駒札は倒され説明もない。
城のデータ
所在地:甲賀市甲賀町大原中字甲斐屋敷 (旧甲賀郡甲賀町大原中字甲斐屋敷) map:http://yahoo.jp/7K2LcT
別 名:甲斐屋敷
目標地:JAこうか甲賀
区 分:平城
現 状:宅地・市道ほか
遺 構:曲輪・土塁・空堀
築城期:室町期明応年間(1492~1501)
築城者:垂井甲斐守
駐車場:JAこうか甲賀
訪城日:2014.7.14
郭の内側通路(見学者?当主)
お城の概要 甲賀市史(甲賀の城)より
垂井城は、甲賀町大原中のうち、大原川とその支流上田川に囲まれた南集落内に所在する。
縄張内には市道が貫通し、民家が立ち並ぶ中で、完存ではないが、遺構が残る。
縄張は、個人宅となっている曲輪Ⅰと、市道が貫通しているので曲輪とは思えないⅡが、等質で横並びに配置されている。
曲輪Ⅰは東西約40m×南北約60m、曲輪Ⅱは東西約50m×南北約70mで空堀dを共有し、空堀dの両サイドに残る土塁は、ほぼ往時のままの姿をとどめ、aは約6m、eは約4mの高さを誇る。
空堀dは、幅が平均約10mのかなりの規模で、南方は宅地化しているが、北側は東西両側へ廻っていたが途中まで確認できる。
曲輪Ⅰの虎口は南辺のcであり、北辺も現在は枡形状の民家の勝手口になっているが、本来の虎口であったかは不明である。
北東から東辺の塁線には土塁の基底部跡と思われる段差が残る。曲輪Ⅰの東隣りの宅地も城の一部であったのかも知れない。
曲輪Ⅱは東辺に土塁e、西辺の上田川沿いに土塁g、南辺の現在祠の建つ土塁fがそれぞれ途切れながら残っている。
曲輪ⅠとⅡは空堀dを共有しているものの、それぞれが独立したような縄張であり、別個の城郭であった可能性が考えられる。
歴 史
垂井城は、『甲賀郡志』によると、明応年間(1492-1501)に垂井甲斐守が築いたとされる。
垂井氏は、甲賀五十三家に数えられた大原氏の庶流である。
甲斐守であるが、大原家村が垂井を称しているので、その一族であろうと思われる。
家村は盛景の孫にあたり、子に為家(源三)がいる。為家が長享年間にこの地を支配し、戦功著しく甲賀21家の一つに数えられている。
為家の子は家親、その代に加津井を名乗り、勝井氏の祖である。
大原源三(文書によっては源三郎)は鈎の夜襲で功を上げ甲賀21家に数えられている。勝井氏系図によれば、盛景の子家朝の筋で父は家村(垂井四郎)である。家村は大原中の甲斐屋敷(垂井城跡)の主であり油日神社の「油日神社再建奉加帳」に「垂井甲斐守」の名がみえる。その家村の子に家貞、為家、惟家の兄弟があり、為家が大原源三のことである。源三は戦国期には大原中の他大原市場、高野等を領有した。系図は
盛景――家朝――家村――為家――家親――景重――景信――景吉――景福――景就――景之――景當――景元
と続く。この中の家親は加津井五郎と称し、また、その子景則、その弟景重の時勝井と改姓する。勝井家の祖である。なお、大原数馬家系図では、数馬家は源三の弟惟家の系統であり、甲賀組の篠山氏は、同家の系図によれば、家村の兄良信の系統である。同族でありながら系図に違いが見られる。
竹林が生い茂っているが土塁は四方に残存しており、しかも3mを超える高さである。
郭内から水濠見える
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城
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