甲賀二十一家の1つ。

・同名中惣

 これは五十三家の各々の氏族ごとに代表者を選出し、本家分家等同名の一族が参加して、多数決で氏族ごとの案件を決定していました。

天理教会 高嶺西バス停(中央に登城道…個人宅)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 

<六角氏と甲賀衆の関係>

 釣の陣(足利幕府が近江佐々木六角氏討伐)と甲賀五十三家について記す前に、少し歴史をさかのぼって、応仁・文明の乱に触れる必要があります。

 応仁の乱で室町幕府の力が弱まるとともに、各地の荘園体制が崩壊しここ近江の地でも佐々木六角氏(六角高頼)が近江国内の寺社・公家・幕府領を押収し続けたため。応仁の乱以降弱った幕府ではあったが、遠方まで遠征する力は無いものの近郊の近江程度は征伐軍を発する力があり、長享元年(1,487年)将軍足利義尚ひきいる軍勢が、栗東にある安養寺に陣をひき戦いを始めました。

 幕府側の陣が置かれた真宝館(現永正寺)は、この戦いを「釣(まがり)の陣」と言われています。

 足かけ三年にわたる戦いで足利義尚はこの陣で亡くなり、戦いは終わるのですが、六角氏は居城の観音寺城をすて甲賀にある甲賀城へ逃げのび甲賀衆(甲賀五十三家)の助けを受けて有利に戦いを進め、幕府側を大いに痛めつけます。

 甲賀衆は夜襲や山間部での戦い、この戦いが甲賀衆(甲賀忍者)の強さを全国に知れ渡るきっかけになったと言われています。その中でも特に功労のあった二十一家を六角氏は後に功労を与えたと言われ、この二十一家が甲賀二十一家と言われています。

 甲賀衆を記したものとして、貞享年間(1,684~7)に編纂された近江の地誌『近江淡海温故録』によると。

甲賀武士は、累代本領を支配し、古風の武士の意地を立て、過奢を嫌い、質素を好み、大方小身故に地戦計りに出つ。然れども一分一並の武勇は嗜み、故に皆今の世迄相続し、家を失わず、国並みの家々とは格別の風儀なり。世に甲賀の忍の衆と云うは、釣の陣に神妙の動あり。日本国十の大軍眼前に見及び故、其以来名高く誉れを伝えたり。元来此の忍の法は、屋形の秘軍亀六の法を伝授せし故なり。其以来、弥鍛錬して伊賀甲賀衆誉多し、甲賀五十三家の目あれど、其家詳ならず伝々。


 甲賀は都に近く情報が入りやすわりには、山間部にあり、そして常に合戦に
関ってきた経験は、後の世に「甲賀者」呼ばれる、「忍者」に発展する素地を備えていたものと思われる。

<甲賀二十一家>

 山中家 伴家 美濃部家 黒川家 頓宮家 大野家 岩室家 茶川家 隠岐家 佐治家 神保家 大河原家 大原家
 和田家 上野家 高嶺家
 池田家 多喜(滝)家 鵜飼家 内貴家 服部家 

<甲賀五十三家>

上記二十一家に加えて

 小泉家 倉冶家 夏見家 杉谷家 針家 小川家 大久保家 上田家 野田家 岩根家 新城家 青木家 宮島家 杉山家 葛城家 三雲家 望月家 牧村家 八田家 高野家 上山家 高山家 守田家 嵯峨家 鳥居家 平子家 多羅尾家
 土山家 山上家 饗庭家 長野家 中山家